黒光りするベンツの運転席で、京は携帯電話が鳴るのを待っていた。主がこの駐車場に隣接する議院会館に入ってからかれこれ一時間半。この後の予定を考えるとそろそろ出て来て良い頃なのだが。
手の中で煙草のソフトケースを転がし、もう一本吸おうかやめようかと思案する。車内は禁煙ではない。運転中でさえなければどれだけ吸っても咎められることはなかった。
政治家である主をこうしてひとり待つ間、お抱え運転手である京に許されている自由は少なく、煙草を吸うかラジオを聞くかで時間を潰す。出来るのはせいぜいそれくらいだった。読書の趣味はない。
彼がこの仕事に就いてから、そろそろ半年になろうとしている。それまでは夜の店で客引きとも用心棒ともつかぬバイトをして喰い繋いでいた。そんないい加減な男が、一転して今の職にありついたのにはそれ相応の訳がある。
半年前、現在の京の雇い主が暴漢に襲われそうになったところにたまたま居合わせ、暴行を加え損ねて逃げる犯人をSPや秘書たちと共に取り押さえたのが京だったのだ。その腕を見込んだ主がその場でじきじきに声を掛けて来、それまでの暮らしに何の未練もなかった京は、これまたその場で申し出を承諾し現在に至る。
正直最初は戸惑った。運転手といっても、ただ主を時間通りに決まった場所へ送り届ければいいというものではなく、意外に多くのことを覚えなければならなかったからだ。この仕事を始めてすぐの頃には真剣に辞めたいとさえ思った。それが結局いままで続いているのは――。
そのとき、携帯電話が鳴った。煙草を引き抜きかけていた手で、京は通話ボタンを押した。
『5分後に正面玄関へ回してくれ』
声の主は第二秘書を務めている八神庵だった。
京とはほぼ同年代らしい彼なのだが、事務所内での彼らの立場・地位には雲泥の差がある。秘書ともなれば一介の運転手風情など、本来は歯牙にかけても貰えない相手だ。しかし庵は、京がこの仕事に就いた当初からなにくれとなく面倒を見てくれていた。それは多分に主から京の世話役・教育係を仰せつかっているからだ。その証拠に、彼らはプライベートでは行動を共にしたことがなく、私的な会話を交わしたことさえ皆無だった。
『不審者はいるか』
「いや、いない」
『わかった。ブン屋の顔触れだけ押さえておけ』
「あ、ちょ、ちょっと待ってくれ」
電話が切られてしまいそうな気配に慌てて相手を呼び止める。なんだ、と素っ気無く返されたがそれはいつものことだ。気にせず京は同じ駐車場内に停まる一台の車のナンバーを読み上げ、
「これの後に出りゃいいんだよな?」
と、訊き、もう一つナンバーを言ってから、
「これよりは先でいいんだろ?」
そう念を押してみた。
この世界では、駐車場から車を出すことひとつを取っても守らなければならない順序というものがあり、それを間違えただけで運転手の首など簡単に飛ぶ。職を干されることにはさしたる関心が向かない程度には運転手という仕事に未練のない京だが、そこに秘書までもが連座させられる可能性を示唆されれば否応なく真剣になった。自分が失敗すれば京の世話係を言い付かっている庵に類が及ぶのだ。
それは困る。
だからこの仕事を始めてから京が一番最初に励んだのは、おもだった議員たちの車のナンバーを暗記し、その議員のランクを知るという作業だった。学生時代の試験前にだってこんなに本気で取り組んだことはないという程の熱の入り様には、後になって自分でも驚いた。それほどには、京は八神庵という秘書が気になっていたのである。その当時から。
その庵の返答を待つ京の耳には、そうだ、という男の低く柔らかな声が聞こえた。肯定の言葉は微かに笑いを含んでいる。
『もう俺からの指示は必要なさそうだな? 草薙』
その凪いだ声の調子から、彼の周囲にはいま誰もいないのだと京は推察した。
庵は人前では誰に対しても打ち解けた様子を見せない。たとえば二人きりになることがあったとして、その相手が主のときでもそうだし、無論京であっても同じだ。それが、こうして携帯電話を介して遣り取りするときにだけ彼の態度が変わる。
気付いた当初は何の気紛れなのだろうと思った。携帯電話で会話するとき常にそういう雰囲気になる訳ではないと、すぐに判ったからだ。しかし暫くして、庵の態度が変わるのは、彼が事務所の人間の誰とも一緒にいないときなのだと気付いた。そういう状況にあるときにだけ、彼は同い年の友人を揶揄うような声音で京と会話する。本来ならば敬語で接しなければならない相手に、電話で応対するときにだけ京がタメ口をきくようになったのも、何度か交わしたそういった会話がきっかけだ。第一秘書相手には当然いまでも敬語を遣っているし、京の周囲に関係者がいれば、たとえ電話越しでもそうはしないのだが。
いま彼はどんな顔をしているのだろう。庵の和んだ表情を京は知らない。いつか見たいと思いながら、気付けば半年が過ぎていた。その半年の間に京に訪れた変化といえば、それまでは袖を通したこともなかったブランド物のスーツに慣れ、様になるようになったということくらいか。
「そんな冷てぇこと言うなよー」
むくれた声にはクツクツと喉を鳴らす笑い声が返り、時間厳守だぞ、の一言を残して電話は切れた。
京は腕時計に目を遣った。正面玄関の車寄せまでの障害を頭に思い浮かべる。かかる時間を予測してから発車するのも、運転手に課せられた重要な仕事だ。主を待たせる訳にはいかないし、かと云って早く着き過ぎるのも厳禁。エンジンをふかし、駐車場から先に出て行く車の数を数えながら、京はタイミングを計った。
じっと待つというのは本来ひどく苦手な行為なのだが、待つことの後に与えられる褒美があったればこそ、京は今この身分に固執していた。庵の側にいるためにはこの仕事にしがみついていなければならないのだ。
時刻ぴったりに車寄せへベンツを着け、京は入口に向けて目を凝らす。赤い髪を探して彷徨った視線がすぐに目当てのものを見つけ出し、そこで動きを止めた。赤い髪の持ち主は庵である。彼は主を間に挟み第一秘書と共に建物から出て来るところだった。
京は男の姿を目で追った。
京とほぼ同じ背丈の庵は、しかし周囲にかなり長身であるという印象を与える。それは彼の体型に理由があった。京は全身に均等に筋肉がつく体質だが、庵は上半身に筋肉がつき易いのか完全な逆三角形体型で、そのせいで実際よりもスマートに見えるのだ。面長で鼻筋が通っていることと切れ長の目が持つシャープさも、彼をより長身に見せ目立たせるのに一役買っていた。
その身にオーダーメイドなのだろう仕立てのいいスーツを纏う庵は、その髪の色も相まって人目を引き易い。だが主はこういった外見に頓着する性質(タチ)ではなく、庵の秘書らしからぬ装いに口を挟むことはなかった。寧ろ目立ち注目を集めるのは主自身にとっても好ましいことなのだろう。事実、主の動向を追うのに庵の姿を目印にしているブン屋たちがいることを京は知っている。
それにしても庵ほど年若い者が、第二、とはいえ秘書を務めていることは非常に珍しい。それだけ秀でた能力があるのだろうと想像はつくが、どうもそれだけではなく何か複雑な事情も絡んでいるようだった。
なぜなら、彼には上を目指す気がないらしいからだ。
現に京は、実力は認めるがあんなに覇気がない男ではモノにならないと、嘲笑めいた感想を漏らした第一秘書の言葉を耳にしたことがある。彼に言わせると、庵からは覇権を握ろうという気概が感じられないのだそうだ。そればかりか、何かを諦めているようですらあると言う。
政治家としてはその時点で失格の烙印が押される。この世界での熾烈な生存競争には打ち勝てまい。そんな男がなぜ第二秘書などを務めているのか。
京は車から降りた。そして後部座席のドアの前へ回り主の到着を待つ。そのとき顔を上げた庵と一瞬目が合ったが、ふたりとも表情を変えることはなかった。
前(さき)の電話での和んだ会話を幻聴だったのかと思わせる程に、陽の下に現れた庵の表情は冷たい。が、その目が淀み表情に精気がない状態さえもが、今に始まったことではないのである。京がこの仕事に就き庵と接して最初に気になったのが、この暗く醒めた瞳の色なのだ。色素が薄いそれは、髪の紅を映すからか覗く角度によって不思議に綺麗な色合いを見せる。しかしその奥底はぼんやりと曇り濁っていた。籠に囚われ飛ぶことを諦めた猛禽のそれだと思ったのはいつだったか。
以来、京はこの男から目が離せないでいる。
一日のスケジュールを予定通りにこなした主を、京はその邸宅へと送り届けた。周囲に不審者がいないことを確かめてから電動のシャッターをリモコンで上げ、車をガレージに入れる。その後、主が自宅に入るところまでを見送れば、京の一日の仕事も終わりだ。
だがこの日は違っていた。
いつものように主を見送り玄関先で頭を下げようとしたとき、
「これからな、八神を迎えに行ってくれ」
そう言われたのだ。迎えに行き、その後どこへ送り届けるのかまでは言われなかった。車は、京個人のものを使えと言う。それはつまり、これが主の、表立った議員活動ではないということだ。
庵の自宅の場所は知っていた。過去に何度か彼を迎えに行ったことがあるからだ。しかしそれは大抵朝か日中であって、こんな夜遅い時間にそこを訪なったことはなかったし、彼ひとりをどこかへ送り届けるといったことも、今までにはなかった。主は、迎えを遣ることは庵に伝えてある、と言い、その後の事は庵本人の指示に従えと付け加えて京に背を向けた。
疑問はいくらでも沸いて来たが何ひとつ主に尋ねることはせず、京は言われた通りに自分の車をガレージから出し、自分が買い与えられているマンションとは逆の方向へとハンドルを切った。
庵もマンション住まいだ。彼を呼び出すのに必要な部屋番号を口の中で反芻しながら、京は車を走らせた。
目的のマンションを間近にして、車のヘッドライトが白い影を路上に浮かび上がらせた。それを視界に入れた瞬間、京は急ブレーキを踏みそうになっていた。すぐにそれが自分の幻覚だと気付いたが、京には一瞬、その白い影がこの世の存在ではないものに見えたのだ。
ヘッドライトの強い光に色素を飛ばされたのかと思われたそれは、白いスーツを着て夜道に佇む庵の肢体だった。
似合っていると思うのに。
京の目には、それが異様な姿と映っていた。精気が、ない。
この日、京が最後に庵を見たのは1時間程前、主と彼と第一秘書とを送った赤坂の料亭でだった。料亭を出て来た後、秘書ふたりは別行動になり、京は主だけを車に乗せて自宅に送り届けた。そのときには彼は白いスーツなど着ていなかった。帰宅して着替えたのだろうことは確かだが、それがなぜか妙に気に掛かる。
しかし京は驚きと訝しみの表情を顔皮の下に隠し、庵のすぐ側で車をとめた。車を降り、庵のために後部座席のドアを開ける。
京の鼻先を、ふわりと洗髪剤の匂いが掠めた。庵は京の顔を見ることもせず、無言で車に乗り込んで行く。
乗り込む寸前、一瞬だけ目の前に晒された男の横顔の、あまりの血の気のなさと強張りとを網膜に焼きつけてしまった京は、嫌な胸騒ぎに眉をしかめた。
運転席に収まった京に告げられた行き先はホテル。危うく後部座席を振り返りそうになり、寸でのところで踏み止まる。夜景が売りのそのホテルは、デートコースとして有名だった。
――こんな時間にそんな場所で誰と会うってんだ。
何のためにか、というのもひっかかる。ディナーの時間にはもう遅い。
問いたい気持ちに従うかどうするか、らしくもなく迷っていると、庵が携帯で誰かを呼び出そうとしているのが判った。聞き耳を立てる気はなかったが、静かな車内では些細な物音も筒抜けだ。さり気なさを装ってミラーに視線を遣れば、能面を被ったような男の顔が映っていた。
「八神です」
電話に向かって名乗る口調から、相手が庵よりも上の人間であることが知れる。
どれくらいで着けるかを伝える言葉の後、相手に何かを指示されたらしく、はい、という肯定の返事が続き、
「――号室ですね」
と、庵の声がルームナンバーを復唱し、電話を切った。
最上階だ、と京は思った。つまりスウィートである。
それきり車内は静かになった。再び京はミラーに目を向けてみたが、庵は目を閉じており、その顔からは何の表情も読み取ることが出来ない。ただ膝の上に置かれた手が、きつく拳を握っているのがやけに京の目を引いた。
ホテルの敷地内へは入らず、すぐ側で車を停めるよう庵に言われた。停車後、京がドアを開けに行くより早く、庵は車外へ降り立っていた。運転席から出た京と彼とは路上で向かい合う形になる。
「御苦労だったな。もう帰っていいぞ」
そう言った庵は今度はちゃんと京の顔を見ていた。だが街灯が遠いせいで、その顔色は読めない。
「待ってなくていいのか」
京は初めて直にタメ口をきいた。
庵は何か言いたいことがあって、けれどそれを飲み込んでいる。そんなふうに京には思えていた。だから、その頑な口を割らせたくて、部下としてではない対等な人間として庵に話しかけたのだ。
しかしその問いかけにはイエスともノーとも応えず、返って来たのは再びの、帰れ、という短い言葉。その語気の強さが京の不審を更に募らせる。
ホテルの敷地内へと歩き出した庵の猫背を大人しく見送ったものの、素直に命令に従う気にはなれず、京はしばしその場に留まった。庵がこれから会う相手くらいは知っておきたいと思ったのだ。
庵がホテルの中へ車を入れさせなかったのは、これからのことが密会だからにほかならない。そうであれば、相手の車もホテル内の駐車場にはないだろう。付近のパーキングで主人を待っている可能性が高い。パーキングの在り処は、これも仕事に欠かせない情報として頭に叩き込んである。京は思い付く場所へと車を走らせ、視界に入る車のナンバーを、高級車だけに絞ってひとつひとつ根気よく己の記憶にあるものと照合していった。
そして。
――あった。
ひとつだけ、見知ったナンバーのベンツが。運転席で主人を待っているのだろう男の顔にも見覚えがある。
京はごくりと息を飲んでいた。
その車は、現職蔵相のものだった。
趣味が悪い。
庵は心底そう思う。彼は足首まで埋まるのではないかという程に毛足の長い絨毯の上を、蹴散らしたい衝動にかられながら、一歩一歩踏み締めるようにして歩いていた。最上階のフロアにだけ施された豪奢な装飾が、彼の目には厭味に映る。
白いスーツを贈って寄越し、風呂に入ってから着替えて来いと事細かに注文をつけた相手の趣味だ。どうせこんなものだろうな、とも思う。そんな相手が自分に対して望んでいることにまで思いが及ぶと更に気が滅入った。真っ白なものを汚すことに嗜虐心を呷られ悦びを覚える、その気持ちが解らないとは言わない。だが、その対象に自分を据えてみれば吐き気も催すというものだ。
――それにしても。
気分を変えるようにひとつ息を吐き、庵は車内での自分の行動を振り返る。
なぜ自分はわざわざ部屋の番号を口に出して復唱したりしたのだろう。
最上階の部屋に来いと言われれば、ルームナンバーなど確認する必要はなかった筈なのだ。この階にはひとつしか部屋がないのだから。
――なのに、俺は⋯⋯。
主から話を聞かされたとき、肚は決めた筈だった。自分には要求に応じる以外の選択肢などない。
妹の身の安全と引き換えに現状を受け入れたのは、もう2年も前のことだ。そのときから、我が身に何が起きようとも狼狽はすまいと思っていた。動揺し抵抗することが、相手を愉しませ喜ばせる材料にしかならないのは知っている。そんな醜態を晒すことは、庵のプライドが許さなかった。
――ゆかり。
妹の名を胸の裡で呼ぶ。
お前が無事ならそれでいい。守るべき存在がこの世にある限り、自分は強くなれる。どんな仕打ちにでも耐えられる。
こんなことで、屈したりはしない。
こんなことで⋯⋯。
庵は爪が手のひらに食い込む程に強く拳を握り締めて、その部屋の前に立った。
助けて欲しい。
でもこのまま助けられるのは、困る――。
――あれはあの男の無意識のSOSだ。
京は、密会の相手を確かめた後、来た道をすぐにでもとって返したい気持ちを押さえ、わざわざ公衆電話を捜しひとりの女性に電話をかけた。事務所から支給されている携帯を使うのは憚られる相手なのだ。
「今すぐ確保できるか」
『ええ、大丈夫。10分で済むわ』
頼りになることだな、と皮肉るような言葉で感謝の意を伝え、
「悪いが後のフォローも任せるぜ」
と、言いおくと返事も待たず電話を切った。
その問題さえ処理してしまえば、もう京に遠慮はない。そしてその問題があるからこそ、庵が籠の中の鳥でいるのだとも知っていた。
正直なところ時期尚早だと思う。本当はもっとじっくり事を進め、穏便に処理するつもりでいたのだ。が、そうも言っていられなくなった。庵の身が危険に晒されている。最早一刻の猶予もならない。
京はホテルに急行した。今度は堂々と正面から乗り込んで、目指すは最上階。
最上階直通のエレベーターの上昇と共に、体内の血が頭に昇って行くのを京は自覚する。だがそれを止める気はなかった。もう冷静でいる必要もない。後は存分に暴れてやるだけだ。
箱を出ると、廊下に敷きつめられた毛足の長い絨毯を蹴りつけて京は走った。
――胸クソ悪りィ⋯⋯。
ごてごての装飾に唾を吐きかけたい気分で部屋の前に立ち来訪を告げる。誰何する相手に主の名を告げ、相手が電話で主に直接確認を取らぬよう庵の名を出した。彼に会って至急片付けなければならない用があるのだ、と。運転手が来ていると聞けば聡い庵は事態を察するだろう。ならばきっと話を合わせうまく立ち回ってくれる。
ここまでのシナリオは前(さき)の電話の相手が京に授けてくれたものだ。
『頭に血が昇れば、あなた臨機応変になんて対応できないでしょう』
嘲るのとは違う、あたたかな気遣いを音に乗せて笑った歳上の従姉妹に感謝する。今この場で対応策を練ろと言われても、せいぜい力任せに目の前のドアを破壊するのがオチで、その後の処理に困ること請け合いだ。
ドアが開いた。京の前に現れたのは、風呂上がりなのかバスローブに身を包んだ老人だった。その姿を目にした途端、下腹に堪え難い憤怒が沸いたが、相手に不審をいただかせぬよう、出来得る限りの温厚な笑顔を作って慇懃無礼に頭を下げる。そして次に顔を上げた瞬間、京の顔に張り付いていた笑みは完全に剥がれ落ちていた。
部屋に一歩踏み込むと、音もなく男の鳩尾に正面から拳を叩き込んだ。ぐえ、と蛙が潰されたような呻きを零して蹲る男の薄い頭髪を掴み上げ、延髄に手刀を見舞う。殺さぬ程度に加減はしたつもりだ。目論み通りに昏倒した男を京は容赦なく廊下に蹴り出した。
「八神!」
叫んで部屋の奥を目指す。京の訪問を知っている筈なのに、彼は姿を見せない。そのことに不安が募った。
――まさか遅かったのか?
「八神、どこだ!?」
心臓を握りつぶされるような恐怖の痛み。無駄に広く数の多い部屋に苛立ちながら、寝室を目指す。
「八神!」
ようやく見つけた庵は、広いベッドの上に、マットに沈み込むようにして仰向けに倒れていた。普段はきれいに櫛の入った赤い髪が乱れ、白いシーツに散っている。ベッドの側のテーブルの上に、ワインクーラーに入った開封されたボトルと、底にわずかに赤い液体を残して空になったグラスが置かれていた。
「おい、八神!」
近付くと、彼が浅い息をしているのに気付いた。乱された白いスーツの胸元に、赤い染みが広がっている。恐らく速効性の薬が入ったワインを一口飲み、そのままグラスを取り落としたのだろう。
京はテーブルから視線を移動し庵を見下ろした。
首から抜き取られぬままでネクタイがほどかれ、中途半端に脱がされたシャツの襟元から覗く鎖骨は早い呼吸に上下している。頬は上気し素肌にはうっすらと汗が滲んでいた。
――あンのエロじじい!
庵が何を飲まされたのかなど一目瞭然だ。
京は胸の裡で蔵相を罵り、庵の頬を軽く叩く。
「八神、おい、八神」
いくら呼ばわっても庵は目を開けない。意識のない彼を犯そうとしていたのか、あの男は。
――いい趣味してやがる。
京は眉間に皺を寄せ、庵の身体を抱き起こした。ぐったりとした熱い身体が京に凭れ掛かり紅い唇が無意識に湿った息を吐く。小さく漏れた濡れた声には気付かぬ振りで、京は庵を抱え上げた。
フロントに電話を入れ、従姉妹の名で別の階に部屋を手配させる。
こんな趣味の悪い部屋とはとっととオサラバだ。
部屋を出ると蔵相はまだ廊下で伸びていた。それを一瞥し、その身体を跨いで京は歩き出した。
唇が熱いものに覆われ、それとは裏腹に冷たいものが口の中に流れ込んで来た。その液体を無意識に受け止め飲み下す。胸郭が内側から冷やされて少し呼吸が楽になったように感じた。
――もっと⋯⋯。
もっとその冷たさが欲しいと思い、唇を動かす。望み通りに与えられるものを、ふたたび素直に嚥下した。
「やがみ」
名を呼ばれ、うっすらと目を開ける。
「気ィついた?」
真上から覗き込んで来たのは黒く大きな双眸。まだぼうっとした頭が鈍く働き、その瞳の持ち主を思い出す。
「くさ⋯なぎ⋯⋯?」
なぜ彼がいるのだろう。それよりもここは? 自分はいったいどこで何を――。
「!」
庵はがば、と跳ね起きた。
「ゆかり!」
無意識に叫んでいたのは妹の名。
「無事だぜ、お前の妹なら」
「⋯⋯なんで」
どうしてこの男が自分の妹のことを知っているのだ。それに自分は、あの男と会っていたのではなかったか。薬が入っているのを知っていて、男に薦められるままワインを飲んだ。急速に意識が遠くなり、その夢うつつの状態で衣服が脱がされていくのを感じていた。そこまでは覚えている。
では、その後は?
「どうして⋯⋯」
判らないことだらけで頭が混乱していた。何から訊けばいいのかさえ判らず、ただ、なぜ、という言葉だけが脳裏で渦を巻く。
「落ち着けよ、とにかく何も心配ねえから」
「だから、何が⋯⋯」
「ゆかりちゃんは安全な場所に保護されてる」
「安全な場所⋯⋯?」
どこだ、それは。力強い視線で無言の圧力をかけて言えと迫る庵に、京は悪戯心を起こしたような顔で笑ってみせる。
「神楽財閥の次期総裁って知ってるよな」
不意に脈絡のなさそうなことを問われ、訝しみつつも庵は頷いた。
「末娘の神楽ちづる、だな。確か」
「そう。アレな、俺の従姉妹なんだ」
「!?」
庵は目を見開いた。驚きのあまり声が出ない。
神楽財閥は政界に大きな影響力を持っている。国の財政を握っていると言っても過言ではないこの財閥に、殊、大蔵省は頭が上がらなかった。
「保護してくれてんのはソコ。⋯⋯な、安全だろ?」
庵は言葉もなく瞠目したままだ。
京を運転手として雇うと決まった後、彼の素性は調べ上げた。当然の措置だ。だがそのときの報告にそんな事実はなかった。
「俺、素行がめちゃくちゃ悪かったもんだからよ、まだガキだった時分に実家に勘当されててさ」
だからちょっと調べたくらいじゃそんなモン出て来ねえんだ、と悪びれるふうもなく男は微笑う。
「八神、お前の親父さんのことも知ってるぜ」
その言葉に、固まっていた庵の肩がぴくりと跳ねた。
「お前が政治家になる気もないのに秘書してる理由もな」
庵の父親は政治部門を専門に扱うフリーの記者だった。彼は、今の京と庵の主である男と現蔵相とが絡んだ汚職のネタを掴み、裏づけを取ろうとし、そして消された。それが2年前の話である。
父親の死後、母親を先に無くしていた一家には妹と庵とが残された。まだ学生だった妹は親戚に預けられたが、すでに成人していた庵は主の監視下に置かれることになった。庵の口を警戒したのである。庵は父親から、万一自分の身に何かあったときにはと、ある書類を託されており、そこに例の汚職の件で父親が掴んだ事実がしたためられていた。無論その書類は主の手で処分されたが、庵の記憶までは消してしまえない。事が公になるのを恐れた主は、妹を盾に庵に脅しをかけ、24時間庵の動向を見張った。庵が主から与えられたマンションには、公然とカメラと盗聴器とが設置されている。
「なぜ、だ」
かろうじてそれだけを口にして、庵は目の前の男を凝視する。仕事上でしか関わって来なかったこの男が、なぜそんなことを知っているのだ。普段の付き合いから簡単に知ることが可能な内容ではないのに。
「お前のこと知りたかったからに決まってる」
好きな相手のことは何だって知りてえじゃねえか。
さらりと告白したその内容は、唖然とするばかりの庵の耳を素通りしてしまったようだが、今の京にはそれでも良かった。もう想いが通じているのは知っている。だからこそ、庵も自分を頼ってくれたのだ。あのSOS発信が、たとえ無意識の行動だったのだとしても。
「だから、もう何も心配ない」
改めてそう言われ、庵は全身から力を抜いた。その身体を京が胸の中にゆったりと抱き止める。
「長かったな?」
2年、だ。2年間の鳥籠生活が、いま終わったのだ。
薬が抜けた身体を京に預け、庵は目を閉じていた。ついさっきまで庵の身体を好きなように翻弄していた男は、同じベッドの中でもう気持ち良さそうに寝息を立てている。触れ合う素肌の心地よさに、じきに自分も京と同じ場所へ落ちるだろうと思う。
数時間前、事の次第をやっと理解した庵は、抱き締める京の腕から逃れこの部屋を出ようとして引き止められた。
「薬も抜かずに外に出る気か?」
言われてそれを意識した途端、どくりとひとつ大きく鼓動が鳴り動悸が激しくなった。
「厄介なモン飲まされたよな」
「⋯⋯っ」
庵はごくりと唾を飲み込む。自分の吐く息が常にないほど熱く、体熱がいまだ上がったままであることは知っている。そしてその理由も。
「俺じゃ相手にしたくねえ?」
言葉面だけは殊勝に。
「⋯⋯思ってもないことを」
庵はふっと頬をゆるめ苦笑する。彼の腕から逃げようという気は失せていた。
「自信があるくせに。謙虚なふりをするのか」
「確認させてくれたって罰は当たんないと思うんだけど?」
「解っているのだろう」
「言葉で聞かせろよ」
まるで恋人同士が睦言を交わし合うように。そんな会話の合間に、既に京の手が庵の身体を確かめるように動きだしていた。拒む素振りもなくそれを受け入れる庵が、ゆっくりと息を乱し始める。
「助けて欲しかったんだろ?」
「そう⋯らしい。⋯⋯無意識⋯だった⋯んだが、な」
この部屋で目覚めたとき、既にネクタイは抜かれ、スーツも上着は着ていなかった。呼吸を楽にするためにか2番目まで開けられていた白いシャツのボタンが、京の指で更にはずされていく。
「あれが俺じゃなくても、同じことしたのか?」
「⋯⋯わからん、が⋯⋯」
自分はいつから惹かれていたのだろう、この男に。おそらく初めて彼を見た、あの日からだ。この男の持つ自由な空気が羨ましく、その存在をひどく眩しく感じた。その京と対等な立場で会話しているときだけ、自分が束縛を強いられている身であることを庵は忘れていられた。その短い時間に救われていたのだ、ずっと。
「貴様でなければ⋯⋯」
きっと気付いてはくれなかっただろう、発した自身にすら自覚のなかったあんな不確かな救難信号には。
露になった胸に口付けられ、庵は音のない息を零す。
――それに。
「こんなことも⋯⋯許してない⋯な」
庵は腕を伸ばして京の首に巻き付け、素脚を腰に絡み付かせる。その動きに応えるように、息が詰まりそうになるほど強く抱き締めてくる男を心底愛しいと思った。
夜明けが迫っていた。でもまだ少しは眠れそうだ。
ようやく寝息に変わった隣の呼吸に、京はそろりと目を開けた。京に抱き込まれたままの姿勢で庵は今2年ぶりの安息に身を委ねている。
次に目を開けてこの部屋を出るときには、ふたりとももう今までの身分ではなくなっている。明日の自分たちに残るのは互いの存在と自由だけ。
でもそれで充分だった。
自由さえあれば、可能性は無限。
職を失った今、これからの生活を考えると不安がないとは言わないが、それも目覚めてから考えればいいことだ。
今はこの腕の中の存在が夢でないことを確かめていたい。
深く寝入っている男の赤い髪をそっと梳き、起こさないように頭を持ち上げてその下に腕を差し入れる。そうしておいてから寝心地のいい姿勢を捜して少し身じろぎ、京もふたたび目を閉じた。
2002.05.xx 終/2018.11.05 微修正
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