貴様を殺す。
それが俺の存在理由。
そう言い切った男の鋭い視線は、京の背筋にかつて感じたことのない快感を残した。
初めて会いまみえた月の一族の頂点に立つ男は八神庵と名乗り、血の色の虹彩で京の眼を射、血の色を刷いた薄い唇をゆるりと開いて哄笑に空気を震わせた。
ぞくぞくした。歓喜に戦慄する己の肉体というものを、京はそのとき初めて体感していた。身の奥から沸き上がるそれは、これまで生きて来た20年という年月のすべてを物足りなく、そして味気なく感じさせてしまう程に強烈な感覚だった。
手にしたすべてを投げ打ってでも、欲しいものが目の前にある。
あれは、俺のものだ。
あれが、俺の望んでいたものだ。
俺のためだけに生み出された狂喜。
俺の生に意味を与えるために存在する、それは奇跡にも似た。
身体が内側から熱くなり、その熱は四肢のすべて先端にまでじんわりと広がり京を包み込む。
そうだ。俺はずっと餓えてたんだ。
この感覚に。
この熱病に冒されたくてここに来たのだ。
やっと、見つけた。
あれこそが俺を生かす、熱の源。
俺はあいつを手に入れる。俺のために。
「なかなかやるじゃねーの」
庵の腕の一薙ぎが生んだ鎌鼬(かまいたち)に鋭く切り裂かれた頬から、生暖かい物が流れ落ちる。それを無造作に手の甲で拭い、付着したその赤を無意識に舌で舐め取る。口中にじわりと広がる錆びた鉄の味は京に深い笑みをもたらした。不敵な視線は目の前の男を見据えて動かない。
「貴様こそ」
光の中を何不自由なくのうのうと生きて来た一族の長は、どんな腑抜けた輩かと思っていたのだが。
負けずに口端を吊り上げた庵の目線もまた、対峙する男を捕らえたまま微動だにしない。
ふたりは息を荒らげることもなく、もう数え切れないほど拳を交え技を繰り出し続けていた。試合での対戦まで待てないと感じていたのはどちらも同じだったらしい。躊躇いもなく大会で禁じられている私闘に及んだのは、互いに何かを求めていたからだろう。
と、そのとき。
「おまえら何やってんだ!」
切迫した声と共に複数の足音がふたりに迫る。
「京ッ! 八神!! おまえらいいかげんにしろッ」
叫んで京を羽交い締めにしたのは紅丸だった。同時にふたりの間に割って入った巨躯は大門のもの。振り上げられていた庵の腕はテリー・ボガードの手によって押さえられている。
彼らは、ふたりの私闘を偶然目撃してしまった女性格闘家チームのメンバーからの報を受け駆け付けたのだ。
「勝負は試合でつけろって言ったろ!?」
皆の前で正々堂々と争えばいい。
そこには、公衆の面前であればどちらかが殺されるなどという、通常の感覚をもつ紅丸たち他の選手にとっては受け入れられる筈もない事態だけは避けられるだろうという計算が働いている。
しかし、そんな紅丸たちの心配や思惑は彼らには通じない。ふたりは尚も互いに睨み合いを続けていた。が、水を差されたことでさすがに殺気は鎮まり始める。
「だってよぉ⋯⋯」
束縛していた紅丸の腕を解き、拗ねた子供の口調で京は言う。口吻を尖らせたその表情までが少年のようだ。が、その口をついて更に続いた声音は、もう子供の無邪気さを微塵も感じさせないものだった。
「とめらんねーんだよ、こんなたのしいこと」
「楽しいだと?」
京のその言葉に反応したのは庵だった。彼もまたテリーの腕を払い、自分と京との間に割って入った男の身体を押し退けて、
「俺に殺されることがそんなに嬉しいか」
底冷えのする笑みで男を見返す。
「おまえだって解ってんだろ?」
――おまえだって感じているのだろう? この歓喜を。だから⋯⋯。
京は庵と視線を合わせる。
「認めろよ」
愉しいのだと。
「面倒なこと考えんな」
一族のことなど振り捨てろ。おまえの思うまま、感じるままに生きてみろ。おまえの中に眠る想いを解放して。
「おまえは俺のことだけ見てりゃいいんだ」
そして俺のものになればいい。
「勝手なことを!」
庵の双眸が憤然と怒りに燃える。
「おまえの欲しいもの、俺がくれてやるぜ? 見せてやるよ、この世の本物の光ってヤツをさ」
「貴様になど理解ってたまるか」
八神の絶望の深さが。
この闇の暗さが。
それは貴様に照らせるようなものではない。
貴様の思い通りにならんことがこの世には存在するのだと、俺が身を以て教えてやる。
庵は低い声で鋭く吐き捨てると、欠けた月に彩られた背を向け歩き出した。
――はーっ。
庵を見送り、ようやく紅丸は溜息と共に全身の緊張を解く。そして悪意のない目で京を睨んだ。
「関係ないってんなら、おまえもいちいち相手にすんなよなー」
絡まれるたびその一言しか口にせず、そのくせ必ず相手をせずにはいない。顔を合わせれば一騒動起こさねば気が済まないらしい彼らに、周囲の者達の方が振り回されていた。最大の被害者であり功労者であるのが紅丸と大門である。
庵のチームメイトであるビリー・カーンと如月影二のふたりは、当初から我関せずの態度を貫いており、今も駆け付けるだけは駆け付けてふたりの悶着を遠巻きに眺めていただけだった。ふたりとも既にこの場からその姿を消している。
「あれはな、俺のモンなんだよ」
不意に京が言った。
「なんだって⋯⋯?」
訝しむ親友の声を男の耳はもう聞いていない。
京はこぶしをぐっと握り締める。その眼は悦びの笑みに眇められていた。
必ず。
あの眼を。
俺ひとりのものにする。
ほかの何物をも見えなくしてやる。その視界から奪ってやる。
教えてやる、俺の感じているこの悦びと歓喜とを、お前にも。忘れられないようにその身に植え付けてやろう、この燠火を。
そうして俺から離れられなくなればいい。その快楽から逃れられなくなればいい。
「待ってろ、八神」
お前に本当の俺の力を見せてやるよ。
八神の絶望など消し飛ぶ程の光を。
お前のその眼に。
俺が焼きつけてやるから。
――楽しみにしてろ、八神。
2002.03.03 終
・リク内容:馴れ合ってない二人 by わわ様