『明日はきっといい日』


 奥歯が痛い、と部活中どあほうがあまりにも騒ぎ立てるものだから、見兼ねた彩子先輩が、
「どれ、口開けてごらん」
と、どあほうの大口を、背伸びしながら覗き込んでいる。
「と⋯⋯、屈んで屈んで⋯⋯。あー、こりゃ親知らずだわ」
「あやひひゃひゅ?」
 先輩の人差し指に下の前歯を押さえられたままだから、なんとも間抜けな調子でどあほうは『親知らず』を反芻した。
「虫歯じゃないから安心していいわよ」
 ペチッと軽く頬をはたかれながら、ようやく口を解放されて、
「こんなに痛てぇのに⋯⋯。アヤコさん、オレ歯医者行かなくていーのか?」
 どあほうは不安げに尚も言い募っている。
「歪んで生えて来てんなら大変だけど、あんたのキレイに生えて来てるから全然ヘーキよ。ま、それだけアゴが発達してれば当然ね。医者に行ったって冷やしとけって言われんのがオチだし、痛み止めなら薬局で買った方が早いんじゃない?」
「ふーん」
 納得したのかそうでないのか、なんともあやふやな表情で頷いていたどあほうと、
 ――げっ。
 バッチリ目が合ってしまった。オレは無表情のまま凍り付く。
「ル~カ~ワ~」
 どあほうがニヤニヤしながら近付いてくる。
「おめー、親知らず生えてんのかよ?」
 どあほうの負けず嫌いは今に始まったことじゃない。ただ、夏のある一件を境にその傾向がますます強くなったのも事実だ。
 その一件とは、生年月日のことである。
 全国大会に出場することが決まって間もなく製作した、必要書類のある項目にそれはあって、自分の誕生日がオレのそれよりも三ヶ月遅いと知り、どあほうは憤慨した。だがこればかりはいくら騒いでもどうにもならない。この件がよほど気に喰わなかったのだろう。以来どあほうは、以前にも増してオレに対する優越感に浸ろうとする。
 一年生の夏を境に、オレたちの関係は180度回転してしまっていたけど、こういうところは相変わらずだ。
「口開けてみ。ホレ」
 今も目の前で、どあほうが不遜な笑みを浮かべているのは、オレに勝てると踏んでいるからだ。
 ――どうせオレのは生える兆しすら見せてねぇよ。悪かったな。
 オレは大人気なく口をぎゅぅっと噤んでどあほうを睨み付けた。
 この数分後、オレたちが取っ組み合いのケンカをおっぱじめたのは言うまでもない。





「親知らずってさ、変な名前だよなあ」
 いつの間にかオレたちふたりの日課になった居残り練習を終えて、どあほうの右隣、最寄り駅までの短い距離をママチャリを押して歩いていたら、不意に左から声がした。オレ以外には誰もいないのだからオレに向かっての発言である筈なのに、オレが振り向いた先でどあほうの視線は前方へと向けられていた。だからどあほうの視界にオレの姿が入っているのか甚だ怪しいもんだったが、それでも、聞いているぞ、の意志表示のため、取り敢えずオレはコクコク首を縦に振る。
 冬至を過ぎて少しずつ日が長くなっては来ているが腕時計の針は21時を回ろうかという時刻、街灯をちょっとはずれると隣のどあほうの表情さえ暗さのあまりよく見えない。
 どあほうは更に言葉を継いだ。
「オレ、なんで親知らずなんて言うのか、考えてみたんだけどよ⋯⋯」
 オレはどあほうのことをただのアホウだとばかり思っていたのだが、それが案外いろんなことを考えるヤツだと知ったのは最近のことだ。
「昔の人って寿命が短かったっつーだろ? だからよ、この歯が生えて来るころには親は死んじまってて、子供のこの歯が生えて来たってこと親が知らねーから、それで親知らずっつーんじゃねーかと思ったんだけど⋯⋯」
 違うのかな、とどあほうはこの件(くだり)でやっとオレの方へ顔を向けた。ほかの人間がいるときにはオレには決して見せない、頼るような表情で。
 ――そんなこと、オレに訊かれても困る。
「⋯⋯だから、おめーのはまだ生えてねーんだ、きっと」
「⋯⋯⋯⋯」
 オレは何か言い返そうと口を開きかけて、やめた。
 どあほうの言わんとしていることに気付いてしまったのだ。
「どあほう⋯⋯」
 ――おまえだって、お袋さんは今もどこかで生きてるんだろう?
 言いかけて、それがなんの効果も持たない言葉だと気付き、また口を噤む。
 親がいて、それでも親知らずが生えているヤツなんて、この世にごまんといる。そう思うのだが、オレにはそれがうまく言葉にできない。
 オレの方が三ヶ月早く生まれていて、その分時間的にはどあほうよりも多くいろんなことを経験する機会があった筈なのに、実際にはオレよりもどあほうの方が遥かに多くのことを経験している。
 慰めたいと思うのに、オレはその術さえ満足に身につけていないのだ。
 そのことが、何よりも悔しい。
 自信があるのはバスケに関することだけで、それ以外のこととなるとオレはどあほうに敵わないような気がしていた。
 ――どあほうはオレの方だ。
 どあほうに何も言ってやれないまま、気付けばオレたちの足は駅の前まで来てしまっていた。
 ここがオレたちの分岐点。
 帰宅ラッシュのピークをとっくに過ぎた時間、駅の周りには疎(まば)らにしか人がいない。
「じゃあな」
 定期をスポーツバッグのポケットから出しながら、どあほうはオレに背を向けた。
 駅の入口の照明の下で一瞬オレの視界を掠めたどあほうの双眸は、なんだか捨てられた仔犬の瞳みだいだった。だから咄嗟に、
「どあほう!」
 改札を抜け、そのまま消えてしまおうとする後ろ姿に、オレは叫んでいた。
「絶対そんなことねーから! オレのもすぐに生えるからっ、だから⋯⋯っ」
 ――カンケーねぇって、オレが証明してみせるから。
 大声に驚いて、その場に居合わせた乗客はみんな一斉にオレを振り向いた。でもそんなこと、構ってなんかいられなかったのだ。
「ルカワ⋯⋯?」
 オレの言葉はいつも絶対的に足りない。だけどどあほうはなぜか不思議とオレの気持ちを理解してくれた。
 今も――。
 一瞬びっくりしたような表情でオレを振り返ったどあほうは、次の瞬間、全開の笑みをその顔に浮かべ、ひとつ大きく頷いて見せてから、もう一度、
「じゃあな」
 そう言って軽く手を振り、ちょうどホームに滑り込んで来た電車に向かって今度こそ振り返らずに走り出した。





 交差点で自転車のペダルを漕ぐ足をとめる。
 目の前を走り過ぎていく車から視線を逸らせて空を見上げれば、今夜はよく晴れていて星が見えた。
 ――オレの親知らずが生えるとき、今と変わらずどあほうの側に居られますように。
 何へともなくそう願って、オレは青になった信号を渉るべく、愛車のペダルを再び漕ぎ始めた。



1995.11.09 脱稿 



・初出:『F』1995.11.12 発行