毎年、三月の半ばを過ぎた頃から八神の様子がおかしくなる。俺はずっと、それを春のせいだと思っていた。
桜の季節になると、あの薄桃の色彩の群を目にするだけで、意味もなくそわそわしたり情緒不安定になったり、そういう経験、あんたにもあるだろ?
今年もその郵便物は庵のもとに届けられた。
封を切らなくても中身はわかっている。片道の航空チケットだ。搭乗日はおそらく三月二十四日。
バイト帰りに庵の部屋を訪れた京は、リビングの低卓の上、放り出されたのだろう、今にも落ちそうな際(きわ)にかろうじて乗っている茶封筒の存在に気付き、それを手に取った。差出人を示す記載は何もない。ただ、消印が山陰の某地名であることで、今年もまた例の召還通知が来たのだと知れた。
「今年も律儀に帰ってやるのか」
「ああ」
気は進まんが、と庵のひどく億劫そうな声がつづく。
もういいかげんバックレちまえよ、と京が庵を唆したのは一度や二度のことではない。そのたびに、逃げたと思われるのは我慢ならん、癪にさわると返されている。そういう情動は京にも覚えがあって、それ以上の教唆は難しかった。
「じゃあしばらくおあずけ、か」
「⋯⋯貴様はそれしか頭にないのか」
留守にすると言っても二、三日のことだぞ、と呆れ返った口調だが、自分に向けて伸ばされる京の腕を庵が拒む様子はない。
「気持のいいことは嫌いじゃない、だろ?」
「まあ、な」
首裏に腕を回して引き寄せる京に逆らわず、庵は自ら唇を開き、男の熱い舌を受け入れた。
口ではどうとでも言えるが、男同士、実際には、ただ気持ち良いだけで済まない交感だ。しかし、互いに、目の前の男を相手にしてでしか得られない熱があると知っている。
だから。
相手を陥落させようと挑む執拗さは、牙を剥き合う獣のそれにも似て、睦み合いには程遠いひとときを過ごすことになるのが常だった。
「俺も帰省すっかなァ」
事が終わり、荒れていた呼吸がようやく落ち着いた頃、ジーンズに脚を通しただけで、まだ素肌を晒している京が、煙草をくわえながら言う。
「⋯⋯めずらしい」
こちらはシーツに片頬を懐かせたままの庵が、わずかに目を見開いた。
「おまえが留守じゃあ、こっちにいても退屈だしよ」
さきほど庵自身が口にしたように、彼が家を空けるのはせいぜい二日か三日。だから京のこの発言は少々不自然だ。
因みに、京の誕生日は、草薙当主生誕の祝いということで、祭式でもある。もっとも、肝心の主役が実家に寄りつかないため、もう何年もそれが催されたことはなかったが。それでももし一席設けるとなれば、分家である八神家からは祝賀のための使者が訪れる。逆に、宗家から分家へは、分家当主の誕生日だからといって、そういうおとないはしない。
その、本来ならしないことをしてみるのも面白いかと、京のふとした思い付きが、彼に実家への帰省を思い立たせたのだった。
要するに、東京よりも大阪にある草薙本家の方が出雲の八神家には近い。そういうわけだ。
ただし、正面切って会いに行く気はなかった。宗主として崇められあれこれもてなされるのは面倒で堪らない。
そうして数日後、空港へ向かう庵を先に部屋から送り出し、京も大阪を目指して家を出た。
「ただいま」
「あら珍しい」
帰宅した息子に向けるにしては、あまり相応しくない静の第一声。もっとも、帰省することを事前に伝えていなかった京にも非はある。
「何かあったの?」
「何もなきゃ自分ちに帰って来ちゃダメなのかよ」
そんなことはないわ、と静はコロコロ笑い、続けてろくでもないことを教えてくれた。
「珍しいといえば、いまお父さんも帰って来てるのよ」
「げぇっ!」
――マジかよ!
思わず驚愕が声に出ていた。
それこそ、京などより、もっとずっと家に居つかない父親の柴舟が滞在中だというのである。これが驚かずにいられようか。
どんなタイミングで戻って来ちまったんだ、と自分の間の悪さに、京は苦虫をまとめて噛み潰した。
厄介なのが居ると知ってしまえば、家に上がる手前、三和土で回れ右したい衝動に駆られるが、逃げるわけにはいかない。あの男にだけは弱みを握られたくないのだ。
「で、その親父殿は?」
「道場にいるんじゃないかしら?」
今日の食事は三人分にしなくちゃね、などと暢気なことを口にしながら、静は奥へと引っ込んだ。
相変わらずおっとりした人だな、と気抜けするものを感じつつ、京はそんな母親の背を見送る。
「しゃーねーな⋯⋯」
――先に会っておくか。
食事時まで顔を合わせないでいるのも具合が悪い。
京は自室に荷物を放り出すと、面倒ごとを先に済ませるべく、その足で道場に向かうことにした。
柴舟は道場の中ではなく、建物の裏手にいた。
「おう、不肖の倅よ、よく帰って来たな」
あんたにだけは言われたくない台詞だな、おい。とは、心の裡だけでのツッコミ。
「親父こそ『よく帰って来たな』じゃねえかよ。いつ戻ったんだ」
「三日前にふらっとな」
――なぁにがふらっとな、だ。自分で言うな、自分で!
「そういうぬしは何をしに戻ったんじゃ」
「ヤボ用」
「ふむ」
久しぶりに直に対面する息子の顔から目を逸らさず、柴舟は伸びた顎鬚に手をやると、片目をすがめて首を傾げた。
「そういえば、明日は八神の小倅(ハナタレ)の誕生日じゃったか」
どうしてそういうことに聡いのだろうか、この男は。勘が良過ぎるにも程がある。
厭そうに眉をしかめた京に、柴舟はにやりと勝ち誇ったような笑みを向ける。チッと思わず舌打ちすれば、機嫌よく顎をしゃくられてしまった。
ますます腹立たしい。
「今夜のうちに行くんじゃろう? なら晩飯は要らんな。今晩はぬしの好物(やきざかな)の筈じゃが」
残念じゃったのう、と少しも惜しんでいない口調の父親に、しかし京は怪訝な顔を向けた。
何を言われているのかわからない。
「ん? なんじゃ、違うのか」
「何がだよ」
「そうか、それを知っておって行くわけではないのか」
なにをひとりで納得しているのか、柴舟はふむふむと更に数回頷き、
「念のために訊くが、血の盟約が『八神』とオロチとの間でどのように更新されて来たか、ぬしは知らぬのじゃな?」
「ああ、知らねえ」
「そうじゃったか」
「ンだよ、もったいぶってねえで言えよ」
「うむ⋯⋯」
小倅に会えばわかることだが、と断ってから、らしくもなく少しためらう素振りを見せ、しかし次に柴舟が口にしたのはなぜか庵のことではなかった。
「では、先代の八神を覚えておるか」
先代の八神。つまり、庵の父親である。
「いや、あんまり記憶にねえな」
会ったことはあるのだ。まだ京が小学校に上がる前、同じくまだ幼かった庵を伴って、彼は何度かこの屋敷に来たことがあった。おぼろな印象しか残ってはいないが、ただ、息子である庵のような圧倒的存在感とは無縁で、ひどく線のほそい、儚げな雰囲気の男性だったと記憶している。その淡い印象のままの早逝でもあった。
――そういえば。
京は思いを巡らせる。
あいつが父親について話すのを聞いたことはなかったな。
いくら若くして亡くなっているからといって、思い出のひとつやふたつ、持たない筈はないのだが。
「その、先代の八神に聞いた話じゃが⋯⋯」
そうして父親の口から語られはじめた生々しくおぞましい内容に、京は次第に焦燥感を募らせ、やがて話が終わったときには、
「親父、用意して貰っといて悪りぃんだけど、俺、今日はメシ要らねえってお袋に言っといてくれ!」
矢も盾もたまらず家を飛び出していた。
はやく、一刻も早く、あいつのもとへ!
――そうか。そういうことだったのか。
京は唇をかみしめる。
逃げたと思われるのが癪だからと口にした、庵のあの言葉は嘘だ。ただ京と一緒にいたくなかっただけなのだ。京に、『それ』を知られることをおそれて。
その頃、庵はひとり八神家離れの自室にいた。
春の彼岸を迎え、陽が長くなったことを実感できる時節になったが、離れの庭に立つ灯篭には火を入れておらず、太陽が山の向こうに沈んでしまえば部屋の外は完全な闇だ。今夜は群雲が出ているようで、月が隠れるたびに障子の向こうが暗くかげる。
しんと静まった部屋の隅、壁に凭れるように背をあずけ、庵は読むともなく古い文書(もんじょ)を開いていた。肩には、妹が寒さを気遣って貸し与えた女物のストールが掛かっている。
この家では、したいと思うことが何もなく、時間をつぶすことが難しい。
ただ、眠りたくないのだ、今夜は。
夢を見るのが怖かった。
あの日からずっと。
あれは父親が倒れ、長い病の床に就いた年の春。初めて、贄として我が身をオロチの化身に引き裂かれた。
その年を境に、それは毎生誕日、くり返されることになる。
おまえが誰の物なのか、その身に流れる血がいかなる物か、それを与え給うたのが誰なのか、決して忘れることのないように。
また、来(きた)る年にも参ろうぞ――。
毎年、桜が咲く季節になると、戦慄をもって喚起される闇の閨での記憶。
おまえを貪りにゆくぞ、と囁く声が耳をかすめ、それは、庵を本能的におびえさせ、精神を追いつめる。
またあの夜が来るのだと。
だから、桜の季節は嫌いだった。己の生まれた、その日の訪れを否応なく突きつける、華やかな季節が。
ふいに、みしりと床が軋む音がして、庵はビクリと肩を跳ね上げた。
――だれ、だ?
今夜、この離れには誰も近付かないよう、夕食時に家中には言い含めておいた。
しかし、家鳴りのような自然が引き起こすそれとは明らかに違う、生き物のたてた微かな物音に、庵は全神経を尖らせ息を詰めて部屋の入り口を凝視する。
来たのか? アレが。
いや、そんな筈は⋯⋯。
あれは夢だから。
現実に何者かがここへ訪れる筈はない――。
だがもし⋯⋯、もしか、した、ら⋯⋯。
極限まで高められた緊張のあまり、徐々に近付いて来るそれが馴染んだ氣をまとっていることにさえ気付けず、庵は両腕で自らを強く抱きしめる。
アレから逃れるすべなど知らない。
にげられたためしなどない。
ぐっと身を縮こまらせて俯いた庵の耳に、
「八神、居るか?」
その言葉と、同時に引き開けられた障子の音は、もはや聞こえてはいなかった。
「八神?」
部屋の隅でうずくまり頭を抱えている男。
「八神」
もう一度名を呼んで、京は彼に近付く。
「八神、俺だ」
驚かせないよう、怯えさせないよう、事情を察している京は殊更ゆっくりと庵の傍らに片膝をついた。
庵が自ら顔を上げるまでは、と触れることをこらえ、辛抱づよく待つ。
「⋯⋯?」
何者かが確かに部屋に侵入してきたと思ったのに、いつまで経っても我が身になにも起こらない。それに気付いた庵が、わずかに身動いた。自分を守るように縮こまっていた腕がようやく解かれて、おそるおそる面が上がる。
「⋯⋯きょ、う?」
目の前に、見慣れた男の顔がある。
「な⋯⋯」
なぜこの男が今ここに?
見開かれた庵の目をのぞき込むようにして、京が小首を傾げていた。
「間に合ったみてぇだな」
「?」
怪訝な表情をみせる庵に、
「今夜は徹夜するんだろ?」
付き合ってやろうと思ってさ、と屈託のない笑顔が返された。
「ひとりだとうっかり寝ちまうかも知んねえからな。話相手がいると有難いだろうと思ってよ」
「⋯⋯」
「ん? どした?」
まだわずかに瞠目したままで反応のゆるい庵の顔を、京はじっと窺い見る。
「なぜ、貴様が⋯⋯知っている?」
言葉をにごしたのは、言霊を恐れているからか、それとも京をためしているからか。
「おまえ、毎年この時季に様子がおかしくなるからな」
「おかしい、だと?」
「あ、やっぱ自覚なかったんだ? 毎年だぜ。この時季になると変に思い詰めたカンジでさ」
そのことにはずっと前から気付いていたのだ。
「もっとも、昨日までは、桜のせいだろうくらいにしか思ってなかったんだけどよ」
親父に聞いた、と一言もらせば、庵からはふかい溜息が返された。
張り詰めていた空気がたわんだことを敏感に感じ取り、京はここでようやく庵へと手を伸ばす。落ちかかっていた萌葱色のストールを掛け直してやり、彼のとなりに腰を下ろした。
庵の横顔は血の気をなくして青白く、ひどく寒そうに見える。
「ひとつ訊きたいんだけどよ。血の盟約なんてさ、もうとっくに破棄されちまってたんじゃなかったのか?」
KOF97。あのときオロチはこの手で屠ったのだから。
「貴様の言うとおり、もう終わったことだ」
「なら、なんで」
「俺が⋯⋯、俺が忘れられないでいる。それだけさ」
庵の自嘲にゆがんだ口角は、かつて見慣れていたそれ。そんな表情を目にすること自体が久しく無かったのだと、今更のように京は気付いた。自分たちはいつの間にか、ずいぶんと穏やかに日々を暮らしていたらしい。
それにしても。
京は長く重い息を吐いた。
あの日――庵や神楽ちづると共に京がオロチを斃した日――あれから、既にもう十年以上ものときが流れている。だというのに、いまだオロチの血の呪縛が、この男を解放していなかったとは。いくら蛇が粘着質だからといって、しつこいにも程があるだろう。
「執念深いこって」
「⋯⋯」
庵は曖昧に首を振る。
「なあ、八神。話してくれないか、おまえが体験してきたことを」
気が進まないだろうことくらい、京にも思い遣れないわけではなかった。だが、それよりも、言葉にしてひとに聞かせることで、庵の抱え込む、昏い過去の記憶が薄れる効果を期待した。
案の定、庵は口ごもり、答えあぐねている様子だ。床に投げ出された文書(もんじょ)に視線が落ち、手慰みにか、四つ目かがりの糸を節の長い指がいくどもなぞる。その仕草に惑いが透けて見えるようだ。
京は黙って男の横顔を見守った。
急かすことはしない。自分から話そうとしてくれなければ意味がないから。
やがて、かすかな吐息がこぼれ、
「⋯⋯なにから話せばいいんだろうな」
ひとり言のようなつぶやきが漏れた。
端緒が発(ひら)かれたのは八つの齢だ。
「俺が当主の座についたのは貴様と同じ十五のときだが、オロチの血の譲渡はそれよりも早くてな」
先代である父親が病に倒れ、床に就いたことをきっかけに、それは始まった。
「最初のときは何が起きたのか、俺にはわからなかった」
次代当主生誕の祝い事の前夜。就寝した庵の身にそれは起こった。
「ちょうど日付が変わって当日になる頃だ」
眠る庵の枕元に、ひとではない、生き物の気配。
(さきの器はもうじき駄目になる。)
「たぶん俺は眠ったままだったのだろうと思う」
目が覚めたという意識はなかった。だから、おそらくそれは幻覚。
(はよう次の器に移らねば。)
幼い庵の意識に直接ひびいて来る何者かの声。
(われを拒むな。)
四肢を絡め取られるようにして自由を奪われた身体。
(あらがうことは許さぬ。)
「抵抗するなと言われたような気がするが、そもそも金縛り状態で、自分の意志では身じろぎひとつ出来なかった」
下肢の間から、ぬめる何かが身の内に――。
「⋯⋯」
ぶるりと小さく戦き、庵は指先が色をなくすほどの力で自分の肩を掴んだ。
触覚の記憶が、現実の庵の身を震わせる。
「八神、大丈夫か」
強く目をつむり、ぐっと奥歯を噛みしめて俯く男に、京がそっと声を掛けた。
冷たい汗を浮かべて蒼褪めた庵の頬が、硬く強張っている。
「八神」
耳に馴染んだその声が、今はあの日ではない、と、大丈夫だ、と、くり返し庵に言い募る。
やがて庵はふたたび目をあけると、震えそうになる声をこらえながら言葉をついだ。
「⋯⋯それが、最初の年の」
年端も行かぬ幼い我が身に降りかかった厄災。だが、それを残酷な所行と認識することすら出来ないくらいに、当時の庵は子供であり、無垢だった。それが生殖行為に等しいものだと知るのは、もっとずっと後年になってからだ。
翌朝、ひとり自室の寝具の中で目覚めたとき、庵に外見上の変化は何もなく、ただ、幻覚の内容だけは彼の記憶にふかく刻み込まれていた。
「その年から毎年、だ」
誕生日の前夜、それは必ず庵のもとに現れる。
くり返される悪夢。
別に怪我を負わされるわけではない。ただ身体を拓かれるだけで。
だが、それゆえに怖かった。
目に見える外傷になる方が良いこともある。そうであれば、癒えてゆく疵を確かめられた。
更に庵を追い詰めたのは、身の自由を奪われ触れられることに、いつしか苦痛や嫌悪だけではない感覚を捉えるようになったことだった。最初は苦しく辛いだけの行為であった筈なのに、長じてからも、気持ちの上では間違いなく厭わしいと思っているのに、そんな自分のこころを裏切って、身体は次第に悦を受け入れ始めて――。
庵はそんな己を卑下した。
俺は醜い。
汚い。
「なんども逃れようとはしたんだ」
現実世界で何かが起こるわけではない。だから、起きてさえいれば、あの幻覚に惑わされることもない筈だ。それならばと、庵は眠らずにいることを試みた。けれど、どんなに気を張っていても、なぜか必ず意識は途切れてしまうのだ。
「気付けばいつも俺は同じ夢の中にいる」
そうして悪魔がやって来る――。
諦観の念に負け、抵抗するこころを殺したのはいくつのときだったか。
「それからは、ただ怯えて待つだけさ」
春の訪れを。
その閨の恐怖を。
ひたひたと忍び寄る、闇の気配に身を竦めながら。
「はやく終わればいい。はやくこれが終わって夜が明ければいい。それだけを念(おも)って、時が過ぎるのを待つことしかできない」
耐える以外に出来ることなど、ひとつもなくて。
「いまはもう、起こり得ないことだと解っている筈なのにな⋯⋯」
オロチはあのとき確かに斃したのだから。
そのことを、頭では理解しているつもりなのに、信じ切ることが出来ないでいるのは深層にある心理だろうか。
物心のつかぬ年齢(とし)に初めて植え付けられ、年毎に刷り込みをくり返された恐怖と嫌悪。それらは容易には払拭できない庵のトラウマになっていた。
「いまでもその気配を思い出しただけで身がすくむのさ」
情けない話だろう? と自虐を滲ませた声で言い、それきり庵は口を閉ざした。
庵にとって、春は、襲い来る闇の気配を思い出させる忌まわしい季節。己の生まれた日も、その季節も、ただただ恐怖を呼び覚ます存在でしかない。
「⋯⋯」
庵の話を聞き終えた京もまた、苦い表情で口をつぐんでいた。柴舟から事の概要を聞いていたとはいえ、気分の悪い話であることに変わりはない。しかも当事者自らの言葉でもって語られるそれは、いっそうの生々しさを伴い、京の眉間にふかい皺を刻ませることになった。
「オロチを斃した後も、その『幻覚』はあったのか?」
ふと沸いてきた疑問を口にすれば、
「いや。あれからは一度も眠っていないからな」
眠らなければ大丈夫。その言葉を証明するかのように、庵はあれからの十余年、この日の夜を眠らずに過ごして来たのだという。
「眠っちまうのは今でも怖いか」
「⋯⋯そうだな」
認めたくはないことだったが。
しかし、この部屋の隅で頭を抱え、怯えおののく醜態を既に晒してしまっている以上、取り繕うのも今更だ。
苦悩を湛えた庵の横顔を、しばし無言で見詰めていた京だったが、
「予定変更!」
と、唐突に言い放ち、
「今日はもう寝ようぜ。徹夜に付き合うつったけど、アレ、やっぱナシな」
立ち上がった京は、勝手に襖を開けて布団を下ろすと、床の用意をし始めた。
急に何が始まったのか、理解できていない様子の庵を置き去りに、京はさっさと二組の寝具を敷き終えてしまう。
「おら、なにボーっとしてんだ。こっち来いよ」
寝間着用の浴衣を差し出し、手招きながらそう言われ、ようやく庵も腰を上げた。
布団に入って目を閉じたものの、息を詰め、にわかには緊張を解くことが出来ないでいる庵を、
「んな、ガチガチになってんなよ」
京がとなりの布団の中から苦笑混じりに茶化す。
そうは言われても、はいそうですかと容易には従うことが出来ず、庵は身を固くしたままだ。
「眠っちまってもぜってぇ平気だって。なんせ『草薙』の俺が居るんだぜ?」
だから大丈夫、夢なんて見ないさ。
いつの間にか庵の布団にもぐりこんで来ていた京の腕の中に抱きこまれ、耳朶に唇が触れるほどの至近距離でささやかれる。
「それとも悦すぎて気ぃ失うまでやってやろうか。ご希望なら死ぬほどいい思いさせてやるけど?」
明らかに故意だとわかる下世話な悪ふざけ。庵のトラウマの詳細を知った今、この日にそういう行為に及ぶことがどれだけの危険を伴うか、勘のいい京にわからない筈がない。
だから、品のない提案は、本気ではないと匂わせるニュアンスを確かに含んでいた。
庵もそのことは敏感に察していて、
「⋯⋯貴様はそれしか考えられんのか」
強張りの抜け切らぬ声で、それでも返した言葉はいつもの応酬をなぞろうとしていた。
京にも庵の願うところは伝わったのだろう、もう大丈夫だな、と言葉にする代わりに、ぽんぽんと優しく背を叩き、
「おやすみ」
それを最後にしゃべることをやめた。
やがて、冷たく凍えていた身体が、抱き寄せられた腕の熱で指先までやわらかくほどけ、いつしか庵の意識はゆったりと眠りの中へ溶け出していた。
庵の呼吸が寝息に変わったことを確かめて、京はわずかばかり身体を離すと、腕の中の男の顔を覗き込んだ。
おだやかな表情を見留めてひとまず安堵する。
知らずにいたこととは云え、こんなにも長い間、ひとりで苦悩していた庵に手を差し伸べられなかった自分が、どうしようもなく腹立たしかった。
だが、過ぎたことを悔いても始まらない。
せめてこれからは、毎年この日を共に過ごせたらいいと思う。たとえ庵が嫌がっても、側に居続けてやろうとこころに誓う。
この男に。
いつか、春を好きだと思える日が来るだろうか。
自分が生まれた季節を、心待ちに出来るような日が。
神の存在など信じない京のこと、祈りの先がどこに向かうのかは知れないが、それでも。
いつか、あの薄紅の花木の群を、心穏やかに眺められるようになればいい、と。
こころの芯からそう願い、庵を起こしてしまわぬよう細心の注意を払って彼の身体を抱きなおすと、京も眠りの国の門をくぐることにした。
翌朝、目を覚ました庵に、な、大丈夫だったろう? と己の功績を褒めろと言わんばかりの得意げな顔をする京に、
「夢なら見たぞ」
衝撃の告白。
「マジで!?」
おろおろと慌てはじめる姿を後目に、庵は意地悪く、
「子供(ガキ)の頃の夢をな」
にやりと笑って言い添えた。
「!」
なんだよ、焦らせんな! そう叫んで殴りかかって来る男の拳を難なく受け止め、そのままぐいと身体ごと引き寄せる。
「礼を言う」
京の身体を腕の中に抱き込んで、庵は耳元にそっとちいさく言葉を落とした。
いつか、ひとりであの夜を迎えても、過去の記憶に怯えないでいられる日がきっと来る。そのきっかけを与えてくれたことに感謝したい。
庵の腕に囲い込まれた京は、咄嗟に返す言葉もなく。
――参ったな。
まさか礼を言われるとは思わなかった。それでも、素直に嬉しいと思うから。らしくねえぞ、と揶揄う気にはなれなかった。
本当は礼など必要ないのだ。京がそうしたいと願い、勝手に行動を起こしただけなのだから。
そうしてしばらくは大人しく庵に囚われていた京だったが、
「あ、忘れるとこだった」
と、言うと同時に顔を上げ、庵の頬に吐息が触れる距離で、
「誕生日おめでとう」
この日いちばんに贈るつもりだった言葉を口にする。
「あ⋯⋯」
「忘れてんなよ、自分(てめえ)の誕生日だろ?」
驚いたように瞬きをする庵がなんだかおかしくて、京は口端をゆるめた。
来年も再来年もその先も。朝、目が覚めたら最初に、この言葉をこの男に贈ってやりたい。
今はまだ、この日の訪れを喜ぶことが出来ないでいたとしても。
いつの日にか、きっと――。
京は知らない。
前夜、庵が見た夢が、父親に連れられて草薙家を訪れた幼い日の、京との思い出だったということを。
2009.04.27 脱稿/2018.12.20 微修正
・初出:『春に君を待つ』2009.05.03 発行
SCC18内にて開催された庵受プチオンリーへ参加するにあたり、持ち込む京庵本がHLLシリーズの再録本だけでは寂しかったので、もう1冊新刊を⋯! と思い、書き下ろした庵の誕生日ネタ。(2018.12.19 記)
以下、発行時のあとがきを再掲
*ひと月余遅れになっていますが、庵の誕生日ネタで話を書き下ろしてみました。春という季節の持つ雰囲気を裏切る不穏な内容ではありますが、一応自分の中ではHLLシリーズ(変哲のない日常話)という位置づけです。
*庵が乙女で済みません。もっとこう、漢⋯! な庵を書こうとしていた筈なのですが、そんな痕跡は微塵も残ってないですね⋯。おまけに京は京で、良い人過ぎて胡散臭いし。どうすれば、強引でわがままで俺様な、かっこいい京が書けるんでしょう。京庵を書き始めて十年になろうというのに、未だ理想とする彼らの姿が書けていない気がします。
*ともあれ、少しでもお楽しみ頂けていれば幸いです。最後までお付き合い下さってありがとうございました。(2009.04.27)
SCC18内にて開催された庵受プチオンリーへ参加するにあたり、持ち込む京庵本がHLLシリーズの再録本だけでは寂しかったので、もう1冊新刊を⋯! と思い、書き下ろした庵の誕生日ネタ。(2018.12.19 記)
以下、発行時のあとがきを再掲
*ひと月余遅れになっていますが、庵の誕生日ネタで話を書き下ろしてみました。春という季節の持つ雰囲気を裏切る不穏な内容ではありますが、一応自分の中ではHLLシリーズ(変哲のない日常話)という位置づけです。
*庵が乙女で済みません。もっとこう、漢⋯! な庵を書こうとしていた筈なのですが、そんな痕跡は微塵も残ってないですね⋯。おまけに京は京で、良い人過ぎて胡散臭いし。どうすれば、強引でわがままで俺様な、かっこいい京が書けるんでしょう。京庵を書き始めて十年になろうというのに、未だ理想とする彼らの姿が書けていない気がします。
*ともあれ、少しでもお楽しみ頂けていれば幸いです。最後までお付き合い下さってありがとうございました。(2009.04.27)