八神の暮らすマンションの周囲には、あいつ自身の手による結界が張られている。一般の人間にはそうと知れないのだろうが、俺にはわかる。俺に限らず、そのテの感応――危機を察知する能力とでも言い換えればいいのか――に長けている人種には、それを越える瞬間、何かに触れた、という程度の感覚はあるかも知れない。
今日もそれを抜けて俺はあいつの部屋を訪れる。
この部屋の合鍵は自分で勝手に作った。それを知った八神は一頻り文句を喚いたが、鍵を付け替えたりはしなかった。だから、結局のところ許されたのだと俺は解釈している。ま、本人には異存がありそうだけどな。それは俺の知ったことじゃない。
鍵を使って錠を開け、遠慮なく部屋に上がり込む。人の気配を感じたから、在不在を確めるための声は掛けなかった。
玄関を抜けてすぐのリビングに人影はなく、家主は奥の洋間にいるらしい。ノックもせずにドアを開けてみれば、ソファの上で横になるあいつの姿が見えた。クッションに頭を預け、はみ出した脚を肘掛けに投げ出して、腹の上には開いた状態で伏せた音楽雑誌を乗せている。読みかけなのだろうその雑誌が、規則正しい呼吸に合わせ、ゆったりと上下していた。
よく眠っている。
俺はヤツの顔を視界に入れたまま、首に巻いたマフラーを外してテーブルに放り、脱いだスカジャンをその上に投げた。
ひどく寒がりな八神はこの時季進んで外出することがほとんどない。ときおり食料を調達しにマンション1階に入っているコンビニに下りるのと、バンド関係の用事で出掛けるのとを除けば、空調をガンガンに効かせた部屋で、こうして日がな一日寝ていることも稀ではなかった。ご丁寧に床暖房まで完備しているから、投げ出されたヤツの脚先は素足だ。
俺はその暖かな床に直接腰を下ろし、ヤツが寝ているソファを背もたれにして脚を伸ばした。
ここまで接近しても八神が起きる気配はない。俺がいることに気付いていないわけではなかった。結界に触れた時点で、どんなに深く眠っていようと、ヤツの意識は一度覚醒している筈なのだ。俺自身がそうだから、それについては疑う余地がない。
覚醒し、結界を抜けたのが草薙京だと認識し、その上で眠っている。それがどういうことを意味しているか、わかるか?
この男は俺を視界に入れれば殺意を見せる。口を開けば殺すと言う。それは今でも変わらない。
でも。
俺は10年という年月に思いを馳せる。
10年。それは俺がこの男と出会って――正確には再会、だが――からこれまでに流れた時間だ。
長かったのか短かったのか、俺にはわからない。
俺が知っているのは、それが来年には11年になって、再来年には12年に、そして俺たちふたりのどちらかがこの呼吸を停めるまで、続いて行くのだということだけ。
背後から聞こえる寝息が穏やかで、俺は心地よい眠りに誘われる。
次に目覚めたとき、一番に聞くのが俺への惨殺予告であることは知っている。
それなのに。
その情景を思い浮かべて尚、口元が緩んでしまうのは⋯⋯どうしてなんだろうな?
2006.01.03 終/2018.12.10 微修正