『月の隈(くま)』


「起きろ八神! 豆撒きするぞ豆撒き!」
 庵の暮らすマンションに連絡も寄越さず突如現れた男は、リビングのソファでうたた寝していた部屋主を乱暴にゆさぶり起こしたかと思うといきなり宣言し、何物かを掴んだ片手を突き出してみせた。
 京の手の先にあるのは枡を模した紙製の器。表面にデフォルメした赤鬼の姿が描かれた、それの中身は豆である。
「まめ、まき⋯⋯?」
 寝起き故の地べたを這うような低い唸りを発しながら、起き上がった庵は眉宇にしわを寄せる。
「そ。今日は節分だからな」
 どうせお前はそんなこと気にしちゃいねぇんだろうけど。
 年中行事にはとんと無関心で、果ては己の誕生日にさえ頓着しない庵を知っているから、この家に豆の準備があるなどとは端(はな)から期待していない京である。
「わざわざ豆買って来てやったんだ。付き合えよ」
 だから、このマンションの一階に入っているコンビニで予め豆を調達し、その足で部屋に上がって来た。
「まめまき」
 もう一度、さっきよりは幾分明瞭になった呂律で同じ言葉を繰り返す庵は、ソファに座り直しはしたものの、両手に顔を突っ込んで俯いたままだ。どうやら低血圧と闘っている模様。
 そんな庵の頭をくしゃりと撫でて、京は彼のとなりに腰を下ろした。
「付き合うだろ?」
「⋯⋯悪いが、」
 まだ目は閉じたまま、それでもようよう顔が上がる。
「付き合えん」
「なんで!?」
 気色ばむ京に向けて、
「まあ待て。話を聞け」
 庵は手のひらをかざすことで彼の憤慨を制すと、ひとつ大きく息を吐いて目蓋を上げた。
「八尺瓊(うち)ではやってはならんのだ、鬼祓いは」
 そう丁寧に言い直されては矛を収めざるを得ず、気を鎮め、改めてどういうことかと説明を求める京に、
「いつだったか、ずっと以前、貴様にも話したろう。この世に存在してはならないものはない、と」
 庵はおだやかな口調で話しはじめる。
「ああ、あれか、三日月の隈(くま)の話」
「そうだ」
 それは、庵の背負う家紋の意味を教えられたときのことだ。
 月は月でもなぜ満月ではなく三日月なのか、その理由を。
 草薙が祓った大蛇(オロチ)を八咫に封印させるため、八尺瓊はその身に一旦大蛇を迎え入れる必要があった。大蛇を受け容れるために、八尺瓊は大蛇と同質の物、つまり闇を持たねばならなかった。
 それを象徴しているのが月の隈。
 月の欠けた部分は闇をあらわす。
 八尺瓊にとって、この世に在ることを許されない物はない。善も悪も、その区別すらが必要のない認識なのだ。
「鬼も、な、京。俺たちにとっては、どこかへ追い遣らねばならん存在ではないんだ」
 それに、と庵は続ける。
「追い出された鬼にだって落ち着き先は必要だろう?」
 追い出すだけ追い出して、その先は? 行き場を無くした鬼は、その後どうすればいいというのか。
「受け容れてやる場所も必要なんだよ」
「それがおまえらだっていうのか」
「実際逃げ込んで来た鬼に出くわしたことはないがな」
 それはそうだ、目に見える何かが鬼として家の外へ追い出されるわけではない。鬼になぞらえられているのは厄災だ。
「そんなモンまで⋯⋯」
 受け入れて飲み込んでしまうというのか、この男は。
「子供の頃は本気で楽しみにしていたんだぞ、これでも」
 鬼子と呼ばわれる存在だった庵にとって、鬼は同族、親しみを覚える対象だったのだ。その頃のことを思い出しているのか、目をすがめる庵の表情はいつになくやわらかい。
「うちに逃げ込んで来たなら共に遊べるかと思ってな」
 赤や青の肌をもち牙と角とを生やした強面の異形は絵空事。そんな姿の存在が庵のもとをおとなうことは無論なかったわけだが。
 京は思わず目を瞑り一声うーんと唸ってしまった。
 幼い庵がそんな可愛らしいことを本気で考えていたのだと知れば、眩暈もしようというものだ。
「なにもかも」
 庵は謡うような調子で続ける。
「何かにとって必要なものであるから、だからこそこの世に生まれて来、存在するようになる」
 だから。
 鬼を祓っては駄目なのだ。
「それが人にとっての悪だからと言って、滅してしまうことが正しいとは限らん」
「⋯⋯八尺瓊の懐の深さは底なしだな」
 感心とも呆れともつかぬ口調で評し、
「わかった。豆撒きはナシ、な」
 そう言って、この話題に一旦区切りをつけた。
「けどさ、せめて」
 京はとなりに座る男の頭を胸元へと抱き寄せる。
「せめて、豆食うのくらいは付き合えよ」
 よもやそれさえもダメだと言うだろうか。
 不安気に、おそるおそる見下ろして来る京の顔を見、おとなしく抱きかかえられていた庵が笑みを返す。
「ああ、それくらいは構わん。付き合ってやろう」
 息災を願うことまでを否定する必要はない。
「食うのは歳の数だけって言うけど」
 あれって数え歳だっけ、満だっけ?
 どうだったかな。
「ちょっとお袋に確かめてみるわ」
 そう言って携帯電話を取り出す京を見守る男の口元は、いまだ淡い笑みを刷いている。



2008.02.20 終/2018.12.08 微修正 



・節分によせて(大遅刻)
「鬼は内」の口上で豆を撒く地域は実際いくつかあるようですが、山陰(ウチの捏造設定であるところの八神本家の所在地)にもあるかどうかは、不勉強にて存じ上げませぬ。