と、言う訳で、だ。
やっぱりオレにはひとり寝なんて淋しい真似は我慢できず、心配そうに見送るアランを残して二階へ上がって来ていた。
ぎしぎし軋む床板の音が静かな夜の空間に、いやに大きく響いて聞こえる。クラークを起こしてしまうかも知れない。いや、それともヤツはまだ寝ていないだろうか。
どこがクラークの寝室なのか解らなくて、オレは端から順にドアを開けていくことにする。
ふたつ目のドアを引いたら、廊下に薄明かりが漏れた。
「クラーク?」
小声で名前を呼びながら部屋の中へ顔だけ侵入させる。
ベッドサイドの読書灯の小さな明かりだけが灯った部屋で、クラークはやはりまだ眠ってはいなかったらしい。
「なにか用ですか」
ベッドの中で上半身だけを起こし、クラークは戸口に立つオレを見遣った。
「いや⋯⋯これといって用は別に⋯⋯」
口籠るオレに、クラークの冷たい視線が突き刺さる。
「カギ掛かってなかったからさ」
「⋯⋯カギが掛かってなきゃ、用もなく、どこでも入って来るんですか、大佐は」
「用がなくても、おまえが居れば『ラルフ』は入る」
クラークは目を閉じ眉根を寄せた。
「掛けたくてもカギなんかないのに⋯⋯どうしろって言うんです」
諦めたようにひとつ溜息をつくと、
「そんな薄着でウロウロしないでください。風邪ひきますよ。⋯⋯ほら」
最後の言葉と共に掛け布団をめくって、中へ入るようにとオレを促す。
因に今のオレの格好はタンクトップにジーンズ、だった。クラークの格好もまた似たようなものだ。オレだけでなくこの男にも、パジャマに着替えて寝るなんて習慣はないらしい。戦場でのそれがいつしか習い性になってしまっているのだろう。
オレがヤツのとなりに窮屈に身体を押し込むと、クラークも読書灯を消してもそもそ布団の中へ潜り込んで来た。そのクラークの二の腕あたりに、昼間のアランを真似て鼻筋を押し付けてみる。拒絶されるかと思いきや、クラークはオレを振り払おうとせず身じろぎもしない。
「抵抗しないのか」
意外な状況に思ったままを口にしたら、暗がりの中でヤツはムッとしたようだった。
「暴れたら床が抜けます。⋯⋯一緒に一階まで落ちたいですか」
――そんな冷静に返すなよ、おまえ⋯⋯。
「じゃあキスしていい?」
「嫌だと言えばやめるとでも?」
怒気を孕んでいたクラークの声が剣呑さを増す。が、そんなことくらいでオレは怯まない。本気で嫌ならベッドが壊れようが床が抜けようが、構わずクラークはオレを振り落とすだろう。相手が上官だろうが何だろうが、それが筋の通らないことであるなら毅然と撥ね付けるのだ、この男は。おまけにクラークの虫の居所が悪かったときに無理強いをして、オレは半殺しのメに遭ったこともある。身をもって経験済みなのだった。
そのクラークが抗わないというのは、イコール、オレの行動を容認しているということだ。
それならば。
オレは読書灯をつけ、やおらヤツの上に伸掛かった。そしてオレのそれとは手触りのまったく違うブロンドの、細くて柔らかな髪の毛に指を絡ませる。荒っぽく喉に噛み付くと、
「⋯⋯ッ」
痛みを訴えるかすかな声を上げて、だがクラークの両腕はオレの背を抱いた。オレの行為に抗議する気配はない。
「ベッド」
「ん?」
「壊さないでくださいよ」
「⋯⋯一応努力はしてみよう」
オレは顔を上げ、困惑の表情を浮かべる青い瞳を覗き込み、ニヤリと笑ってみせた。
「協力、してくれるよな?」
クラークは何も言わず、オレを押し退けるようにして身を起こすと、黙って服を脱ぎ始める。その淡々とした所作が却って艶っぽく見えるから不思議だ。オレもタンクトップを脱ぎ捨てて、クラークの身体を抱き寄せた。
「オレとおんなじ匂いがするのな」
首筋に顔を寄せて息をすると、鼻孔をくすぐるのは石鹸の匂い。同じ家で風呂を使ったのだから当然といえば当然なのだが、そんな当たり前のことまでがなぜか今日はひどく嬉しい。
首筋から肩、肩から胸元へと順に唇で、いつもよりも丁寧に、そしてゆっくりと緩慢に触れていく。空いている手を腰のあたりへ滑らせると、ふっとクラークの口から小さく息が漏れた。
オレの頭上でクラークが、声を出さないよう息を詰めているのが解る。
「よせよ、我慢なんて」
言って顔を上げ、きつく噤んでいる唇に指を這わせる。
「ん」
俯くクラークが苦しげに呻いた。
「今はオレたちしかいないんだぜ」
ここは仲間のいる戦場ではないしクラークの両親も留守だ。いつものように他のことに気を配る必要はない。誰かに見られるかも知れない、誰かに気付かれるかも知れないなんて、そんな心配も無用。スリルはないかもしれないが、その代わり純粋な欲望だけを追うことができる。それは悪いことじゃない。
「オレだけに集中してな」
クラークの唇に唇で触れ、オレは言う。
「見張り番はアランに任せとけ」
その言葉がクラークの緊張を和らげたらしい。ヤツは頬を緩め、不敵な笑みでオレを見詰め返して来た。オレの背を撫で上げるその手の動きが、まるでオレを誘っているようだ。
「なあんか⋯⋯スゲェ興奮するなあ」
わざと揶揄う口調で声にする。ゾクゾクと背筋を這い上がってくるのは常よりも強い衝動。
オレはゆっくりとクラークの身体をシーツの上に押し倒し、その造形を観賞してみる。それは今更確認するようなことでもないのだが、オレと同じ筋肉質な身体だ。その肌に数え切れない程に刻まれている疵痕も、オレたちにとっては殊更珍しいものじゃない⋯⋯筈なのに。
「おかしいな」
オレは低く呟く。
「おまえの身体なんて、見慣れてる筈なのになあ⋯⋯」
なぜかひどく気が昂って来るのが自分でも意識できる。環境が変わるだけで、見慣れている筈のものまでが普段とは違っているように感じられるのだろうか。そんなことを考えていたオレに、それまで黙っていたクラークが、
「見飽きたら⋯⋯この手」
と、オレの手に触れ、オレを歯痒い想いに苛む静謐な声音で、
「いつでも離してくださいね」
――言い切りやがった。
「バカなこと言ってやがる」
オレはクラークの短い前髪を掻き上げ、まるで女子供にでもするように、触れるだけの接吻をヤツの額に残る疵痕の上へと落とした。
「クラーク。オレを飽きさせるなよ⋯⋯」
クラークの吐く息が次第に荒く早くなっていく。
外気に晒された肌がつめたく冷えきってしまうより早く、オレの加える刺激がヤツの身体をその内側から熱くする。
ときどき本気で張り倒してやりたくなるくらい静かで冷めた光を見せる青い瞳が、この瞬間にだけは余裕をなくし弱さをも垣間見せる。だがその表情を確かめたくて視線を合わせようとすれば、クラークは決まって目を逸らした。
戸惑うように。
それでも無理に追い掛けて瞳を覗き込むと、今度は目蓋を閉じてオレの追求から逃げてしまう。何度触れても何度抱き合っても、クラークのこの態度は変わらない。
「クラーク」
ヤツの一番弱い場所をオレは容赦なく攻め立てる。
「⋯⋯っ、はッ」
音になる寸前の、荒い吐息。
声を漏らすまいと喉を詰まらせ唇を噛み締めるのに、その戒めはすぐに湿った呼気にほどかれてしまう。何がそんなに辛いのか顰めた眉の下で、細められた瞳は睫までが濡れていた。
攻撃の手を緩めないままオレはクラークの唇を貪る。耐え切れずに零れたクラークの声が、オレの口腔に溢れた。
オレの背に回されているヤツの腕の先で、その手がきつく拳を握る。どんなときでもクラークは、オレの身体に爪を立てたことがない。無意識の内にでさえ、こうして自らの拳を握り込んで耐えるのだ。いつだったかそのことをベッドの中で指摘したら、女ではないから、としごく真面目な顔で答えられた。クラークらしい言い種だった。
「うぅ⋯⋯」
低く呻き、息苦しいのだろうクラークが、もう解放しろと顔を背けようとする。それを許さず尚も深く口付けると、
「ッ!」
舌に噛み付かれた。思わず弾かれるように顔を離す。
「やりやがったな」
かなり本気で歯を立てられたようで、気のせいでなく鉄の味が口腔内に広がっていた。
「自業⋯⋯自得、です」
荒い息の下でクラークが毒づく。が、その眼が――。
「クラ⋯⋯!?」
いきなり首の後ろを掴まれ、強く顔を引き寄せられた。
「ん⋯⋯」
血の滲むオレの舌にクラークのそれが絡む。傷に遠慮なく触れられ、ピリッと刺すような痛みに流石のオレも身を竦ませた。だがそのままされるに任せ、じっとしていると、クラークの舌は一頻りオレの口腔を探るように動き、最後に遊ぶようにして上顎をなぞってから、名残惜しげに離れて行った。
小癪な真似しやがって。
クラークが珍しくも子供のような、してやったり、の表情で破顔する。
「あんまりしつこいと嫌われますよ、女の子に」
冗談とも本気ともとれるその口調は、なぜかオレの神経を宥める響きを孕んでいて、
「おまえに嫌われなきゃいいさ」
今更口にする必要もない言葉で応え返し、オレはヤツとひとつになるためにその片膝を掴み上げた。
最初の衝撃をやりすごそうと、クラークは胸郭いっぱいに吸い込んでいた空気を細く長く吐き出す。その呼吸に合わせて、オレはヤツの体内を徐々に侵食していく。
「う⋯⋯ぅ⋯⋯」
自然の摂理に逆らう行為だ。
持ち主の意志に楯突いて拒絶反応を示す身体に何度も息を詰まらせながら、それでもオレを受け入れようとする気持ちの方が勝るのか、クラークはもがくこともせず、ただ重い呻き声を上げるだけだ。
「クラーク⋯⋯」
腰を抱える腕に力を込め、背を丸めるようにしてクラークの胸元に唇を落とす。宥めるように癒すように、唇の届く範囲に所構わず口付けながら、最後まで侵食し尽くしてしまうと、
「ふ、⋯⋯ッ」
深く息をついてクラークが顎を上げた。
額に浮かんだ汗の滴を手のひらで乱暴に拭ってやる。
「ラルフ⋯⋯」
オレの肩を掴んでいたクラークの手がそのまま首のラインをなぞるように辿って、その節高な指をオレの髪に絡めて来る。
その仕草を合図にオレは動き出した。
今夜は始まりからしていつもと違っていた。そのせいか常よりも夢中になってしまっていて、手加減もできなければ歯止めも効きそうにない。本当に壊してしまうんじゃないかと思った。何よりもまずクラークの身体を。オレと同じ鋼のように頑丈なヤツの四肢。簡単に壊れるほどヤワな筈はない。そんなこと、解ってる。
でも――。
オレの背を掻き抱くクラークの腕の力がいつになく強い。隠し切れない声が、痛々しいほどに反らされた喉元を迫り上がり、とめどなく溢れる。
「――クラーク、クラーク⋯⋯」
それ以外に何も口にできなくて、オレは壊れたレコードのようにヤツの名を繰り返し呼んでいた。
幸い、クラークが危惧したようにはベッドは壊れなかった。
クラークに伸掛かった姿勢のままでオレが眠ろうとしていると、
「ラルフ、どいてくれませんか。いいかげん苦しいんですけど」
クラークから抗議の声が上がる。どうやらそのまま眠ろうというオレの意図を勘付かれてしまったらしい。
「何ひ弱なこと言ってんだよ。アランにはしてやれてオレには出来ないってのか」
「アランと自分とを一緒にしないでください。自分がどれだけ重いか解ってんですか?」
「アランだって結構な重さじゃねえか」
昼間、彼女に体当たりされたときの衝撃を思い出しながらオレが言うのに、
「ラルフは筋肉の塊みたいなもんなんですよ? アランなんかメじゃないんです」
尚も言い募られて、オレは渋々身体を横にずらした。それでもヤツの気持ちのいい肉布団から完全に降りてしまうのは癪なので、頭だけを胸のあたりに残しておく。
クラークはそれ以上の文句は言わなかった。大目に見てやろう、ということなのだろうか。
そのままじっとしていると、クラークの規則正しい鼓動が直にオレの身体に響いているのに気付く。その心地よい振動に眠気を誘われ、自然、目蓋が重くなる。
このまま寝てしまおう。
そう思っていたら、クラークの手が遠慮がちにオレの髪に触れて来た。そして、大佐は、と言いかけ、
「ラルフは、」
律儀に正し、節の長い指でオレの野放図に伸びた癖の強い黒髪と戯れながら、
「髪切らないんですか」
気怠い声で訊く。
「んー。もう少し放っておくつもりだが⋯⋯。なんだ、おまえが切ってくれんのか?」
ふと夕食時の会話を思い出し、オレは軽い口調でそれを口にしてみた。
「オレが無事におまえンとこに帰って来るように、ってさ」
「⋯⋯そんな必要ないでしょう」
そう言ったクラークの声が笑っているような気がしてオレは上体を起こし、ヤツに覆い被さるようにしてその顔を覗き込んだ。
やっぱりクラークは微笑っていた。
「大佐は⋯⋯ラルフは好きなところへ好きなように行けばいいんですよ。今まで通り、思うままに生きてれば――。オレのところへなんか帰って来なくていいんです」
穏やかに凪いだ眼が、見下ろすオレを真正面から見詰めている。
「クラーク?」
「第一オレは待ってなんかいませんからね」
クラークの大きくて温かな手のひらが、何かを確かめるようにオレの頬を滑った。
「ラルフが、貴方を愛している――貴方を待っている沢山の人達の元へ無事に生還できるように⋯⋯それを助けるためにオレは⋯⋯」
眠気を堪え難くなってきたのかクラークの言葉が小さく聞き取りにくくなっていく。もう目蓋も閉じられて、そこに映っていたオレの顔は消え、オレの大好きな空色の澄んだ瞳も隠れてしまった。
「そのためにオレは⋯⋯いつでもラルフの側にいる⋯⋯す⋯⋯から⋯⋯」
呟くように言葉を残し、クラークは緩やかに意識を手放す。最後の方はもうほとんど明瞭には聞き取れなかった。
「クラーク、おまえ⋯⋯」
もう聞こえていないと解っていても、声を掛けずにいられなかった。
好きだとか、ましてや愛してるなんて言葉を、冗談でさえクラークの口から聞いたことはない。だがそんなありふれた言葉よりも、オレにとってはずっと価値ある本音を今聞くことが出来た。
もうすぐオレたちには、血と硝煙の匂いが立ちこめる、あの常ならざることが日常という日々が帰ってくる。その日常の中、これまでそうして来たように、いくつもの死線をオレたちはふたりで越えていく。これからもずっと。オレはクラークにこの命を預け、そしてクラークもまたオレにその命を預けて。いつだってオレの隣にはクラークがいるのだという、その情景をなぜかオレは無条件に信じることが出来た。
だから何も恐くない。
一生に一度、一生にただ一人。出遭えるかどうかも解らないような最高の相棒をオレと引き合わせてくれた何者かの存在と、その機会を引き寄せた自分の強運とに感謝しながら、ようやくオレもクラークの待つ眠りの深淵へと意識を投げた。
1998.11.xx 脱稿
・初出:『Luck Favers us』1998.11.28 発行(非売品)