『穏やかな早春(はる)の日に』


 2月のカレンダーを破り捨ててすぐに、今春の桜の開花予定が報じられた。
 今年の桜前線はどうやらせっかちな性格のようで、今月の下旬、それもかなり早い時期に関東地方にまで北上してくるらしい。例年なら5月にもお目にかかれる山桜でさえ、4月中に散ってしまいそうな勢いだという。
 そんな訳だから、まだ3月も半ばだと言うのに、大学の部活が休みの日に、彼らが足繁く通う公園の桜も、染井吉野より開花が早いと言われる枝垂れ桜であるだけに、もうその何本かの枝先で薄紅色のやわらかな蕾をわずかに綻ばせていた。
「遅っせェぞ、キツネ! いま何時だと思ってやがるっ」
 公園の入口付近で響いた聞き慣れた自転車のにぶいブレーキ音に、それまで所在なげに足元でオレンジ色のかたいボールをバウンドさせていた赤い髪の男は、相手を確認するいとまもない早さで振り向きざま吠えた。
「⋯⋯寝坊した⋯⋯」
 今更のように目をこすりながら、ふらふらした足取りで歩み寄って来たキツネこと流川は、ここ1週間、赤毛の男・花道との待ち合わせ時刻に遅れ続けている。
 遅刻の理由は判で押したように毎回同じ。
 春眠暁を覚えず、とはよく言ったものだ。
 それでも待たせるのを悪いと思ってか、それとも彼に早く会いたくてか、ともかく急いで来たことだけは判る。
「ったく⋯⋯。寝癖くらい直して来いよな」
 キツネの後頭部のあたりで、自己主張するように飛び跳ねているひとつまみの髪に、あきれ貌で手を伸ばす花道は、だからそれ以上の文句が言えない。たがいの大学の部活が休みのとき、この公園で1対1をしようと持ちかけたのが、このねぼすけの方であるにも関わらず、だ。
「どーせメシも喰わずに来たんだろ?」
 問えば、案の定、肯定のうなずきがひとつ。
「もう昼だし、ショーブはメシ喰ってからだな」
 彼のこの一言で、申し合わせたようにふたりの足は公園近くのコンビニへ向かって動きだした。
 腹が減っては戦は出来ぬ、だ。






 コンビニでそれぞれサンドイッチ、おにぎりとお茶を買い、ふたり連れ立って戻った公園の、陽のあたるベンチの周りでは、この時間になるとどこからともなく現れるハトの集団がいつものように群れていた。
「おめーらにやるモンなんか持ってねえぞー」
 言ったところで通じない相手にそんなことをぼやきながら、そのくせ花道の手はスポーツバッグの中を物色している。
「⋯⋯やめとけ、どあほう」
 この人(?)数の相手を前に半端なことをやった日には、冗談抜きでヒチコックの世界だ。公園中のハトが集まってしまったら、マジでシャレにならない。
 それでもしばらくは諦め切れない様子でごそごそ手を動かしていた花道だったが、本当になにも見つからなかったのだろう。しかたなく自分のサンドイッチにかじりついた。
 頬をかすめる風はまだ冷たく、ひとつ前の季節のなごりをかすかに含んではいるものの、ふりそそぐ陽射しはもう確実にいまが春であることを告げている。じっとしていても寒さを感じることはない。
「こいつら、そんなに共食いしたいのかな」
 不意に花道の口からそんな言葉が飛び出したのは、この日ふたりが選んだものが、偶然にもタマゴサンドとトリ五目にぎりだったからだ。ハトとニワトリの違いはあれど、トリはトリ。さすがにコレをやるのは良心が咎める。
 目の前のハトたちは一時としてじっとしていない。クルックルッと、どこからそんな音が出るのかちょっと不思議な声を発てながら、あっちでウロウロこっちでウロウロ、おこぼれをを期待してか物欲しげな顔付きで忙しなく歩き回っている。
 花道がそれを口にすると、
「ハトに表情なんかあンのか」
 黙々とトリ五目にぎりを頬張っていた流川がボソリ。
「おまえには言われたくねーだろーよ」
 ――ハトだって。
 意地悪くそんな言葉を返してはみたものの、やっぱり物欲しそうな貌に思えるのは、罪悪感というにはちょっと大袈裟な、でも少し申し訳ないような気持ちがあるからなのだろう。
「恨まれそーだよなあ、なんか⋯⋯」
 ここまで執拗にうろつかれると、毎度のこととはいえ何だか薄ら寒くなってくる。
 と、そのとき――。
 花道の口に入り切らなかったレタスが一切れ、飢えたハトの輪の中へポトリと⋯⋯。
「げっ!」
 瞬間、ハトの群に異変が起きた。
 ばっと土埃をたて、その小さなおこぼれ目掛けて集団が殺到する。殺気すら感じさせる勢いのそれに、ふたりは思わず硬直した。
 脚が短く胸の突き出したその体型では、餌を足で押さえて食べるなんて真似はできない。だから嘴でくわえたそれを振り回すことで引き千切るという、見た目を裏切る荒っぽい方法で食事をする彼らの姿は、千切れるたびにどこへ飛んで行くか予測もつかない一切れのレタスを追って、気付けばあっという間にふたりの足元から遠ざかってしまっていた。
「す、げェー⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯」
 何はともあれ、これでもう襲撃される心配はない。無意識に入っていた肩の力を抜き、ふたりは残りのパンとご飯を今度は誰にも気兼ねなく一気にたいらげた。
「ごちそーサマでしたっ」
 さあて勝負だ! と満足げに手を合わせた花道の右隣で、流川の気配がなんだかアヤしい。
「ルカワ⋯⋯?」
 陽射しが眩しかったからなのか、それとも満腹感が眠気を誘ったからなのか、すでに半分閉じかかっていた流川のまぶたが、花道がその顔を覗き込んだ瞬間、地球の引力に逆らう気などまるでないと言いたげに、なんの抵抗も見せず降りてしまった。
 そして、
「肩貸せ」
 言うが早いかコトンと花道の右肩に片頬をあずけ、彼は気絶する勢いでその自我を放棄する。
「あ? ⋯⋯おお⋯⋯?」
 ――スー⋯⋯。
 急なことで動くこともできない花道の耳に、気持ち良さそうな流川の寝息が聞こえてきた。
「⋯⋯こ~の3年寝太郎があ~ッ」
 ほんの少し前か左に躯をずらせば、このお昼寝キツネの左側頭部は、コンマ何秒かののち、木製とはいえそれなりに硬質なベンチの板に、かなりの衝撃付きでご挨拶することになる。
 が。
 花道はその想像を実行にうつせなかった。
「⋯⋯⋯⋯」
 解っているのにそうできない、そんな自分の心の不思議を、
「⋯⋯ま、春だし、な」
 第三者(きせつ)のせいにして、花道も、流川に体重をあずけるように少し躯を動かすとふんわりと目を閉じた。


 さて、一眠りしたら、どうやってコイツを起こそうか?



1998.03.27 脱稿 



・初出:『R』1998.03.29 発行