『96』 R18


 ――ふう。
 バウンドして返って来たボールを抱きとめ大きく息をついて、俺は体育館の壁に掛かった時計を見上げた。
 午後9時少し前。
 2年間という長いブランクを抱える俺は、これからIH予選が始まるまでの約一週間という短期間に、減量とスタミナアップを図らなければならない。しかしすぐに取り戻せた3Pシュートの勘とは違って、それらは時間をかけ量をこなさなければ得られないものだ。だから本当はもっと練習がしたい。が、そろそろ切り上げなければ、見回りに来る用務員にさすがに咎められそうな時間だった。
「おい、宮城」
 俺は反対側のゴールを使ってシュート練習をしていた後輩に声をかける。奴もまた俺同様、減量とスタミナアップのために連日居残りをしているのだ。だが俺達は一度として、共に練習したことがなかった。
「なんスか、三井サン」
「そろそろ上がんねーとマズイんじゃねーか」
 ――ああ、もうこんな時間かあ。
 宮城の低く嗄(か)れた、それでいて冴えた声が、音の止んだ体育館に予想外に大きく響く。
 俺は宮城の、この感情を読ませないしゃべりがひどく苦手だった。俺以外の部員と話すときには、あの桜木と変わらないくらい表情を露にする声が、俺とふたりだけのときにはその表情(いろ)を失う。
「片付けすンぞ」
「ウス」
 言葉ヅラでだけは先輩を装っている俺だが、実質的には権威も威厳も持ち合わせてはいない。殊、宮城に対してはそれが顕著になる。宮城は宮城で、俺に対して後輩のスタンスを保っているように見えるが、やはりそれは飽くまでも表面上での話だ。
 そのことを、俺達ふたりは口にしないだけでよく知っていた。
 それはいつ崩れてもおかしくない、あやういバランスの上に成り立っている関係だった。






 ボールを片付けフロアに軽くモップをかけた俺と宮城が部室に戻ったときには、もう9時を大きく過ぎていた。電車の時間のことを考えてそそくさと着替え始めた俺の動きを、宮城が汗を吸ったTシャツを脱ぐそぶりも見せずじっと凝視めていることに気付き、
「ンだ?」
 不機嫌な声音と眉間の縦皺とで奴を振り向けば、眠そうな腫れぼったい瞼を気怠げに開いた無表情で、宮城は両手を胸の前で組み、斜に構えて立っていた。
「三井サンってさあ、細いよなあ」
 語尾を引き摺る奴独特のしゃべりが、その内容よりもなぜか俺の警戒心に訴えかけてくる。
 宮城がゆらりと動いた、と認識するのと同時に、
 ――ガツッ。
 鈍い音を響かせて、俺の身体はロッカーに背中から押さえ付けられていた。
「み⋯⋯やぎ⋯⋯?」
 奴は手首から肘までを使って俺の胸板を押さえ込み、振り解こうと伸ばした俺の腕をもう片方の手で捻り上げる。
「おいッ!?」
 俺が見下ろした、奴のガーゼと絆創膏だらけの顔の中で、今度はしっかりと見開かれた双眸が電灯の明かりを映して鈍く光っていた。
 ――ヤバイ。
 脳裏で赤信号が点滅している。
 宮城は無言のまま、片足で俺の膝を割った。
 ――コイツ⋯⋯。
 宮城が何をしようとしているのか本能的に悟っても、俺には奴の動きを止めることが出来なかった。いや、止めることどころか、抗うことさえ出来なかった。
 俺に暴れる意志がないことが判ったのだろう宮城が胸板を押さえ込んでいた腕をはずし、脱ぎかけていた俺のシャツを床に落とす。奴の手が素肌をなぞり、既に穿き終わっていた制服のズボンのベルトのバックルへと移動した。
 やめろ、という言葉さえも飲み込み、俺は虚ろがかった目で天井の電灯が滲み始めるのを見ていた。恐怖からなのか屈辱感からなのか、俺の目には涙が溢れて来ていた。
 黙々と宮城は作業を続けている。
 抗うことは許されない。
 それは俺の、奴に対する負い目だった。
 こんな時に限って、俺の理性は感情を封じ込める。
 宮城はあの日のことを痛み分けだと言ったが、悪いのは一方的に俺で、しかも奴の負った身体的ダメージは、俺のそれよりも遥かに大きく深刻だった。単純に入院期間を比べただけでもそうと知れる。
 いつかこんな日が来ると、俺は頭のどこかで知っていたような気がした。宮城とふたりきりになることへの恐怖に近い感情は、そこから来ていたのかも知れないと今にして思う。宮城の無表情な声も眼も、すべては――。
 行為は続けられた。互いに何も言わぬまま。
 目を閉じれば触れて来る奴の肌の触感に意識を奪われる。それが嫌で、俺は最後まで目を見開き、睨むように天井を見上げていた。






 すべてが終わって宮城の支えを失った俺の脚は己の身体を支え切れず、無様にもその場に崩折れた。そうなってもまだ、俺は悪態ひとつつけなかった。
 上がってしまった呼吸を整えようと深呼吸を繰り返す。
 その間に宮城は制服に着替え、落ちていたシャツを俺の身体に被せかけた。そして俺の側で膝を折り、
「三井サン、アンタが悪いんだぜ?」
 見上げた奴の顔は逆光で、表情が読めない。宮城はそれだけ言うと立ち上がり、
「カギは返しとくから」
 そう告げて部室から出て行った。
 身じろぐことも出来ずに、俺は奴の足音が遠ざかっていくのを、床に押し当てた耳から直に聞いていた。 
『三井サン、アンタが悪いんだぜ?』
 ――解ってる、そんなこと。
 おまえに言われるまでもねぇよ。
 でも、だからってこんな遣り方⋯⋯。
 卑怯じゃないか、と胸の裡に呟きかけて、俺はその言葉を途切らせた。
 それは、一対多数でのいわれないケンカを吹っかけた人間に言えたセリフじゃなかった。
 俺はのろのろと起き上がると、時間をかけ苦労しながら衣服を整えた。身体中の関節という関節がギシギシ軋んでいるようだった。
 着替えを済ませバッシュを放り込もうとロッカーを開ける。何気なく顔を上げると、ドアの内側に取り付けてある鏡に、情けない表情をした自分の顔が映っていた。
 どうせなら拳でかかって来て欲しかった。この顔に後ひとつやふたつ傷が増えたところで大差ない。肉体的ダメージよりも精神的ダメージを与えることを選んだ宮城が、それが部にかかるかも知れない迷惑を考えての結果だったのだとしても、俺は恨めしかった。
「チッ」
 俺は舌打ちし、体育館での乱闘で一番ひどく傷付いた左顎の傷の上からガーゼを引き剥がす。まだ抜糸の済んでいないそれは、赤黒く嫌な色に変色していた。時間の経過と共に薄くなって行くにしても、縫い跡は一生残ると医者に言われた傷だった。
 そっと傷の上を指先でなぞる。
「⋯⋯⋯⋯っ」
 不意に息が詰まり、両目から熱いものが溢れ出した。行為の最中にさえ流れなかったものが。
 この傷を見るたび、俺は今日のことを思い出すのだろう。
 ――宮城。
 奴が憎いのかさえ解らない俺の眼からは、止め処なく涙が流れ続けた。



1996.05.20 脱稿 



・初出:『HALF』1996.05.25 発行
・タイトルはWANDSの曲より拝借