『非情階段』 R18


 録音テープからお経が流れる陰鬱な雰囲気の中、斎場となった赤木家の庭に仮設された受付の前でひとり、長身の青年が足をとめた。
 齢(とし)のころ、二十五、六。
 すらりと伸びた手脚は運動選手のそれ。
 既製品では間に合わないのだろうオーダーメイドらしい喪服は真新しく。
 青年は着慣れないその喪服の懐から無言で香典の包みを取り出すと、受付に立つ若い女性に手渡した。
 もう陽も暮れかかり、あたりは薄暗くなろうとしている。暦の上では冬をも過ぎた11月の半ば、むきだしの頬をなぶる風は冷たさを通り越して痛痒い。
「こちらにお名前を――」
 言いながら帳簿を進めサインペンを差し出した彼女は、青年の顔を見上げてハッと息を飲み、それから寒さのせいばかりではない強張った表情で微笑んだ。
「⋯⋯晴子もきっと喜ぶわ」
 だが彼は、高校の3年間ショートカットだった目の前の彼女が、故人に寄り添うように存在していたことを記憶していない。
 受け取ったサインペンで無造作に、知らぬ女の名の隣へ『流川楓』と三文字並べ、青年はのっそりとその場を後にした。
 赤木――いや、桜木晴子――の遺影に焼香するために。






「花道、流川が来てくれたぜ」
 喪主の席に座る花道は、背後から小声でかけられた洋平の言葉に、俯けていた顔をゆっくりと上げた。
 見れば、ちょうど廊下から現れた件(くだん)の男の、複数の電光に照らされた長い影のひとつが、座敷の下座にさしかかろうかというところだった。
 流川 楓。
 高校一年の春、校舎屋上での、これ以上ないという最悪な出逢いからもう十年の年月が流れよとしている。その間バスケをする上で、味方として敵として、そして何よりも最高のライバルとして常に花道の傍らにあり続けた男。
 晴子が、多分の憧憬をも含めて彼を愛していたことを、花道は知っている。
 そしてその流川が、誰を見つめ続けていたのかも。
 けれどそれを知った上で尚、花道が、大学を卒業しプロバスケの選手になって二年目の夏、晴子との婚約を決めたのには相応の理由(わけ)があった。
 晴子が生前、結婚して幸せな家庭を築くことが夢だと語って、はにかんだような笑みを見せたことがある。それは、白血病を患った自分には叶えられない望みと知っての、諦めの笑顔だった。
 その笑みを見たとき、花道は晴子らしいその小さく温かなままごとのような夢を、自分の手で叶えてあげたいと思ったのである。死にゆくかけがえのない存在を前に、何も出来なかった過去の無力な自分を思い出すと、そうせずにはいられなくて。
 高校一年のあの日から、憧れ続けた彼女のためにも。
 花道にとって晴子は、男として守りたい女性(ひと)だった。
 ――どうせ、もう何も失うものを持たない人生だから。
 こうして花道は終わりの見える幸せを選んだ。
 ふたりの結婚式は、神父を招いた、入院中の病室で。
 本当は、ちゃんとした式場で挙式する予定だったのだが、それはついに許されなかった。
 晴子の病状が急激に悪化したためである。
 既に死相の現れた晴子の顔に化粧をほどこし、ベッドから起き上がることのできない彼女の上にウェディングドレスを着せかけて、花道には身寄りがないため、赤木家の、それもごく少数の身内だけが集まってのささやかな式だった。
 そして式を挙げた翌々日、容態が急変した晴子は息をひきとった。
 花道に、ありがとうの一言を残して。






 焼香をすませた流川が、衣擦れの音をたてながら喪主に向き直った。
 桜木花道。
 トレードマークとしてプロバスケの世界でも定着してしまった彼の赤い髪は、この式場においては一種異様な光景だ。
 出遭った頃と少しも変わることのない『赤』
 けれどそれを有する花道自身はもうあの頃のままではない。
 幼さを残していた頬の丸みは落ち、少年の利かん気な表情(かお)もいつの間にか大人の男の表情(いろ)を垣間見せるようになった。純粋で希望に光り輝くだけだった瞳でさえ、今は翳りを知っている。
 十年間、彼だけを見つめてきた流川には、彼のことならそれがどんな些細な変化も手に取るようにわかった。
 ――どあほう。
 流川は、花道が晴子と婚約したことを人伝えに聞いていた。
 ひとを守る幸せを選んだんだな⋯⋯。
 誰に言うでもなく漠然と思ったものだ。
 これでもう、自分にできることはないのだと。
 その日から、遠く彼を見つめるだけの日々が始まった。
 それが⋯⋯。
「アイツも喜んどるだろう」
 ふいに、喪主席のひとつ下座から、聞き取りにくい程の低音(バス)で声がかかり、流川はハッとして顔を上げ、無言のまま軽く会釈を返した。
 晴子の実兄・赤木剛憲。
 彼の眼が少し充血してるように見えるのは、気のせいではない。
 流川は再び花道へと視線を戻す。
 顔色はあまりよくないようだが、その表情はひどく落ち着いて見えた。涙の跡も見当たらないほどに。
 そのとき、乾いた視線が絡んだ。
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯」
 が、互いに言葉はない。
 沈黙が苦痛に変わってしまう前にこの場を辞そうと、流川が静かに頭を下げたとき、花道の背後に別室から現れた洋平が、
「いま客足切れてるみたいだから、少し休めって、義母さんが⋯⋯」
 そう囁くのが聞こえ、それにつられて顔を上げると、
「こいつ連れて奥に行ってやってくんねーかな」
 流川にも声がかかる。
 流川は無言で頷き、疲労と寝不足のためにか少し足元の覚束ない様子の花道に肩を貸す格好で、洋平の案内する部屋へと足を進めた。
 案内されたのは客間らしい和室。
「じゃあ俺、お茶でもいれて来るから」
 流川に目配せをひとつ残し、洋平は姿を消した。
 凭れ掛かることができるようにと柱の側に花道を座らせ、流川もその隣に腰を下ろす。
 ふたりの間には、相変わらずの沈黙。
 が、永遠に続くかに思われたそれは、花道のひとことの前に消失した。
「なあ、俺たち、このままでいようぜ」
 流川はハッとして顔を上げる。
 ――俺たち、このままでいようぜ。
 進路の最終決定日を目前に控えた高校三年の冬、ふたりきりになった部活後の体育館で花道の口が同じ台詞を声にしたことを流川は覚えていた。
『ルカワ』
 あのときと同じ瞳で、花道が自分を見ている。
 強い決意を秘めた、瞳。
『忘れんなよ?』
 互いの瞳の中、同じ想いが潜むことに気付いたのはいつだった?
『お前は俺が倒すんだからな』
 それなのに、牽制し合うようにして、この気持ちを言葉にしなかった三年間。
『ずっとライバルでいようぜ』
 ふたり一緒に、といくつかの大学から誘いがかかっていたにも関わらずそれぞれ違う大学を選んだのも、プロとなった今、別々のチームに所属しているのも、すべてはあのときの花道の台詞に端を発している。
「知ってたんだ、俺、晴子さんが長く生きられないってこと。だから⋯⋯だから結婚できたんだ」
「どあほう⋯⋯?」
 突然の花道の言葉に流川は眉根を寄せる。
「大切なものが急になくなるなんて、辛れェよ。俺にはもう耐えらんねー。いつそうなるかって、怯えて暮らしたくねえ。それなら、いつなくなるか判ってる方がいい。それが判んねえんだったら、はじめから手に入れない方がいい。だから⋯⋯」
 晴子との関係には終わりが見えていた。
 散ると判っているから人は桜を愛でるのだ。終わると判っているから、祭りは狂気を食(は)んで盛り上がる。
 散らない桜があるのなら、終わらぬ祭りがあるのなら、誰が桜を愛でようか、だれが祭りに酔うものか。
 終わりがあると知っているからこその愛楽。
 でも、流川との関係には――。
 流川を見つめる花道の瞳が、よるべない感情に揺れている。
 流川は黙って花道の肩を抱き寄せた。
 常ならば殴ってでもやめさせようとする筈のその行為を、花道は嫌がる素振りすら見せずに受け入れている。
 彼は流川の胸に頭を預け、静かに目蓋を閉じた。
 おとなしく、されるがままになっていた花道の全身からいつしか力が抜け、その胸が規則正しい寝息に隆起しはじめる。
「さくらぎ?」
 呼び掛けてもいらえはない。
『俺たち、このままでいようぜ』
 花道の声が二重に蘇る。
「⋯⋯できねえよ」
 流川は苦渋に満ちた表情で呻いた。
 もう、無理だ。
 これ以上、自分の気持ちは騙せない。
 その想像に脅えながら、それでも。
 重みと共に存在感を増した腕の中の確かな熱を、流川はそっと、けれど、ありったけの想いを込めて抱き締めた――。






 桜木晴子の葬儀からひと月余。
 彼女を取り巻いていた人々の記憶からも、悲しみのそれは少しずつ薄れはじめている。きっと四十九日で顔をあわせる頃には、生前の故人の思い出話も笑って出来るだろう。
 流川と同じチームに所属している赤木の話だと、花道ももう、晴子の死から立ち直っているとのことだった。
「もともと死期が判っていたからな」
 あいつもそれなりに心の準備をしていたんだろう、というのが義兄なりの見解で、そいう彼自身の口調にも悲愴感は既にない。
 赤木のその説明に頷きがら流川は、しかし内心密かに疑ってもいた。
 あの葬儀の日の客間で、流川の腕の中でほどなく目覚めた花道は、
『次の試合で会おうぜ』
 強気な笑顔と言葉を残し、喪主の席へと戻って行った。
 そこには、大切なものを亡くすことを恐れて流川に見せた、あの縋るような表情は微塵もなかった。
 数十分前の出来事がすべて幻影(まぼろし)だったのかと思わせる程に。
 立ち去る足取りさえも力強く。
 もう大丈夫だ、と。無言の背中。
 あの日以来、流川は彼と会っていない。
 だが流川は花道が強がりなヤツだと知っている。出逢った頃から彼は痩せ我慢ばかりしていた。
 花道の明るさは寂しさの裏返し。
 だから不安なのだ、花道は本当に立ち直ったのだろうかと。






 駅近くの陸橋の真ん中でかれこれ四時間、花道は橋の下を通過していく自動車(くるま)のテイルランプをぼんやりと眺めていた。
 理由などない。
 眺めはじめた頃には連なる線だったそれが、いつの間にか点に変わってしまっているのだが、そんなことは気にも留めていない彼だった。
 何気なく左腕の時計に目を遣れば、いつの間にか日付けが変わって既に一時が近い。花道はそのまま左手を目の前にかざした。
 薬指に、装飾のない、プラチナの指輪。そこには、バスケをするときでも邪魔にならないようにとの、贈り主の配慮が伺える。
 これと同じデザインのもうひとつのそれは、晴子が持って逝ってしまった。
 指輪交換のときに触れた彼女の手のひらは肉付き薄く、花道の手で包み込んでまだ余りある小ささだった。痩せてしまった指に花道の贈ったリングは少しゆるくて、そのことを思い出すたび今でも胸が痛む。
 もうすぐ晴子の四十九日。
 花道はゆっくりと、淀んだ空気の舞う空に向かって白い息を吐き出した――、つもりだった。
 が、口から零れたそれに色はなく。
 体内で暖められている筈の吐息でさえ色付けない程にこの身が冷えきっているのだと知って、彼は再び色のない溜息をついた。
 自分が守らなければならないものは何ひとつ、もうこの世には存在しない。自分という存在でさえ、彼にとっては守るべき対象になり得ない。
 芯から凍えた花道の身体は、寒いという感覚さえ失ってしまっていた。
 ――さて。
 終電も出てしまった。ここからどうやって帰ろうか。
 電車で30分の距離を歩いて帰ったら、いったい何時間かかるのだろう。
 その、自虐としかいいようのない行為を敢行しようと、花道が踵を返したときだった。彼の背後から、鋭い声が飛んだのは。
「どあほうッ!」
「!!」
 相手を振り返って確認するまでもない。
 この十年、花道のことをこう呼ぶ人物はただひとり、
「ルカワ⋯⋯!?」
 その人をおいて他にはいない。
「なんでお前が、ンなトコ⋯⋯」
 いつの間に陸橋をのぼって来ていたのか、驚いて振り向いた花道の視線の先に、怒った貌で彼は立っていた。
「ンだよ? そんな怖ェカオして⋯⋯」
 笑って茶化すように言ったつもりが、寒さに知らず強張っていた頬筋はうまく動いてはくれなかった。
 花道の表情は硬いまま。
 向かい合った流川は何も言わずやにわに目の前の男の手首を掴むと、花道が向かおうとしたのとは反対の方向に歩き出した。
「おい! ルカワッ、どこ連れてく気だよ!?」
 花道の抗議になど耳を貸しもしない。
「家まで送ってやる」
 途中いちど振り向いてそれだけをボソリと告げると、陸橋を降りて自分の自動車(くるま)に辿り着くまで、花道が何を言おうが彼はいっさい取り合わなかった。
 ほんとうは、言ってやりたいことが山程あった。
 決して体温の高くない流川の手のひらに伝わる花道の手首の冷たさは尋常ではなく、流川が陸橋の上の彼の姿に気付くどれだけ前から、この冬空の下、コートすら纏わぬ薄着で横殴りの木枯らしに吹かれていたのかと追及したかった。スポーツをやっている人間、それもプロ選手である身で己の身体を冷やすということが、何を意味するのか解っていない訳でもあるまいに。
 けれど叱責の言葉は口にのぼることは、ついになかった。そんなこと、とてもじゃないが流川には言えなかった。それよりも、今夜ここで彼を待っていて良かったと、安堵する気持ちの方がはるかに強い。
 流川は何とかして花道の姿を一目見ようと、何日も前から毎日、花道が通勤に使うこの駅近辺で彼を探していたのである。花道に気付かれることなく、遠目に彼の様子を知るにはそうするしか思い付かなかったのだ。
 そうしてやっと視界に捕らえた花道の姿は――。
 なにが立ち直った、だ?
 あの姿のどこが!
 みんな花道の強がりに、まんまと騙されているだけではないか。
 なぜ誰も気付かない? あいつが自身の心までも捨ててしまおうとしていることに。
 左手の指輪を眺め遣る横顔には、哀しみの表情しか浮かんでいなかった。
 深い溜息は諦めのそれだった。
 ――俺が、いる。十年間、お前だけを見つめ続けた俺は、ここにいる。
 そう叫びだしそうになったとき、流川は弾かれたように階段を駆けのぼっていた。






 車窓を流れる景色から、流川の運転するプレリュードが、自分の家に向かっていないことに気付いても、花道は何も言わなかった。彼は流川が着せかけたコートに包まれて、おとなしく助手席から窓の外を見つめている。
 マンションの駐車場に車を停めた流川が手を引いて乗り込んだエレベーターの中、明かりの元でようやくはっきりと目にすることが出来た花道の、別人かと見まごう横顔は蒼白に近く、いっそ痛々しいほどだった。
 その彼は今、地上12階にあるマンションの一室――流川の部屋――1202号室の浴槽で、凍えた身体を温めている。
 暖房の程よく効いた寝室のベッドの端に腰掛けて、流川は次第に強く打ち始める己の鼓動を自覚していた。
 花道が、こんな近くにいる。
 そう意識するだけで彼は息苦しさを覚えてしまう。けれどそれは負の感情を伴うものではなかった。
 花道のいる浴室からは、ときおり思い出したように湯の揺蕩(たゆた)う音が聞こえてくる。
 パタン⋯⋯。
 浴室のドアの音がして。
 数分後、カーペットを踏む濡れた足音が、寝室の入り口で止まった。
 流川が中から扉を開けてやると、借り物の真っ白なバスローブを身に纏った花道が、一瞬の逡巡のあと静かに部屋に入ってくる。
「ちゃんと、あったまったか?」
 コクリ。
 見れば頷く花道の、ついさっきまで色を失っていた頬や唇が、今はほんのりと淡い温もりを宿しているのが判る。手のひらで、俯いたその頬に確かめるように触れると、花道の伏し目がちな目蓋の先で、目立たない睫がかすかに震えた。
「もう寒くねーな?」
 コクリ。
 ドアが閉まる音にビクリと肩を震わせた花道の身体を、流川は両腕を伸ばしてそっと抱き締める。より強く花道を感じようと、流川は彼の肩に顔をうずめた。
 高校を卒業してからの彼等は、バスケを介さなければ顔を合わせることもなかった。試合会場での逢瀬など一瞬のこと、たとえ対戦するようなことがあっても、コート上では相手を挑発する短い言葉の応酬がせいぜいで、ましてこんなふうに触れ合うことなど皆無だった。
 バスケに携わっていく限り自分達が決定的に離れることはない。
 それが唯一、流川の心の拠り所であり、そしてまた、それ故にやりきれない想いもあった。流川にとって花道は、触れたくて、離したくなくて、気も狂わんばかりに求め続けた存在だったのだから。
 その花道が、いま己の腕の中に在(あ)る。
 壊れかけた心。
 もう二度と、離したくない。
 もう誰にも傷付けさせはしない。
「ルカワ⋯⋯」
 かすれた声に呼ばれて顔を上げると、流川のそれとほぼ同じ高さにある花道の色素の薄い茶色の双眸が、かすかな怯えを浮かべて彼を見ていた。
 安心させるように穏やかな視線で見つめ返し、流川はおもむろに花道の左手を顎の高さまで持ち上げた。
「っ!」
 花道は反射的に目を瞑ってしまう。
 流川の開いた歯列が花道の指を⋯⋯。
 痛みを予測して竦んだ身体は、しかしいつまで経っても訪れないその感覚に緊張をとく。
 おそるおそる目を開ければ、ちょうど流川の頭部が花道の手から離れて行くところだった。そして流川の、並びのいい上下の前歯の間に見えるのは、プラチナの⋯⋯。
 ――ルカワ!
 流川は指輪の跡さえ残せない花道の薬指に唇を落とす。
 今ここにいるのは、誰のものでもない、自由なおまえ。
 嘘は捨てて。みんな捨てて。
 欲しいのは真実だけ。
 流川は花道の指を解放すると、今度はその唇に自分の唇をゆっくりと重ねていった。






 剥き出しの神経に直接触れられているような、錯覚。
 素肌の上をすべる指はもとより、鼻孔をかすめるその懐かしさを伴った匂いや、相変わらず抑揚を持たない声、果ては吐き出される呼気にさえ、それがすべて流川によってもたらされるものだというだけで、花道の身体は反応する。
 目を瞑って視界を闇に変えても、流川の存在は消えてしまわない。それどころか、ますます存在感を増して花道を追い詰める。
 熱にうかされたような、耐えることの難しい感覚。
 花道は筋が白くなるほどの力でシーツを握りしめていた。そのこぶしを、流川の汗ばんだ手のひらが包み込む。
 花道は涙が溢れて止まらなかった。
 痛みのせいでも、苦しみのせいでもない。
 それは、哀しみ。
 そして、喜び。
 相反するふたつの感情の波。
 それらが容赦なく花道を攫い、押し流そうとする。
 眦から顳かみへと流れ続けるそれを、流川の指が、唇が、何度も何度も拭い、吸い取っていく。その柔らかく優しい感触が、ますます花道の涙を誘う。
 それは、晴子を失ってから初めて、花道が流す涙だった。
「どあほう⋯⋯」
 耳元でのあやすような呼び掛けに、うっすらと目蓋を持ち上げる。
「ルカ⋯ワ⋯⋯」
 にじんだ視界に映るぼんやりとした人影。その存在を確かめたくて、花道は腕を伸ばした。
 その行動は流川の目に、自分を求める仕種のように映る。
「桜木⋯⋯」
 吐息まじりの熱い声が花道の首筋にかかる。
 力強い腕が花道の腰を抱いている。きっと自分がどんなに重く寄り掛かっても、この腕は少しの苦もなく抱きとめてくれるだろう。そう感じたとき花道は、自分が流川になにを求めていたのかを知った。
 ――そうだ。
 晴子は、花道が男として、守りたい女性(ひと)だった。
 そして流川は――。
「⋯⋯っ」
 身体のいちばん奥深い場所に、流川の熱が入り込んでいくのを意識する。花道の思考は白く焼け付いていく。
「ルカワ⋯、ルカ⋯⋯」
 きつく噛み締めていた唇がほどける。両腕を回して流川の背に強く縋った花道は、その唇で幾度となく彼の名を呼んだ。
 それが意識を繋ぎ止める、唯一の術だというように。






 どれほどの時間意識を失っていたのだろう。
 水底(みなそこ)からのぼってきた泡(あぶく)が水面でパチンと弾ける、そんな感覚で花道は目覚めた。
「―――」
 上体を起こし、傍らに眠る男を見下ろす。
 花道と向かい合う格好で横たわっていたらしい流川は熟睡しているようで、花道が起き上がっても目覚める気配すらなかった。
 ここへ来たらどうなるか、解っていなかった訳じゃない。知っていながらついて来た自分。
 それが、真実。
 このままでいよう、と。常に予防線を貼り牽制し続けたのは自分の方なのに、そこに出来た綻びを流川の前に曝け出したのも、他ならぬ自分だった。
 だから、この男を責められない。この男のせいだけにはできない。
 ――ルカワ⋯⋯。
 半開きの形の良い唇からこぼれる流川の規則正しい寝息を聞いていると、ふいに何かが胸に込み上げて来て花道は視線を逸らし、そっとベッドから抜け出した。音を発てないよう息を詰めてドアを開け、ぎりぎりの隙間から室外(そと)へ。
 彼の裸身は浴室の脱衣場へと消えた。
 気を失っていた間に流川が拭ってくれたのだろう花道の身体に不快感はなく、そのまま彼はその場に置いていた自分の衣服をひとつずつ身に着けていく。
 シャツのボタンをとめる己の手を見るともなく眺めていた花道は、自分が指輪をはずしたままであることに気付いた。
 着替えを終えてから、再び息を殺し足音を忍ばせて寝室に戻ると、ベッドの上の流川は先刻と寸分たがわぬ姿勢で未だ安らかな寝息を発てていた。
 シーツから覗いた長い腕。
 その腕を、持ち主を起こさぬよう気を遣ってシーツの中へ入れてやりながら、花道は洋平の言葉を思い出していた。
 葬儀の日、人手不足を補うため赤木家に来ていた洋平は、客間から喪主の席へと戻った花道にこう訊いた。
『少しは眠れたか?』
 意味深な笑み。
 そう言われるまで意識もしなかった。晴子の容態が悪化してから、自分が一睡もしていなかったことなど。
 あの日、流川のこの腕の中で、ほんのひと時とは云えやっと眠ることができたのだ、自分は。
 そして今夜は泣くことも。
 父親を亡くしたときは、洋平に見守られて眠った。洋平に慰められながら泣いた。
 でも今度は⋯⋯。
 花道はスプリングの軋む音に身を竦めながらベッドの端に腰を下ろした。
 ――ルカワ、俺、自分の居場所を見つけたよ。
 花道はゆっくりと身をかがめ、柔らかな寝息が己の唇に触れる距離まで顔を近付けていく。
 ――あの女性(ひと)を失って尚、俺が生き続けている理由(わけ)を知ったよ。
 目を伏せて、触れるだけのキスをした。
 本当は気付かない振りをしていただけで、もうずっと前から――あの日、屋上で出逢った時から――決まっていたことなのかも知れないけれど。
 花道は身を起こし、流川の寝顔に優しい視線をそそぐ。
「ありがとな⋯」
 しかし次の瞬間、花道は何かを振り払うように頭を振ると、当初の目的、指輪を探すべく流川の側を離れる。が、流川がはずし取ったそれは、いくら探しても見当たらなかった。花道はベッドの上の流川を振り返り、
 ――おまえ、どこに隠したんだ?
 寝顔に無言で問いかける。
 きっと流川は自分を引き留めたいのだろう。帰したくないのだろう。
 この部屋の中で花道を見つめていた流川の瞳は、常にそう訴えかけていた。きつくこの身を束縛しながら。
 だから彼は隠したのだ、指輪(きりふだ)を。
 だが、行為の間、無形の鎖で花道を縛り付けていた双眸は今、男のその激しいまでの想いと共に薄い目蓋の下に隠されて――。
 ――いまなら⋯⋯。
 今ならこの鎖を振り切ってしまえる。
 花道はそう思った。
 こんな不安定な気持ちのままで、もう一度流川のあの瞳に見つめられたら、今度こそ本当に捕われてしまう。
 そんなのはらしくないから。
 流川とはいつだって、いつまでだって、対等でありたいのだ。そう願う自分は狡いのか――。
 花道は流川に背を向けた。
 ――でも。
 寝室のドアを開けたまま、花道の肢体は玄関へと続く闇に溶ける。
 ――切札は、置いて行くよ。






 玄関の扉が閉まる音を聞いた気がして、流川は浅いまどろみを放棄した。
 ――どあほう?
 今し方いっしょに眠りに就いたはずの花道の姿が隣になく、部屋のドアも半開きになっている。
 花道の気配がない。
 流川はシーツを跳ね上げて身を起こすと、床に落としてあったズボンに脚を通し、シャツを着るのももどかしく寝室を飛び出した。玄関を出てみると、そこから10メートルほどの距離にあるエレベーターに、今まさに花道が消えようというところだった。
「桜木ッ」
 叫んで走り寄った流川の目の前、タッチの差でドアが閉まる。
 花道に彼の声は届かなかったのか――。
 が、流川の次の行動は早かった。
 一瞬の躊躇いもなく俊足を飛ばして階段に向かい、そこを2段飛ばしで駆け降りて行く。
 花道をこのまま帰してしまう訳にはいかないのだ。まだ自分は何ひとつ彼に伝えていないのだから。
 おまえを守る、と。
 たとえ花道がそれを望まないと云おうが構わない。嫌がっても引く気はない。
 縋り付いてきた腕の頼りなさを、流川はもう知っている。
 花道の嘘を知っている。
 気付いてない振りなど、もうしない。
 ――愛されたいなら、俺がいる。愛したいなら、俺がいる。俺はおまえを遺して逝ったりしない。
 だから。
 きっと、捕まえる。
 もう逃がさない。
 走る男の胸に迷いはなかった。











 地上に到着したことを知らせる音がしてエレベーターのドアが開く。まっすぐに一歩、足を前へ踏み出した花道は、しかしその場から動けなくなった。
「も⋯、どこにも⋯⋯行かせねー」
「⋯⋯ル、カワ⋯」
 何者よりも強く花道を守る男の腕が、汗の匂いと乱れた呼吸と共に、彼の身体を力のかぎり抱き締めていた――。



1995.11.xx 脱稿/2023.03.21 誤字修正 



・初出:『F』1995.11.12 発行
・イメージsong 中西圭三『非情階段』(※誤字に非ず)
 のっけから死人が居て済みません。晴子ちゃん、ないがしろにする気は毛頭ないので大目に見てやって頂ければ⋯⋯。
 ひと様のキャラを死なせることにはとても葛藤があり、決して本意ではありません。