車窓から広がる景色の流れが、電車の減速に合わせてゆるやかになっていく。
目的地が近付いたことに気付いた彼は、荷物棚からスポーツバッグを降ろし、下車に備えてドアの側へと移動した。
プロバスケの選手になって3年。この頃では神経を尖らせていなくても、この駅を乗り過ごしてしまうことは殆どない。
プシューっという音と共にドアが開き、吐き出されるようにプラットホームへ。そのまま人並みに揉まれながら、頭ひとつ分飛び出した鮮やかな赤い髪が改札口を抜けていく。
「おーい、花道ィ!」
人の流れに乗ったまま階段を降り切ったところで名前を呼ばれ振り向くと、チームメイトの宮城が片手を上げ、笑顔で駆け寄って来るのが見えた。
「リョーちん」
「よお」
追い付いて来た宮城と並んで他愛ない話をしながら歩く花道は、だが彼との会話には上の空で、『そのこと』ばかり気にしていた。
――リョーちんならきっと気付く。
花道には昔から、どんな寒い時期にでも手袋をはめる習慣がない。
今も剥き出しになっている冷たい手のひらに白い息を吹き掛けながら、彼は同僚の視線がそこに向くのをじっと待った。
見ればきっと気付く。何事にも聡い彼ならば。
花道が体育館の入口のドアを左手で引いたとき、案の定、
「あれっ、どうしたんだ、アレ」
革手袋の指に、左手の薬指をつつかれた。
――来た。
花道の身体が瞬時に冷える。
宮城につつかれたその場所に、昨日まであったエンゲージリングが今はないのだ。覚悟して構えていたこととは云え、勢い心臓が痛くなる。嘘は苦手だ。
「忘れて来たのか」
晴子が亡くなった当初はチーム内の誰もが触れようとしなかった話題も、近頃では花道以外の者が口にするようになっていた。花道自身が言の葉にのぼらせるようになったことが理由のひとつだが、それよりも寧ろ周囲の者たちの間に、いつまでも黙っている方が、よほど不健全だと考え始めているらしいきらいがある。そしてチーム内で最もそういう機微に敏感で、また花道に対してまったく遠慮しないのが、彼との付き合いが長いこの宮城であった。
「き、昨日フロ場で落っことしてさ⋯⋯」
「流しちまったのかよ!?」
ふだんは眠そうに見える腫れぼったいひとえ目蓋を全開にして宮城が大声を上げる。
「あ、いや、流しそうになっただけで⋯⋯」
「ああ、そんで外して来たのか⋯⋯。ったく、ビビらせんなよな! 大事なもんなんだから、もっと気を付けて扱えよー」
高校生の頃は、言葉尻を捕まえられてはボロを出さされてばかりで苦手だった、先回りしがちなこの先輩の会話傾向が、都合のいいように話を作って貰える分、いまの花道にはありがたかった。
「ビビらせてごめん」
片手で拝むしぐさを見せて謝る花道の心臓はまだ、隣にいる宮城にその音が聞こえてしまいそうなほどバクバク脈打っている。
「花道おまえさあ、ちゃんとメシ喰ってんのか? 指が痩せちまうなんてよ」
「んー、今までどおり喰ってっけど」
本当は指なんて痩せてない。
全部、嘘。
あの指輪の在り処を知ったら、宮城はなんと言うだろう。
「おまえの言うことは信用ならねぇ! そうだ、奢ってやるから今晩はメシ付き合え」
「ん」
花道の左手薬指から消えたプラチナのリングは、今あの男の元にある。
親身になって心配してくれる宮城だからこそ、そんな彼を騙していることが花道の胸を申し訳ない気持ちでいっぱいにする。でも言えないのだ、本当のことは。
――ごめん、リョーちん。
ふたりの裡(うち)なる想いを薄々感じ取っているのは花道の幼馴染みの洋平くらいのもので、今でも一般にはあの男と花道とは犬猿の仲で通っていた。人前でそれと悟られぬよう、ふたり隠し続けてきた胸の奥の感情は、いくら勘の鋭い宮城でもいまだ気付いてはいない。
まして昨日、花道がどこで誰と一夜を過ごしたのかなど、よほどの妄想家ででもない限り当てられる訳がなかった。
ロッカールームでチームメイとたちと一緒に、練習用ユニに着替えるため服を脱ぎ捨てていく花道の動きには躊躇いがない。己の身体のどこにも表面上は何ひとつ、昨夜の情交の跡が残っていないことを彼は知っていた。
――あの、流川が⋯⋯。
鏡に自分の裸身を晒してそのことを確認したときは、さすがに花道も唖然としたものだ。
あの流川にまで気を遣われていたとは。
周囲のみんなが自分を心配し、気遣ってくれていることは知っていた。だから少しでも早くいつもの自分に戻ろうと、無理に笑いもしたし平気なふりで晴子のことを口にしたりもした。でも、そうしながら、心は冷えていくばかりで、生きているという実感のないままひと月が過ぎた。
昨日、あの陸橋で流川に遇わなければ、遇って彼の部屋に行かなければ、今も自分は脱け殻のままでここにいただろう。
流川に触れられてはじめて、自分が生きていることを確かめられたのだ。感覚も感情も――すべての情緒を失ったと思っていた我が身に、まだ何かが残っていることを教えられた。この身にまだ存在価値があることを知らされた。
漆黒の闇の中、見えるはずのない、形もない流川の感情を、強烈な色彩(いろ)として目蓋の裏に焼き付けて――。
一瞬の耀き。
流川の想いと、自分のそれと。
答えを見つけて尚去ろうとした花道を、流川は許してはくれず、静寂の密室にふたり、閉じ込められた。
数時間ののち、始発電車の出る時刻、夜明けのまだ遠い街の薄靄の中へと花道を送り出しながら、
『俺は、お前がいるから生きてんだ』
いま改めて思い出しても顔から火を噴きそうにこっ恥ずかしいこの台詞を吐いたとき、流川がどんな表情をしていたのか、彼に背を向けていた花道は知らなかった。
でも、ダメだ。
まだ、ダメなんだ。
対等な立場で流川と向き合うには、まだひとつ遣り残していることがある。後ろめたさを持たず、負い目なく、逢いに行くことのできる身分では、まだない。
だから、すべてのことに整理(ケリ)をつけて、ちゃんと笑えるようになるまでは。
『じゃあな』
――またな。
振り返らなくても花道の目には、戸口を額縁にして立つ流川の姿態(すがた)がはっきり見えていた。
いつか必ず、船は港へ帰っていく。
こころ休まる、その場所へ。
通路の一角に置いてある公衆電話の前で財布を開いていた赤木が、
「流川、済まんが10円玉かテレカ、持っとらんか?」
帰り支度を済ませて通り過ぎようとしていた後輩を見つけ、そう言いながら振り向いた。
「⋯⋯⋯⋯」
流川は一瞬思案するような素振りを見せ、その後すぐにドラムバッグを肩から下ろすと、着込んだの内ポケットから財布を抜き、テレホンカードを探し出す。
「悪いな、返すのは明日でいいか?」
「ウス」
何とはなしに赤木の行動を目で追っていた流川が、よほどなにか訊きたそうな表情に見えたものか、
「桜木に用があるんだ。昨日もかけたんだが掴まらなくてな」
晴子の四十九日のことで、と付け加え、花道の義兄は受け取ったカードを挿入口に入れた。
その背中にペコリと軽く頭を下げ、流川は出口に向かって歩き出す。
――アイツ、今日はちゃんと帰ってっかな⋯⋯。
赤木の言葉に昨夜の記憶を刺激され、流川は唐突に、今朝わかれたばかりの花道のことを思い出していた。
『逃げんな』
『に⋯逃げてなんかな⋯⋯いっ』
『逃げてっだろ!』
真夜中のエントランスで花道を捕まえ、何を迷うのか揺れる瞳を強引に向き直らせ、睨み付けた。目を伏せ抗う声もらしくないほどに小さく、離せと抗議するのを聞き入れず、無理に手を引いて有無を言わせず部屋まで連れ帰ってはみたものの、それ以上のことは何も出来なかった。そうして結局は数時間後、眠りの覚めやらぬ街の中へと、ひとり花道を送り出すことになっただけだ。
ひきとめる手段なら、流川の手の内にあった。が、引き止める権利は、まだ、なかった。
『忘れもん、ねえか?』
玄関に座り込んで靴を履く花道の背に、知っていてそう問えば、かなりの沈黙の後で、
『――――多分、な』
答える彼の手の動きが止んでいた。
またしばらくして手を動かしながら、
『あれば取りに来るさ』
よどみないその口調に安堵して、流川は騙されたふりをした。
待っている。
花道は切札を流川に預けたままで逃げようとした。そして今ふたたび、それに気付かぬ振りを装って背を向けている。それが判った。
十年だ。
十年待った。だからこれからだって、待てる。待ってみせる。
気持ちの整理をして花道が戻って来るのを。
ふたり、何のしがらみもなく向かい合えるようになる、その日を待つ。
この腕の中で熱い涙を流しながら、閉じこもっていた薄くもろい殻を破って生まれ出(い)でた緋色の蝶。
この世にただ一匹。
まだ濡れて収縮したままの緋い羽。
その羽が乾くのを待っている。
花道はもうどこへも行きはしない。ここへ、己のもとへ、必ず帰って来る。
それがもう遠い未来の話ではないと知っている。
だから帰したのだ。
最後に一言だけ、
『俺は、お前がいるから生きてんだ』
お前がいなければ、この世で生きる意味なんてない。この人生はお前のためにあるのだと、振り返らない想い人にそう告げて。
『じゃあな』
顔を見せぬまま、片手をあげて歩み去る花道を、その姿がエレベーターの中に隠れるまで見送った。
その羽が開いたら。
自由の身で、逢いに来い。
お前の意思で。
「リョーちん、俺さ、明日の練習休むから」
一日の練習を終えたロッカールームでシャワー室から出て来た花道にそう言われて、宮城はシャツのボタンをかける手を一瞬だけとめた。
――ああ、晴子ちゃんの四十九日か⋯⋯。
見上げた花道の顔は、赤い髪の毛から伝い落ちるシャワーの滴でびしょびしょになっていた。
晴子が亡くなったひと月程前からつい最近まで、それまでは煩いくらいに表情をあらわにしていたこの顔が、凍りついたように動かなかったことを宮城は知っている。それがようやく自然に明るい表情に崩れるようになったのは、つい一週間前くらいからだったろうか。
「監督にはもう言っといた」
「なんか言われたか?」
「ん。はやく気持ちの整理つけろって」
額にはりつく前髪がうっとうしいのか、花道が子犬のようなしぐさで頭を振った。飛び散るしずくが宮城の頬まで濡らしたが、怒りもしないで彼はタオルの上から花道の髪をかきまぜる。
高校2年の春の宵、あの公園で意気投合してから今日まで、自分よりもはるかに大きな体躯をしたこの後輩を、ひとりっ子の宮城は弟のように思ってかわいがってきた。大学の4年間とプロになってからの最初の1年間は共にプレーする機会に恵まれなかったものの、高校時代のOB会ではちょくちょく顔を合わせていたし、花道がこのチームに入ってからもふたりの関係はほとんど変化していない。
「⋯⋯俺ってさ、そんなにあぶなっかしく見えんの?」
首を傾げて見せるのが、来年の4月で25歳になる男のしぐさとは思えないほど幼くて、ライバルチームに所属しているもうひとりの後輩・流川とはちがう理由から彼に年上の女性ファンが多いのが頷ける宮城だった。
見てくれから来る第一印象に騙されさえしなければ、花道に出会った誰もが彼を好きになる。いつまで経っても褪せることのないその純真さに嫉妬すら覚えながら、誰もが彼に惹かれ、愛でる。
そんなことを思って、自然ほころんでいた宮城の表情がよほど気に喰わなかったのか、
「ンだよお、何がおかしいんだよー」
不満げに頬を膨らませる姿に、更に微笑を誘われ、ついに吹き出しそうになってしまった宮城は、あわてて話を逸らそうとし、
「お!? 花道、おまえそれ⋯⋯テーピング取れかけてっぞ? 巻き直してやろーか」
今シャワーで濡れたせいだろう、花道の左手薬指のテーピングが端から剥がれかけているのを目敏く発見した。軽い突き指だと云って、花道は一昨日からその指にテーピングをしているのだ。
「えっ? あ、いやっ、大丈夫! 自分でやれるし!」
左手だからさ、右手使えるしさ、天才には不可能はないからっ、とか。なんだか不自然なほど急に饒舌になるのを不審に思わないでもなかった宮城だが、気を逸らすことには成功したので、まあいいか、と敢えて突っ込むことはしなかった。
この花道のテーピングが、まさかエンゲージリング喪失を隠す偽装工作行為の結果だとは、宮城リョータ、知る由もない。
師走唯一の祝日が桜木晴子の四十九日法要の日に決まったのは葬儀の直後だった。花道のひとり暮らす部屋では狭すぎて親族一同が会することができないため、法要の場は葬儀のときと同じく、赤木家の座敷きのひとつで、晴子の位牌はわざわざ花道の部屋から運ばれて来ている。
葬儀のときとは打って変わり、なごやかとも言える雰囲気の中、テーピングに覆われた手を膝に、花道は浩然と胸を張って晴子の遺影を見上げていた。
彼女のことを想っても、今はもう苦しくはない。悲しくはない。
――晴子さん、俺、もう一度誰かのために生きてもいいですか?
まだ元気だった頃の、モノクロの笑顔に問いかけてみる。
自分を必要としてくれる、あの男のために。
あなたを守ろうとしたようには、もう誰も愛したりはしないから。
たとえ誰かに咎められても、もう後戻りはできないけど。
――あいつと共に生きてみてもいいですか?
「桜木」
「あ、ゴリ⋯⋯?」
名を呼ばれ、キョトンとして顔を上げると、目の前に義兄が立って自分を見下ろしていた。
「どうした、しびれが切れて立てんのか」
「ちっ⋯違わいッ、そんなんじゃねー!」
赤木に声を掛けられるまで読経が終わっていることに気付かなかった花道は、見れば広い座敷きにひとりぽつねんと正座していたのだ。
既に退席している親類の女性陣は、おのおの昼食の準備に取りかかっているらしい。
「30分程したら客間に机を運んで欲しいそうだ」
「お、おう」
「それまで男共は邪魔だからどこかで休んでろ、だとさ」
台所から聞こえる賑やかな物音をすこし遠くに聞きながら、慣れないネクタイを緩めた花道はゆっくりと立ち上がり、赤木の後をついて廊下へ出る。
この日は朝から快晴で、外気に触れないガラス越しの廊下はやわらかな眠りを誘いそうなほど心地良い日溜まりを作っていた。
南側のちいさな庭に面した日当たりの良いその廊下にふたり並んで、しばらく黙って庭を見るともなく眺めていたが、
「義兄の身で俺がこう言うのもおかしいのかも知れんが、晴子(アイツ)に遠慮することはないからな」
赤木がおもむろに口をひらいた。
「赤木家に対してもそうだ。家名がどうだとか、お前が気にすることはない」
赤木家の長男は彼である。
花道が顔を向けた先で、義兄は力強く、それでいて静かな眼をして庭を見つめていた。
花道が哀れみや同情だけで晴子の手を取るような男ではないことを、赤木はよく知っている。この男は、愛惜しい存在が、手を伸ばしても届かない遠い場所へ行ってしまうと知りながらその手を取ったのだ。
そのときどれほどの覚悟を決めたのか。
「⋯⋯俺もな、お前なんぞとはさっさと縁を切りたいと思っとる」
花道は、晴子のために出来ることを彼が思い付く限りすべてやったのだと思う。彼には、まだこれから幸せになる権利があるだろう。
ありがとう、と花道の手を取り笑って逝った妹の言葉に嘘はなかった。
――晴子、お前は幸せだったんだろう?
たとえその身で愛を交わすことが出来なかったのだとしても。
「俺⋯⋯」
赤木の横顔をじっと見ていた花道が、ややあって、
「俺は⋯⋯再婚なんか、する気ねぇよ」
いつになく神妙な口調で呟いたかと思えば、次の瞬間には、
「⋯⋯って、べっ⋯別にゴリの義弟(おとうと)でいてぇワケじゃねえぞ!?」
なにを焦っているのか、唾を飛ばさんばかりの勢いでまくしたてる。
「当たり前だ。お前なんぞこっちから願い下げてくれるわ。気味の悪いことを言うな!」
ひとしきりの言葉の応酬のあと、
「そーゆーゴリはどうなんだ? まだ結婚しねえのかよ?」
からかうようににやけた声音。
いまでも彼よりすこしだけ高い位置にある赤木の顔を見上げ、花道が笑った。10年前のそれと少しも変わることのない、赤木にとっては小憎らしいことこの上ない上目遣いの笑顔だ。
再婚なんかしない。
予想通りの答え。
この男は、一生晴子の夫であり、自分の義弟であり続けるのだろう。
思わず頬が緩みそうになった赤木だが、とっさに造った持ち前の気難しい表情で、
ゴツッ!
端から見れば照れ隠し以外のなにものでもない拳骨(げんこつ)を脳天へ一発。
「ってぇ~ッ! ナニすんだよお、この暴力ゴリラ!」
「余計な世話だ。お前なんぞに心配されたくないわ」
頭を抱えてしゃがみこんでしまった義弟を置き去りに、彼は右手の握りこぶしもそのままで客間へと踵を返す。
花道に向けたその背中が、気のせいではなく照れていた。
人工の灯火が普段よりも明るい歩道を歩きながら誰も見ていないことを確かめて、花道は左手のテーピングをはずしにかかった。
あと数時間程で当日を迎える、今夜はクリスマス・イヴ。
すれ違う2人連れのほとんどが、見るからに恋人同士なのはそのためだろう。ついさっき体育館の出口で別れた宮城が、普段以上に気合いを入れて粧(めか)しこんでいるように見えたのも気のせいではないらしい。
――お相手はやっぱり彩子さんなのかな。
恋人を前にして幸福感にふやけきっている先輩の姿を想像し、花道の顔が自然ほころぶ。
晴子の四十九日法要を済ませたばかりの後輩を気遣ってか、あまり詳しくは教えてくれなかったが、それでも、もうずっと前から夜景で有名な某高級レストランのディナーを予約していると、ずいぶん得意気に話していたくらいだから、ふたりの関係もそれなりにうまく行ってはいるのだろう。
日没と同時に急激に下がり始めた気温のせいで、直接外気に触れる頬が痛い。
冷たさに耐えかね、花道はテーピングをはずし終わった手を、無意識にコートのポケットに突っ込んだ。
ここ数年、年の暮れに雪が降るなんてことはなかったと記憶している花道だが、今年あたりはひと降り来るのかもしれない。その証拠に、彼が見上げた空は張り出した厚い雲に覆われて一様に暗く、月も星もかくされていた。
月の眠る夜。
この夜陰に乗じて。
あの男に会いに行く。
最寄り駅からあのマンションまでの道程は覚えているから、たとえ乗り換えに手間取ったとしても終電までに駅に着ければ大丈夫。
一瞬の木枯らしにほどけかけたマフラーを首に巻き付け直しながら、耳が痛くなる程のクリスマスソングが氾濫する街なかを駅へと向かう花道の足取りに迷いはない。
ところが、花道が電車を降り、目的地のマンションに辿り着いたとき、一二〇二と部屋番号が表示された地下の駐車スペースに流川のプレリュードの白い車体はなかった。
――参ったな⋯⋯。
オートロックのエントランスは当然使えず、予期せぬ事態に花道はしばし戸惑う。
エントランス付近でうろついていようものなら間違いなく不審人物だ。おまけにこの目立つ頭のせいで身元が割れてしまわないとも限らない。
別にやましいことなんてない、と思っている花道だが、とは云え訪ねようとしている相手は敵チームの選手だ。すっぱ抜かれでもしたら、マズイのかもしれない。
妙なところで、しかも変に世間ズレしている桜木花道、社会人3年生。
――そういえば。
ここへ来る途中に公園があったはず。
あの夜、流川の車の助手席からも目にした記憶があるから、そこにいれば帰宅する彼を捕まえられるだろう。
今日もチーム練習があることは、昨日、義兄・赤木の口から聞いていたので知っている。ただ、ここへ来るということは流川本人はもとより誰にも告げていない。だから当然、待人が今夜中に帰宅しない可能性もない訳ではない。
それなのに、当の花道の胸に不安はなかった。
――何時間だって何日だって、あいつが帰って来るまで待てばいい。
もう自分は何年も彼を待たせているのだから、それくらいはなんでもないことだ。
仕組まれた流川が、所属チームのオーナーの娘との夕食会に付き合わされていることなど思いもよらない花道は、ひとり公園に向かって歩き出す。
彼のその赤い髪は街灯に照らされて、遠く夜目にも鮮やかだった。
こんなことならさっさと食卓(テーブル)をひっくり返して、あんなところからオサラバすれば良かった。
オーナーから食事に誘われるのは初めてではなかったし、チームのほかの連中も一緒だというのを鵜呑みにして、端から疑いもしなかった自分が馬鹿だった!
流川はむしゃくしゃした気分のまま、乱暴にステアリングを切る。
言われた場所に足を運べば、待っていたのはオーナーと、その娘と名乗る女がひとり。チームメイトの姿は影も形もなかった。
とりあえずは御相伴に預かっていた流川だが、結婚を前提にだとか、交際がどうだとか、思ってもいなかった単語がオーナーの口から飛び出すに及んで、元々あるかなしかの理性は遥か大気圏のかなたへ吹っ飛んでしまったらしい。
その後、どうやって店を出たのかは覚えていない。
思い起こせばプロ契約をした直後、このプレリュードを流川に買い与えたのはオーナーだったし、当初から『その気』だったのだと言われてしまえばそれまでなのだろう。
が、当の流川にしてみれば、冗談ではなかった。
気温の急激な変化が起こすフロントガラスの曇りを、ワイパーが機械的に払う様さえ今の彼を苛立たせるには充分で。
――クビにする気なら、そうしやがれ。
そうなったとことで流川程の実力を持つ選手なら引く手あまただ、困ることはない。だいたい、ひとの言いなりになるなど、およそこの男の趣味ではなかった。
――甘く見るなよ⋯⋯。
完全に頭に血をのぼらせた流川が、胸の内で毒づきながらその道を走り過ぎようとしたときである。
赤い、残像。
――どあほう!?
深夜の路上にけたたましい急ブレーキの音を響かせて、車をとめた。
大急ぎで飛び出した車の外、見間違いようのない緋色の髪をその視界にとらえたとき、無表情な顔の下、息がとまりそうな衝撃が流川を襲う。
「桜木⋯⋯」
入口にまわるなどというまどろっこしい真似はしていられなくて、彼のその見た目より遥かに俊敏な肉体は、あっという間にフェンスを飛び越え、公園内に着地を決めていた。
「遅ぇよ、ルカワ」
公園のフェンス寄りにあるジャングルジムの天辺から、拗ねたような、それでいて少しほっとした声が降って来る。
花道はそこに座って、白いプレリュードが現れるのをじっと待っていたのだ。
「ったくよお、首がキリンになるかと思ったぜ」
「いつ⋯いつからそこにいた?」
平静を装い流川は花道を見上げる。
「さあ? 練習が終わってからだから⋯⋯」
そう言って指折り時間を数えかけた花道だったが、流川の表情がみるみる険しくなっていくのに気付いたのだろう、
「べっ、べつに寒くなんかなかったかンな! き⋯⋯今日はちゃんとコートも着て来たしっ、マフラーだって、ほら!」
ゆびで指し示しながらムキになって弁解する姿に嘘はなく、流川は安堵の溜息をそっと吐いた。
「⋯⋯降りて来い」
その言葉に従い、軽い身のこなしで地上に降り立った花道の、外気にさらされていた頬がうっすら紅潮している。
流川の右手がしずかに伸びて、その片頬を柔らかく包み込んだ。
この男の用件はわかっている。
だから、彼がそれを切り出すのを黙って待った。
「⋯⋯忘れ物、とりに来たんだ」
故意に置き去りにした、それを。
声のトーンを落してそう告げた花道に、けれど流川の表情は動かない。かわりに花道の頬を離れた手が、コートの胸ポケットにすべりこむ。
ふたたび彼の右手が花道の前に現れたとき、その手のひらの上には、あの日花道の指から抜き取られたプラチナの指輪が乗せられていた。
「おまえ、それ⋯⋯持ち歩いてたのか⋯⋯?」
いつどこで遭ってもいいように?
花道の問いかけには答えず、突き付けるように流川は右手を押し出した。
これを返してしまえば表向き、彼のもとに花道を繋ぎ止める手段は何ひとつ残らないことになる。
それでも流川の心は穏やかだった。
時間が常よりもゆっくりと流れているような錯覚の中、返された指輪を一旦は受け取り、微動だにせず眺めていた花道が、ややあって、それを右の手のひらに乗せ直したかと思うと、ふたたび流川に向かってその手をのばした。
「どあほう?」
訝しみながらもリングを摘み上げた流川に、再度、しかし今度は左手を、手の甲を上に向けて厳かに差し出す。
「ずっと考えてた」
あの日、あの部屋でおまえと別れてから、ずっと。
自分たちふたりにとって、どうすることが最善の方法なのか。自分は一体どうしたいのか。
「で、こうしようって決めたんだ。⋯⋯ま、おまえが許してくれるんだったら、の話だけどな」
――許すもなにも⋯⋯。
言葉より先に身体が動く。
「ルっ、ルカワ!? ⋯⋯おい?」
いきなり抱き着いてきた男に、けれど花道はそれ以上なにも言わず、逃げようともしなかった。それどころか、おずおずと躊躇いがちに上げられた両腕が、ぎこちなく流川の背に回される。
静寂の中、時間だけがゆるやかに過ぎて行く。
お互い、相手の気持ちを知りながら、遠ざかった10年の年月を流川は肯定していた。あの10年間があったからこそ、いまこうして、こんなにも自然に向き合っていられるのだ。
自分は、晴子を想うその気持ちも含めて、この男に惹かれたのだから。
「許すも何も、ねぇよ⋯⋯」
ようやく言葉を絞り出して。
10年だ。
ずっと待っていた。
その間、きっかけならいくらでもあったのに、なぜ触れようとしなかったのか、それは流川にも解らない。
なぜ、今まで待てたのか。
花道が晴子との結婚を選んだときも、あまりに冷静な自分に驚いたほどだ。腹も立たなかった。悔しくもなかった。むしろ花道のことが心配で⋯⋯。
たとえ側にいられなくても、見守ることはできる。呼べばいつでも飛んでいく。
そう思って⋯⋯。
「ルカワ」
「?」
柔らかな口調で呼ばれ顔を上げると、
「見ろよ、雪だ⋯⋯」
花道の肩越しに舞い落ちる白い綿雪の姿。
音もなく、優しく。
地面に触れたそばから溶けてしまうこんな雪は、積もることもないけれど。
「ゆき⋯⋯」
雪は神の遣わす幸福の使者だという。
ならば今、腕の中にいるこの男が流川にとっては雪だ。決して溶けることのない、確かな温もりを持った、雪だ。
どんな神の贈り物もいらないと思った。
この雪さえ溶けないでいてくれるなら。
神様、この世でもっとも聖なる夜に、最上のプレゼントをありがとう――。
月明かりも星明かりも地上には届かないこの夜に、消えない幸福(ゆき)を抱きしめて。
「後悔、してねーな?」
あの夜以来はじめて訪れた流川の部屋でのその問いかけに、花道は迷うことなくはっきりと頷いた。
「⋯⋯してねえ」
晴子と結婚したことも、あの日ここへ来たことも、すべては己が決めたことだ、己が選んだことなのだ。それを否定するということは、今ここにいる自身を否定することに他ならない。
たしかに、自分が男であるということは譲れない。だから決して女のように流川に守られたいのではないし、また、そうなりたいとも思っていない。
ただ、共にありたいと思ったから。
もう逃げない。
自分を偽らない。
そうあれと、身をもって教えてくれた流川のためにも、自分のこころに正直に。
「いいのか? 俺はいつ居なくなるか、解んねーぞ」
緊張ゆえにか今にも涙が零れ落ちそうな花道の眦に唇を寄せて流川がささやく。
その口元が微笑みに綻んでいることを、花道は知らない。
「耐えらンねーって言ってたよな? それでもいーのかよ」
もし流川を失うことになったら、今度こそ自分は正気ではいないだろう。でも、
「い⋯んだ」
たとえ気が狂っても、そのときにはもう流川がいないのだから。もう、これ程の情熱を持って自分を待っていてくれる人はいないのだから。
それならばいっそ狂った方が幸せではないか。
「手、出せ」
言われて素直に左手を差し出した花道のその薬指に、流川の手が元通り、先刻かえしそびれていたリングを通す。
その流川の手の動きを追っていた花道の視線はリングの上にとどまったまま、
「なんでだろうな⋯⋯」
珍しくも表情を読ませない声が、つぶやいた。
「俺、おまえの身体は冷たいんだって、ずっと思ってたんだ⋯⋯」
部屋のあかりをすべて落としても視界がほのかに明るいのは、カーテンを閉め切らなかった寝室の窓からのぞく降雪(ゆき)のせいだ。
けれど雪はいつかやむだろう。
跡形もなく溶けて消えてしまうだろう。
目撃者はいなくなる。
どちらが先に手を伸ばしたのか、白い波間に散る緋色。
噛み付くように唇を合わせて。
触れてしまえば歯止めが利かなくなるのは解っていたが、もう止めることなど流川にはできなかった。
身体の奥底から湧き上がる、抑えがたい感情。
食い殺してしまいたい、動物的な衝動。
はじめて触れたあの日でさえ、こうではなかったのに。
箍が、はずれている。
この期に及んで頭なんて何の役にも立ちはしない。
あるのはただ、この身だけ。
皮膚が発火する。
躯中の血液が沸騰する。
錯覚――。
ともすれば飛んでしまいそうになる意識を繋ぎとめようと、花道がきつく歯を立てた肩からじわりと広がる痛みでさえ、いまの流川の理性を呼び戻すことはできない。
頭の中がスパークするような、その瞬間をふたりで共有した後も、彼の波はおさまらなかった。
「サクラギ⋯⋯」
何度も呼びかけてくる、耳に馴染んだ低い声。
背筋の震えをおさえられず、乱暴ともいえる激しさでふたたび追い立ててくる男のすべてを、花道は必死になって受け止めようとしていた。
言葉にならない想いを全身で伝えようとしている流川が、身を切られそうに思うほど愛(かな)しい。
「⋯⋯ルカ⋯ワ」
呼んで欲しかった。名前ではなく、いつものあの呼び方で。
「いつも、みて⋯に、呼べ、よ」
――呼んでくれ、おまえだけの⋯⋯。
「⋯⋯サクラ⋯ギ?」
「そ⋯じゃ、ねぇ」
そうじゃなくて、いつもの、あの⋯⋯。
「どあほう」
耳朶に唇を押し当てるようにして囁かれ、
「⋯⋯っ」
流川の背を抱く花道の躯が震えた。
――桜木⋯⋯。
花道のこころが己に向かって開いているのがわかる。
あの夜に抱えていた切なさも苦しさも今はない。緊張に強張っていた肢体さえ、溶けてやわらかくしなう。
あたたかく溶け出した花道の気持ちが溢れて彼自身を包み、さらに流川までもを取り込もうとしている。
流川はそれに逆らわなかった。
うねる波に飲み込まれて。
流されてもいい、ふたりでなら。
雪よ降れ。
秘密を囲え。
この夜を閉ざせ。
おまえが溶けて消えるとき、聖なる夜を抱いて逝(ゆ)け。
1996.06.xx 脱稿/2018.11.05 微修正
・初出:『J』1996.06.09 発行