『020325』


 深夜。
 京は手ぶらで庵のマンションを訪ねようとしていた。
 今日は3月25日。庵の27回目の誕生日だ。が、彼は今八神本家にいる筈だった。
 庵の元に八神家から白い封筒が送られて来たのは1週間程前で、そのときも庵のマンションに向かっていた京が、それを部屋主に代わって郵便受から部屋へと運んだ。中身は片道の航空券だった。
 手紙どころかメモ1枚入っていない素っ気なさだったが、搭乗日が24日になっていれば、庵にも開封の現場に居合わせた京にも、送り主の意図するところは飲み込めた。
 ――生誕の祝いをするので実家に帰れ。
 庵はいま八神家で冷遇されている。当主の身でありながら一族の総意を無視した彼自身の言動が、その理由だ。
 京は八神を捨てて奔れと要求したのだが、庵は頑として首を縦に振らなかった。八神にも認めさせたいのだと彼は言う。庵の執念深さは筋金入りだ。それは京が一番、しかも身を以て知っていた。だから京も同じことを2度は言わないでいる。そうすると決めたからにはそうするのだから、あの男は。それがどんなに困難であっても。
 そういう訳で、いま庵は八神本家に召還されている筈だ。たぶん今日中に戻って来ることはないだろう。






 通い慣れた部屋のドアはやはり施錠されていた。いつ庵がここへ戻って来るのかを京は知らない。帰りの航空券は用意されていなかった。だから彼に会えるのがいつになるのかは判らなかったが、ここで部屋主の帰りを待とうと思い、京はこんな時間に出向いて来たのだ。
 久しく使っていなかった合鍵で錠を開けた。
(⋯⋯え?)
 生き物の気配がする。そして鼻をついたのは不快になる程に濃いアルコール臭。
 まさか帰って来ているのだろうか。
「八神?」
 暗がりに向かって呼ばわる。庵は夜型だ。深夜であってもこの時間に眠っているということは滅多にない。だがリビングの明かりはついていなかった。寝室だろうか。
「いるのか?」
 手探りで電気のスイッチを探そうとした京の行動を、
「つけるな」
 ひどく掠れた男の声が緩慢な調子で制す。庵だった。気配で動きを察知したのか、それとも彼の方は闇に目が慣れているのか。
「目が潰れる」
 酒で声がしゃがれ、ただでさえ聞き取りにくい重低音に拍車がかかっている。しかも不機嫌そうだ。
「なんだよ、いるんだったら返事くらいしろ」
 探り当てていたスイッチから手を離し、京は目が暗闇に順応するのを待った。しばらくすると彼の視界に、リビングの床で仰向けに転がっている庵の姿態が浮かび上がって来る。
「⋯⋯なにやってんだ、おまえ」
 ぶっ倒れた男の周囲には、暗すぎてラベルが読めないのだが、ウィスキーだかブランディーだか、ともかくアルコールが入っていたらしいボトルが林立していた。グラスが見当たらないところをみると、そのままストレートで呑んでいたらしい。空の壜を4本まで数えてその続きは放棄し、京はひとつ溜息をついてから男に近付いた。
「いつ戻って来てたんだ?」
「知らん」
 時計など見なかった、と庵。
 京は庵の胴を跨いで仁王立ちになり、腰を折って男の顔を覗き込んだ。闇を吸って今は黒く見える紅い筈の瞳が、酔いに潤み鈍く光っていた。焦点がぶれているのもアルコールの仕業だ。
「酔ってんのか」
「ああ。身体がな」
 ゆったりと吐き出される言葉の不安定な響きは酩酊者のそれ。けれど庵の頭脳はこういうときに最も冴えるのだと京は知っている。
 確かに庵は酔っていた。もし立ち上がれたとしても足元は覚束ないのだろうし、意識してゆっくりと言葉を操らなければならない程には呂律もあやしい。なのに思考は冴えるのだ、酔いと反比例するように。それがこの男の酩酊の常だった。酔っても解放されるということがない。
 きっとまた面倒なこと考えているのだろう。
 京がそう思ったとき、ゆるりと庵の眼球が動いた。
 虚空に彷徨っていた視線が真下から京の双眸を射抜く。
「京」
 一言だけ発し、庵がその長い両の腕を差し伸べて来る。
 京は請われるまま床に膝を着き屈み込んだ。
 庵の腕はゆったりと京の首に絡み、当然のように巻き付いた。
「起こせ」
「ったく、わがままなヤローだぜ」
 ――それが人にモノを頼む態度かよ?
 文句を垂れながら、それでも京は己が上体を起こすことで庵の身体をも引き起こした。そのまま、芯の通っていない四肢はくたりと京に凭れ掛かって来る。
「おまえ熱いな〜。あー、酒のせいかぁ⋯⋯」
 平素と違う体感に京は少し戸惑い、そしてすぐに納得した。
 庵は目を閉じている。目蓋を上げると眩暈がするのだろう。いくらなんでも飲み過ぎだった。
「で? どーすんだ?」
 希望通り起こしてやったはいいが、自力では立ち上がれそうもない庵である。いったいこの後どうしたいのか。
「このまま」
「ん?」
「しばらく」
「はいはい」
 京は庵の腕を巻き付かせたまま、彼の腿を跨ぐ格好で膝立ちになっていた脚を片側に揃えた。これで、庵と対面のまま並んで座ることになる。我が身を楽な姿勢に落ち着かせ、京は改めて庵の細い腰を抱き直した。
「あ、そーいや俺まだ言ってなかった」
「ん?」
 目を閉じたままかすかに首を傾げる仕種をみせ、庵が咽奥で反応する。
「誕生日、おめでと」
 耳元に口を寄せて囁くように一言。
「⋯⋯⋯⋯」
 俯き気味に京の肩に額を預けていた庵は姿勢を変えず、その声に目を開けた。狭い視界に入るのは京が着ているシャツの胸元だけだ。いま彼はどんな顔をしているのだろう。
「なんだよ、何か言えよ」
 嬉しくねえのかよ? と困ったような声は、もう耳元を遠ざかり頭上から降ってくる。
「⋯⋯妙だな」
「なにが」
「貴様が言うと本当にめでたいことのように聞こえる」
 今日一日、庵は京がいま言ったのと同じ言葉を何度も耳にしていた。でもそれは、どれもが順を同じくする音の列であって、その響きは何の意味も孕んではいなかった。
「そりゃあおまえ当然だろ」
 京は抱えた男の躯ごと身を揺すって笑う。
「ホントにそう思ってるヤツが言ってんだからよ?」
 魂の宿らない音は、意味ある語彙であっても言の葉にはならない。庵の耳はそれを鋭敏に聞き分ける。
「京」
「ん?」
「もう一度聞かせてくれ」
「おう。何回でも言ってやるぜ?」

 ――ならば、この日が終わるまでずっと。

「おめでとう、八神」

 ――生まれて来てくれてありがとう。



2002.03.27 終/2018.12.13 微修正