いったん眠りに落ちたら最後、己の鼻先に雷が落ちたって気付かないような自分が、真夜中、何故そんな小さな物音のせいで覚醒したのかはわからない。
ベッドを寄せた壁側の窓に、コツンコツンとさっきから何かが当たる音がしている。断続的なそれに人為を感じ、流川は掛け布団を体に巻き付けたまま身を起こした。半目で窓の外に視線を遣る。
しばらくして、コツンと、下から飛んで来た白っぽい何かが再びガラスを打つのを目に留め、奇跡的に目蓋を押し上げることに成功した彼は窓に手を伸ばした。
――こっちこっち。
誰かが小声で呼んでいる。
――下だ! し、た!
この声は自分のよく知った⋯⋯。
――気付け、バカキツネ!!
声に誘われるまま二階の窓から視線を下へと落とした流川の目が、己の家の庭先、大きく両手を振り回している赤毛の男の姿をとらえる。
どあほう?
声にしたはずの言葉は、寝起きの喉に絡んで音にはならなかった。
(ひとンちの庭でナニやってやがんだてめぇは。)
次いで沸いた疑問は、これまた言葉になるかわりに、流川の眉間に盛大なシワを刻ませる。
「おー、やっと気付いたか、この寝ぼけギツネめ」
ニヤニヤ笑う花道の表情は街灯に照らされて、夜目にもよく見えた。
花道はもこもこしたダウンジャケットを着、首には真っ赤なマフラーをぐるぐると巻き付けていた。吐く息はまっしろで、頬や鼻の頭、耳の先が紅くなっているのがわかったけれど、満面の笑みのせいか少しも寒そうには見えない。
布団にくるまっている流川の方が、刺し込むような夜の外気に凍えそうな気分だ。
それにしても、大晦日のこんな夜更けにいったいなんの用なのだろう。
「洋平たちと初詣に行って来た帰りなんだけど」
内緒話をするような低く抑えた声は、深夜という時間帯、近所への迷惑を考慮したのか、しずもったあたりの空気が自然とそう気遣わせるのか、普段の騒々しい様には程遠い調子で花道が言う。
そういえば、終業式も間近な頃、年越しは毎年、いつもつるんでいるあの連中と一緒に過ごすのだと、花道が誰かに話しているのを耳にした気がする。そうだ、たしかあれは部活の休憩時間で、相手は彩子先輩だったような。
(⋯⋯ん? 初詣?)
ということは、『今日』はもう――。
と、その時、
「やる!」
突然の声と共に、流川の顔面めがけて何かが飛んで来た。
「!?」
顔をそむけながらも咄嗟に出した右手が、硬くて小さなものを反射的に受け止めていた。開いたこぶしの中から現れたのは白く小さな紙包み。投げ易くするためなのだろう、何か小さくて重たいものを内包している。
頭上にはてなマークを飛ばして花道を見下ろせば、開けてみろよと表情と手振りが促してくる。
白く薄い外装を端からぺろりと剥がすと、中身は小石、包み紙の正体はおみくじだった。
紙には『大吉』と黒々印刷がされている。
「それ、おまえにやる」
石の方じゃねぇぞ、と改めてそう言って、オレサマの運を分けてやるんだから有り難く思え、と続ける花道の口調はやたらと偉そうだ。
オレサマは天才だからなそんなものに縋らなくても⋯⋯と、聞き飽きるほど聞き慣れた、けれどどれだけ聞いても理解できたためしのない口上をぶち始めた花道のことを放置して、流川は摘み上げた紙切れをしげしげと眺める。
「ンで、こんなもん⋯⋯」
いったいこの紙切れに何の意味があるというのだろう。神籤(みくじ)以外の。
口上を聞きもせず、それどころか途中で遮って言葉を挟んだ流川に、常ならば憤慨して掴み掛かる花道が、今夜はヘソを曲げるでもなく、
「おまえ今日誕生日なんだろ? アヤコさんに聞いたぞ」
小首を傾げ、
「だからアレだ、えーと、そう、誕生日プレゼントってヤツ?」
こともなげに答える。それから得意げに鼻の下を擦り、
「俺、おもしろいこと思いついただろ?」
花道は満ち足りた様子で笑ってみせた。
要するに、今年一年分の花道の幸運が流川への誕生日プレゼントというわけだ。
――誕生日プレゼント。
花道の言った言葉を頭の中で反芻した流川は、ビックリしすぎて固まってしまった。呼吸までが一瞬停まった気がする。
実は流川家には元旦に息子に誕生日プレゼントを与えるという習慣がない。決して両親が冷たいからだとかいうのではなく、単に元日の祝賀と誕生祝いとをひとまとめにしているだけのことなのだが。つまり、誕生日当日でもある元日に流川家の息子が手にするのはお年玉のみ。別個にプレゼントが用意されることはないのである。
そんな己の家庭の方針を殊更疑問に思いもしなかった流川は、プレゼントを期待したこと自体がなかった。誕生日の1週間程前にはクリスマスプレゼントとしてちゃんと、欲しいもの――バスケに関する何か――を受け取っていたから、それで充分満足だったという事情もある。
だから。
これは。
思ったより長い時間、流川はひとり静かに彫刻になっていたらしい。
「それ、大事にしろよな!」
そう言って花道がきびすを返すのに、ハッとして顔を上げる。
ここへ来た目的を果たし終え、ウチに帰ると手を振って庭から出て行こうとする花道の背を、
「待て、どあほう」
流川はあわてて引き止めた。
「俺も行く」
「へ?」
「おまえんち」
「はぁっ? 今からかよ!?」
こんな日の、こんな夜中に?
花道の見開かれた目は丸い。
「今から行く」
「ダメ」
即答。
「なんでだ」
「なんで、って⋯⋯」
一瞬言葉に詰まった花道だが、すぐにこう続けた。
「朝ンなって、ちゃんとゴリョーシンに新年の挨拶して、それからにしろ」
そうでなきゃ会ってやんねェ、と。言外にそう宣言されているのだと知れて、流川は押し黙る。
花道が何にこだわっているのか、わかってしまった自分が少しだけ恨めしい。それは、花道に出会う前までの流川には気付けなかったこと。
彼らがいなければ、自分はこの世に存在しないのだ。
今は、そのことがちゃんとわかる。
「⋯⋯しょうがねぇ」
流川は渋々ひとつ頷いた。
本音を言えば、家族よりも花道を優先させたいのだけれど。でも、ここで我を通して花道の機嫌をそこねるのは嫌だから。
「ウチで待ってる」
ニカッと太陽の笑顔が返って来て、かすかにこころのどこかが揺れる。
――じゃあまた後でな!
片手をあげて歩き去る赤い色が視界の外に出て行ってしまうまで、窓を開けたまま、流川はじっとそれを見送った。
見上げた夜空に星がまたたいているから、今日はおそらく初日の出を拝むことのできる元旦になるだろう。
ぶるりとひとつ身震いし、首をすくめた流川は急いで窓を閉めた。
この世界にはたくさんの大切なものが存在するのだということ。バスケ以外にも、たくさん。それを、意図せずして流川に教えてくれるのだ、彼は。
流川は布団の中で手足を縮めて丸くなる。気が高ぶって眠れないと思ったのは一瞬で、睡魔はすぐに彼を夢の国へと攫いにやって来た。
次に目が覚めたら――。
花道が贈った『幸運』はベッドヘッドの上。丁寧に折り目を伸ばされて、小石の重しと共に、新しい持ち主の目覚めのときを待っている。
2008.01.28 終
・流川、誕生日おめでとう!(大遅刻)