『約束のつづき』※未完


 果たされなかった約束は、永遠にそこに残るけど。
 果たされてしまった約束は、一体どうなるのだろう。
 どこへ行ってしまうのだろう。







 ユキは電車に乗っていた。試験期間中でもない平日の昼間に、学生鞄を抱え、高校の制服であるセーラー服を着て電車に揺られているという事実が、優等生を自認している彼女の気分を落ち着かせない。いま彼女は病と偽って学校を早退し、この電車に乗っているのだ。どうして電車は一定の速度でしか走らないのか、もっと急いでくれればいいのにと、自分でも無茶な望みだと判っていることを、もう何度も頭の中で繰り返し、早く目的の駅に着くよう念じていた。
 ユキの恋人である草薙京が日本に戻って来ている、と彼女に知らせてくれたのは、京の友人であり格闘技の団体戦大会では彼とチームを組むこともある二階堂紅丸だった。
 京は昨夏に開催されたKOF94という名の、公式には認知されていない異種格闘技大会に紅丸らと共に招待されて参加し、その大会が終わってからは、修行と称して海外にまで頻繁に出掛けるようになり、殆ど高校に登校しなくなっていた。
 紅丸の話によれば、その京は日本で行われる格闘技大会に出場するため、数日前に帰国したらしい。しかし、ユキの元には京から何の連絡もなかった。
『俺もあいつから直接聞いたわけじゃないよ』
 電話の向こうでユキを慰めるように紅丸は言い、更に、日頃から愛読している格闘技関連の雑誌で大会の開催を知って、その記事を読んでみて初めて、京がエントリーしていることが判ったのだと事情を付け加えた。
 電車がホームへと滑り込む。
 車内アナウンスが繰り返し告げる駅名にピクリと肩を揺らし、ユキは慌てて座席から立ち上がった。
 ホームに降りたユキは、複数あるうちの、紅丸に教えてもらった名前の改札口を抜け、前以て用意していた簡略化された地図の切り抜きを片手に、大会が行われている競技場を目指して歩きだす。
 慣れない界隈に来たせいか、ユキは少し迷った。漸く目指す試合会場を見つけて観客席に辿り着いたときには、既に大会は始まってしまっていた。
 時間を気にして走ったせいで額に浮かんでしまった汗をハンドタオルで押さえ、上がってしまった呼吸(いき)を整えながら、ユキは辺りを素早く見回して空いている席を探す。だが、関係者の間ではよほど知名度の高い大会なのか、それとも単に会場が狭すぎるのか、観客席はほとんど満席に近い状態であるらしく、なかなか空き座席が見つからない。
 早く腰を落ち着けなくては、ゆっくり京の姿を探すこともできないのに、と焦り始めていたとき、ユキの目はやっと空席を見つけた。客席の中では最も後方に位置する列に、ひとつだけ誰も座っていない席がある。
 その席のとなりには、サングラスを掛けた紅い髪の若い男が座っていた。
「あの⋯⋯ここ、空いてますか」
 急いで近付き、連れがいたら困ると思って、そう尋ねたユキに、
「見て判らんか」
 いきなり喧嘩を売るような物腰で男は応えた。声は聞き取りにくい程に低い。
 怒鳴られるよりよほど怖かった。
 普段の彼女なら、そんな暴言に怯んだりはしない。自分の行いに非がないという自信さえあれば、相手に遠慮をするなど理に適わないと思うためである。だから通常なら、ここで文句のひとつも言い返すところだ。しかし、今日ばかりは勝手が違った。こんな慣れない場所にひとりでいることも、ついさっきまで迷子のような心細い思いをしていたことも、ユキの強気を挫くには充分過ぎた。
 既に試合が始まってしまっているせいか、はたまた最後列での出来事であったためか、客席にいるほかの者たちは、幸か不幸か誰もふたりの遣り取りに気を留めていない様子である。
 しかし、ユキはどうしていいか判らず、突っ立ったままで固まってしまった。
 サングラスを掛けているために、男の視線の行方は判らない。しかし、少なくとも彼は立ち尽くしてしまったユキの顔を見上げてはいなかった。顔を前方に向けたまま、男はそれきり言葉を発するふうもない。
 ややあって、座るなと言われた訳ではないのだから、と思い直したユキは、勇気を振り絞り、その男のとなりに腰を下ろすことにした。いつまでも立ったままでは、男にまた何か言われそうな気がしたのだ。
 座ってみれば、やはり男は微動だにせず、ユキを黙殺しているふうでもある。
 そこでやっと人心地がついて、ユキは試合の行われているステージへ目を遣ることができた。勿論すぐに彼女は京を探し始める。しかしなかなか望む姿は見つけられない。
 控室ででも待機しているのだろうか。
 もう一度、気分を落ち着かせてゆっくりとステージの回りを見てみる。すると、前方にトーナメント表が掲示されているのが判った。ユキはそれをじっと凝視する。ローマ字表記された名前の中に、
 ――あった⋯⋯。
 KYO KUSANAGIの文字から伸びた勝ち抜き記録を示す線は、既に2試合闘い終えて、彼が尚勝ち残っていることを教えてくれた。
 日本の大会で京が負けることなどないと解っているつもりで、やはりどこかで不安も感じていたのだろう。ホッと小さく息をついて、ユキは胸を撫で下ろした。そうして、一旦気持ちに余裕が生まれてみると、急にとなりに座る若い男のことが気になり始めた。元々格闘技そのものには興味がない彼女のこと、ほかの観客たちのようにはステージに集中してしまえなかったのである。だから、盗む視線で、こっそりと彼の様子を観察してみた。
 長い前髪に覆われがちな男の顔は面長で、細身のサングラスがよく似合っている。そのサングラスを乗せた鼻梁は高く、顔の中央を真っすぐ下へ伸びていた。その下にある唇は、上下共に薄い。やや角張って耳へと続く顎のラインは、張った鰓をバランス良く見せていた。耳朶には、複数個のピアスを嵌めている。
 サングラスに隠されているせいで目元の造りが判らないまでも、整った顔立ちだとユキは感じた。
 その顔を、男性にしては少々細目かと思われる長い首が支えていて、そこには幅太の黒いチョーカーが巻かれている。それが、男の首の細さをより一層強調しているようだ。その首筋から流れる肩は幅が広く、座っている今は目立たないが、立ち上がれば見事な逆三角形の体型であることが判るだろう。鍛えられた胸筋を覗かせる開襟は白のドレスシャツで、その裾から覗く二本の長い脚は、緋色のタイトなレザーパンツに包まれている。上着には丈の短い濃紺のジャケットを羽織っていた。
 ユキには、彼はこんな場所に座っているよりも、ライブハウスのステージでマイクスタンドの前に立っている方が、よほど相応しいように思えた。
 そのとき不意に、男の長い指が、鮮やかな紅色をした前髪を掻き上げ、そして、
「俺の顔に何かついているか」
 男の言葉にユキは狼狽した。
「あっ、あの、いえっ⋯⋯その⋯⋯」
 彼女はいつの間にか大胆にも真横からじっと男の顔を注視していたのだ。濃い色のサングラスの所為で、男の視線がいつ自分の方へ向けられたのか、全く気付かなかった。
 言い訳の言葉が見つからず、ごめんなさいっ、と一言叫ぶように謝ったユキに、彼女が一番最初に掛けられたのよりは幾分ゆったりとした口調で男が言った。
「おまえ、京を観に来たのだろう? 奴なら⋯⋯、」
と、片手を伸ばし、
「あそこにいるぞ」
 男がさした指の先には、その言葉どおり、ユキが久しぶりに目にする京の姿があった。しかし、京を見つけられたことを喜ぶよりも男の口が発した言葉に対する驚きの方が勝って、ユキはそれを問い質さずにはいられない。
「どうして知ってるんですか、わたしが京を⋯⋯」
 探していたことを、と皆まで口にするのを遮って、男は事も無げに言った。
「おまえは奴の女だろう」
 ユキはあまりの不躾に絶句する。男はそんな彼女を尻目に、
「おまえは、おまえ自身が思っているより、ずっと有名人だぞ。殊、この世界ではな」
と、続けた。
「この世界?」
 格闘技界のことだ、と男は答える。
「あの馬鹿が世界中に触れ回ったろう? だから日本語の通じないような国でも、おまえの名は知れ渡っている。奴の大切な彼女の名として、な」
 そこまで言われて、漸くユキはあることを思い出した。そうだった。例のKOFという大会を通じて公開された、参加選手のプロフィール。その『大切なもの』という項目に、京は『彼女(ユキ)』と記していたのだ。
 ユキが現役の高校生であることや一般人であることなどを理由に、良識を越えるような過剰な取材や報道はなく、周囲が騒がしくなることも殆どなかったために、ユキ本人の自覚は希薄だったのだが、この男の言うとおりに世間に名が知れていてもなんら不思議はない。
 ユキが己の裡に思考を向けている間に、進行中だった試合がひとつ終了した。それに続いて、会場の熱気を否が応にも煽りたてる大袈裟なアナウンスでコールされたのは、京の名前。京の姿がステージ上に現れると、観客席から一斉に一際おおきな歓声が上がる。その瞬間、客席全体が波打ったように、ユキの目には見えた。
 そして――。
 試合の開始を告げるゴングが鳴ったのと勝敗が決したのと、果たしてその間にどれだけの時間を要したのか。秒殺で相手を易々とマットに沈め、京は呼吸ひとつ乱すことなくステージの端に下がった。あまりにも呆気ない幕切れに、観客のあいだから聞かれる声は、勝者に対する称賛よりも敗者に対するブーイングの方が圧倒的に多い。
「物足りなさそう⋯⋯」
 ユキは自分の心情を、思わず声にしていた。
「京ってあんなに強かったんだ⋯⋯」
 言った途端、となりの男が弾かれたように嗤い出した。
 自分が馬鹿にされているように感じたユキはムッとした表情を隠しもせず、嗤い続ける男を横目で睨んだ。男はその視線に気付いて尚しばらく嗤いを収めなかったが、
「奴が強いんじゃない。相手が弱過ぎただけだ」
と、嗤いの理由を言外に教え、
「⋯⋯あれでは何の手応えもなかろうよ」
 ユキの想像には同意を示す。
「この大会のレベルが低いってことですか」
 格闘技について詳しいらしい男に、ユキは思い切って尋ねてみる。
「世辞でも高いとは言い難いな」
「それは⋯⋯京にも判ってたことなんですよ、ね?」
 恐る恐るといった恰好(てい)で訊いたユキに、ああ、という一言と肯定の頷きを返し、
「退屈なんだろう」
と、男は付け加えた。
「退屈してる⋯⋯? 京が、ですか?」
「ああ。こんなくだらん大会に参加するほどにな」
 満たされないと解っていても、それでも闘っていなければ駄目な奴なのだと、男は京について断言した。彼は京のことを能く知っているように思える。
「回遊魚のようなものさ」
「回遊魚⋯⋯」
 急に出て来た突拍子もないように聞こえる単語に、正直ユキは戸惑いを覚える。京が魚だなどと、彼を喩えてそんなことを言った人間は、彼女の知る限り過去にひとりもいなかった。
 泳ぎ続けなければ、呼吸ができなくなって窒息死してしまう回遊魚(さかな)のようなもの。立ち止まっては生きていられない、京はそういう性分をしている。
 なにかを求めて走り続けなければ、生きられない⋯⋯。
「よく解ってるんですね、京のこと」
「どうだかな」
 ユキの言葉に男は口元を歪め、
「俺の勝手な思い込みかも知れんぞ?」
 自戒ともとれる台詞を置き去りに席を立つ。
 ステージの上では既に次の試合が始まっている。今度は双方の実力が拮抗しているのか、決着がつくまでには長い時間を要しそうだった。



1999〜2000頃(未完) 



 この作品が、以前日記に書いた『庵とユキの初顔合わせシーンを含む話』。99年〜00年あたりに書いていたもの⋯⋯だと思われます。人目に晒すに耐えうる程度に整理されていた冒頭シーンだけUPしてみました。
 ユキの目を通して庵を描写するのが楽しかったんです、そんだけです。⋯⋯生殺しで済みません。
 続きを放棄したのは、日記にも書きましたが、『庵とユキとの初遭遇はKOF99開催直前』というのが公式設定(参照:KOF99オフィシャルストーリー)だと知ってしまったことに因ります。
 今となっては、ネタを忘れないうちにさっさと書いときゃ良かった⋯⋯! なのですが、当時の己はかなり意固地で、どうしても公式設定から外れたものは書きたくなかったらしい。
 頑強な『拘り』も善し悪しですね。(2005.07.11 記)

 公式設定云々⋯などとしたり顔で申しておりますが、『救済の技法』でさんざん捏造カマしておいて、いまさら何をほざいているのか。寝言は寝て言え、とは正にこのことでございますですよ⋯。(2018.11.08 記)