『幸福な一日・1』


 牧さんが大学生になった。それはつまり、ひとつ年下の俺が高校3年生――受験生――になったということだ。
 俺はてっきり、牧さんはエスカレーター式で私立海南大学に進学するものだとばかり思っていたのだが、この人はそうはしなかった。進級試験は受けたものの海南大学に進まないと意思表示してからは、当然のことながら他大学から推薦の話がいくつも舞い込んだらしい。それなのに牧さんはそれらすべてを断って、猛勉強の末、自力で都内の大学にストレートでの合格を決めてしまった。
 俺が牧さんへのアプローチを仕掛けたのはちょうどこの受験期で、牧さんが第一志望大学に願書を提出したのは、俺のアタック開始後という計算になる。
 牧さんが無事第一志望大学に合格してくれたから良かったようなものの、今にして思えば俺はとんでもないことをしでかしていた訳だ。ま、俺の告白に狼狽えて集中力を欠くような人なら、名門・海南大学付属高校バスケ部で3年間レギュラーの座を保持し、あまつさえ最後の年に主将を務めるなんていう偉業を成し遂げることは出来なかったと思うけど。
「どうして海南大、やめちゃったんです?」
「あー? なんか言ったか、仙道」
 水音にかき消されて聞こえなかったのか、そう訊き返してきた年上の恋人(牧さんにその自覚があるのかどうか、俺にはちょっと自信がないんだけど)は、1Kの狭いキッチンで身を屈め、洗い物をしている最中だ。
「どうして海南大やめちゃったんです?」
 その背へ俺がもう一度同じ問を繰り返すと、
「考えてもみろ。あそこに行ったら高校の3年間とほとんど変わらない面子で、また、しかも今度は4年間バスケだ。いいかげん違うメンバーでバスケがしたかったんだよ」
「だからってなにも他校(よそ)の推薦蹴ってまで⋯⋯」
「受かったんだし別にいいじゃないか。それにな、自分の実力試してみたかったんだ。⋯⋯頭脳(あたま)の方の」
 牧さんの声はかすかな笑いを含んでいる。済んでしまったことを、しかも自分のことでもないのに気に掛けている俺が可笑しいのだろう。
 そりゃあ牧さんにとっては笑い話で済むことなんだろうけど、俺にしてみれば本気で笑い事じゃ済まなくなるところだったんだ。ホント、これで牧さんが合格してくれてなかったら、どうなっていたことやら。後になって聞いた話だけど、牧さんは滑り止めも、その願書すら送っていなかったらしい。つまり第一志望大学1校のみの受験だったのだ。俺はそれを聞いたとき、心臓が止まりそうに驚いた(滅多なことでは動じないと自負しているこの俺が!)。牧さんらしいといえば確かにそうなんだけど、俺の寿命を縮めるにも程がある。だいたい受験日当日に体調がすぐれないなんてことだってあり得るのに。でもそれを口にしたら、牧さんは、健康管理も自分で出来ないようならキャプテン失格だ、と言ってやっぱり笑っていた。
 今日は4月の第二土曜日。牧さんの入学式が済んでまだ3日しか経っていない、初めての土曜日だ(でも牧さんは、入学前の3月末から大学のバスケ部の練習に参加していたらしい)。牧さんの通う大学は土日が休みで俺も今日は学校が休みだったから、牧さんが一人暮らしを始めた都内の学生アパートに、牧さんの手料理をご馳走になりにお邪魔している。
 いま牧さんが洗っているのはラーメンをよそった二人分のどんぶりだ。牧さんが作ってくれたラーメンにはネギも入っていたしチャーシューも乗っていたし、卵も落としてあった。でも、なるとを切らしていて、尚且つ代わりのかまぼこも見当たらず、それが牧さんには不覚だったらしく、食べ終わるまでしきりにぼやいていた。曰く、なるとの浮いていないラーメンはラーメンとは言えない。それはいちごの乗っていないショートケーキと同じだ、と。牧さんの料理へのこだわりである。
 俺にしてみれば、牧さんが作ってくれるものなら別になんだって良かったんだけど。
「牧さーん、牧さんはどうして一人暮らしすることにしたんです?」
 どんぶりを濯ぎ終わって、そのまま麺を茹でるのに使った鍋を洗い始めた牧さんに、俺はそう尋ねた。
「んー? 最初は寮に入ろうかとも思ったんだけどな。もう3年も寮生活は経験したし、今のうちに一人で何でもやれるようになっとかないと大学出てから苦労するかと思って⋯⋯」
 ときどき力を込めて鍋をこすっているようで、答える牧さんの声もその力加減に合わせ不規則に強弱がつく。
「ふーん。じゃあ不満はないんですか?」
「あー⋯⋯、そうだなあ。強いて言うなら風呂かな。ここユニットバスだろう? 狭いんだよ、結構」
 俺も牧さんも、日本人の平均値を優に越すガタイをしている。ただでさえ狭い学生アパートのバスルームは、正直窮屈なのだった。おまけに高校の寮で3年間広い風呂を使っていた牧さんにしてみれば、余計にその狭さが際立って感じられるだろう。
「たまには銭湯にでも行くかなあ⋯⋯」
「ええっ!? だっ、ダメですよっ、そんなの!!」
「何が、どう、なんで、ダメなんだ? おまえに迷惑をかけるようなことは何もない筈だが?」
 ゆっくり湯舟に浸かりたいだけじゃないか、と呆れ貌で牧さんが振り返る。
「だってッ、牧さんのヌー⋯⋯うわっ」
 俺が皆まで言わないうちに、キッチンから豪速球のストレート、硬く絞られた布巾が顔面めがけて飛んで来た。
 ワンストライク!
 が、俺はそのくらいのことじゃ黙らない。
「だってだってだってっ、俺だって見たことないのにっ。見も知らぬ誰かに⋯⋯」
 尚も畳みかける俺に、
「それ以上言うなあっ」
 茹でダコみたいに耳まで真っ赤にした牧さんは、そう叫んで再び、今度は洗剤の泡がついたままのスポンジを投げて寄越した。
 ツーストライク⋯⋯。
「だっ⋯⋯だいたいなあっ、風呂なら、い⋯⋯一緒に入ったろうが!去年の夏にっ、全日本の合宿でっ」
 何を今更そう騒ぐんだ、と赤くなったままの牧さんはしどろもどろ、息を切らして力説する。
 そうなのだ、確かにあのときに見た牧さんのヌー⋯⋯じゃない、素肌はそりゃあもう感動的に綺麗だった(俺にとってはね)。でもそんなこと口に出そうものなら、今度こそ間違いなく鉄拳が飛んで来るから黙っとくけど。牧さんの本気のパンチはかなり効くのだ。さすがスポーツマン。
「そうでしたっけー」
 俺は取り敢えずすっとぼけた返事をして、話題転換のためのネタを探した。あまりこのテの話題を長く続け過ぎると牧さんは本気で怒り出してしまって、そうなると見逃し三振、この部屋から追い出されてしまうことになる。
 仏の顔なら三度までOKなんだけどね。
「あれっ、牧さんバイトするんですか」
 キョロキョロと部屋を見回していた俺は、食事をしたときに使った、冬にはコタツになる台の下にポンと置かれていたアルバイト情報誌の存在に気が付いた。
 ちょうど洗い物を終えて手を拭いながら部屋に戻って来た牧さんに、雑誌を掲げてみせる。
「ああ、それな。あんまりいいのがなくってさ。部の先輩が紹介してくれるって言うから家庭教師でもやろうかと思ってる。時給もいいし」
「牧さんが家庭教師!?」
「なんだよ、そんなに意外か?」
 俺が素頓狂な声を上げたものだから、牧さんはちょっとむくれた。別に意外だった訳ではないのだ。それよりもむしろ⋯⋯。
「それならっ、俺の家庭教師やってくれません?」
「はあっ!? なに言ってんだ、おまえ⋯⋯」
「だって⋯⋯」
「だって、じゃないだろ。おまえ勉強できるんだし、第一バスケで推薦取れるに決まってるじゃないか」
 牧さんの言うことは正しい。後半の、推薦が、というあたり⋯⋯。でも俺には心に決めていることがあったのだ。牧さんの進学先が決定したその日から。
「俺の行きたい大学、推薦ないんです」
「⋯⋯どこ狙ってるんだ?」
 俺はひとつ大きく深呼吸した。
「牧さんと、同じ大学」
「!!」
 牧さんは俺を凝視し、そして絶句した。






 3年生に進級した途端、土日に入る模試の回数がいきなり増えた。あげく月に一度は学外模試か学内模試でテスト漬けの日々になるらしい。年間の行事予定表を貰って、俺は思い切り仰け反った。それまではふたりのオフのとき、ほぼ毎週公園で牧さんとバスケができたのに、その回数が減ってしまうことになるじゃないか! 俺にとっては正に踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂、である。
「もお~、ヤんなっちゃいますよー」
 牧さんにそう訴えたら、
「みんな一度は通る道なんだから、1年くらい我慢しろ」
と、逆に諭されてしまった(笑いながら、だったけど)。
 バタバタと慌ただしく4月は過ぎて今日はもう5月。GWの初日だ。なのに外は生憎の小雨で、本当はバスケをするつもりで俺を誘ってくれたらしい牧さんだったのに、結局ふたりしてアパートの部屋に閉じ込められてしまっている。
「まーきさんっ」
「ん?」
 呼べばすぐ振り向いてくれるけど、なんだか今日の牧さんは言葉数が少なく、じっと窓の外を眺めている時間が長い気がする。
「考え事ですか」
 遠慮がちに声を掛けてみたら、
「んー」
 窓際から俺の方へ移動して、牧さんは火燵台の側に腰を下ろした。そしておもむろに口を開いた。
「仙道、この前おまえウチの大学受験するって言ったよな。アレ本気か?」
「ひっでえっ。牧さん信じてなかったんですか!?」
 思わず叫んでしまった俺をなだめるように手で制して、
「や、そういう訳じゃないんだ。そうじゃなくて、確認しとこうと思って⋯⋯」
「⋯⋯?」
 じっと自分を凝視める俺の視線が恥ずかしいのか牧さんはそっぽを向いて、それからまたゆっくりと言葉を継いだ。
「仙道、俺がなんで海南大に行かなかったか知ってるか?」
「え? ⋯⋯ああ、だって牧さんこのまえ自分で言ったじゃないですか。高校のときとは違うメンバーとバスケがしたかったからだって」
「うん、それもある。それもあるけど、本当はもうひとつ理由があったんだ」
 背けたままの牧さんの横顔のその頬が、心持ち赤くなっているように見えた。
「俺が海南大に進んだら、おまえが⋯⋯」
「え、お⋯⋯俺?」
「そう、おまえが⋯⋯、その⋯⋯受験しにくいんじゃないかと⋯⋯思ったんだ」
 海南大(あそこ)はエスカレーター式で入学するヤツが殆どで閉鎖的だから、という牧さんの言葉を、俺は最後までは聞いちゃいなかった。そして恐らく理性が言葉の内容を理解するよりも先に、感性が身体を突き動かしていた。
「牧さん!!」
 思わず抱き着いた俺を、牧さんはいつもそうするようには殴らなかった。
「おまえのことだから俺と同じ大学受験するって言い出すんじゃないかって、ちょっとだけ思ってたんだ。⋯⋯それって、俺の自惚れじゃなかったんだな」
 と言うことは、あの日の牧さんの『絶句』は、予期していなかったことに対する驚きではなくて、予期していたことが的中してしまったことに対するそれだったということか⋯⋯。
「ホント言うとな、家庭教師のバイトしようと思ったのも、その⋯⋯お金のためじゃなかったんだ」
「って言うと⋯⋯?」
 うん、と牧さんはひとつ頷いて、
「おまえがウチを受験するかしないかは別にして⋯⋯とにかく推薦は受けないって言って受験のとき困ったとしても、家庭教師やってれば、ある程度は今の学力キープしてられるだろ? そしたら何か俺にも教えられることがあるかと思って、な」
 言いながら、俺が至近距離で見つめている牧さんの顔は、どんどん赤味が増して行く。
「牧さん⋯⋯」
 こんな牧さんのぎこちなく控えめな愛情表現は、いつも俺の心を簡単に撃ち抜いてしまう。牧さんがそのことに気付いているのかどうかは判らないけど。
「おまえが本気でウチの大学受けるんだったら、俺が今から最後まで面倒見てやる。今ならまだ問題の傾向も覚えてるし」
 ホントはこのことが伝えたかっただけなんだ、と言って牧さんは、抱き着いたままの俺の背をポンポンと軽く叩いた。そして、だから今日は雨でも良かったんだ、と付け足した。
「じゃあ、俺の家庭教師引き受けてくれるんですね?」
「ああ」
 短く答えてから牧さんは、
「けど、バイト代はいらない」
と、言った。
「どうしてです?」
「おまえのご両親に頼まれた訳じゃないし⋯⋯そ、それに、おまえは⋯⋯」
 一旦顔を上げた牧さんは俺の目を見つめ、そしてまた視線を逸らした。
「俺はおまえと、つ⋯⋯付き合ってるんだよな? だったら勉強教えるのにバイト代なんか必要(いら)ないだろ?」
 最後の方は蚊の鳴くような小さな声で、赤くなったところを見られるのが嫌なのか、牧さんは俺の腕の中に顔を隠した。
「牧さん⋯⋯」
 何をどう言えば、胸中に溢れるこの感情を牧さんに伝えられるのか判らなくて、俺はただもう込められるだけの力を込めて、腕の中の大切な大切な人を抱き締めた。




 これから毎日だって牧さんと一緒にいられる。息抜きにバスケもできるよね?
 高校生活の中で一番辛い時期だと言われる3年生の1年間が、俺にとっては最も幸せな1年間になるのだろう。
「俺、頑張るから。頑張って絶対牧さんの後輩になるから」
「うん⋯⋯」
 ――期待してる。
 俺の腕の中で、牧さんはちいさくちいさく頷いた。



1996.11.10 脱稿/2023.02.05 微修正



・初出:『M』1996.11.10 発行