『幸せのカタチ』


 その日、天気予報は午後からの雨を予告していた。午後の降水確率90パーセント。十中八、九、雨は降るだろう。朝何気なくつけて流しっぱなしにしていたテレビから聞こえてきたその確率を耳にし、庵は思わず改めて画面を見遣り、そしてフッと頬を緩めた。
 ――そうか、今日は雨が降るのか。
 ならば出かけよう。
 用事など何もない。ただ、出先で雨が降り始めればそれでいい。
 庵は着替えを済ませると、財布ひとつをポケットに捩じ込んで、傘を持たずに部屋を出た。
 見上げた空は早春の曇天。
 今日の天気予報は、素人目にも当たりそうに思えた。





 京が庵の部屋を訪れたとき、玄関のドアは施錠されていて部屋主は留守だった。
 こんな雨の日に、あの男は一体どこへ行ったのだろう。
 どうしても反故にできないような大切な用事でもあったのだろうか。
 もしそうでなければ余程の酔狂者だな、などと、庵本人に聞かれれば闇払いのひとつも喰らわされそうなことを思いながら、京は持っていた合鍵を使ってドアを開けた。ただ手に提げているだけでも雫の滴る傘を軽く畳み、側にある傘立てに突っ込む。
 突っ込みながら、京は嫌なことに気付いてしまった。
 玄関脇の傘立てには京の記憶にある本数の傘が揃っていたのだ。1本しかない折り畳み傘までがご丁寧に靴箱の上に放置されている。とすると、いま庵は傘を持たずに外出していることになる。
 出先で傘を買って帰るか、それとも濡れて帰って来るか。
 ――賭けだな、こりゃ。
 京は暫く玄関先で首を捻って考え込んでいた。
 が。
 無駄になってもいいから風呂を沸かしておいてやろう。
 結局京はそう結論を下し、一旦リビングに入って手荷物を放り投げると、その足で風呂場へ向かった。
 春先の雨はまだ冷たく、濡れて帰ったとすれば、きっとあの男の身体は冷え切っているだろうから。





 部屋主が帰宅したのは、それから小1時間程経った頃だった。鍵を開けようとしたところでいきなり内側からドアが開き、驚いて仰け反った庵を、
「おまえな、悠長に歩いてんじゃねぇよ」
と、客のくせに何故か偉そうな態度でふんぞり返った京が出迎えた。
 庵の気配に気付いて京がベランダの窓からガラス越しに路上を見下ろせば、このマンションへと続く道を悠然と歩いて来る男の紅い髪が見えたのだ。庵はズブ濡れになりながら、そのくせ急いでいる様子も、まして焦っている素振りも微塵も感じさせない足取りで家路を辿ってくる。
 最寄り駅からこのマンションまでの距離は、徒歩にして約10分強。庵の足を以てして走って帰れば、5分と時間はかからないだろう。そして5分で帰って来ていれば、こんなに濡れることもない。
「何考えてんだか知んねーけどさ」
「⋯⋯⋯⋯」
 庵は無言のまま、獣がそうするようにぶるぶると頭を振って髪が吸い込んだ水気を飛ばした。
「おまえは猫か」
 呆れた声で京が言う。
「わっ、バカ、そのまま上がんな!」
 板の間の三和土(たたき)にそのまま上がろうとするのを慌てて制し、拭くもの持って来るから待ってろ!と、既に庵に半ば以上背を向けた姿勢でそう言うと、京は速攻で洗面所へ姿を消した。洗面台の下の収納スペースの戸を開ける音がして、すぐに彼は戻って来る。そして玄関の上がりまちに足拭き用のマットを置いて、ここに上がれと促した。
 水を含んでガバガバになっている靴から足を抜き、庵は京に言われるままマットの上に素足で立つ。絞れそうな程に濡れそぼった髪が、京の持っていたバスタオルにくるまれた。
「シャツもここで脱いじまえ。風呂、もう入れるから」
「⋯⋯やけに用意周到だな」
「そんな話は後だ、後!」
 雫が落ちない程度に髪を拭われ、着ていたシャツを脱がされて、そのまま背を押されるようにして庵は風呂場へ放り込まれてしまう。京の言葉どおりバスタブには既に半分程湯が張ってあり、伸ばした庵の手に触れたそれは適温だった。
「庵ぃ、絞れるぞ、これ」
 庵のシャツを手にしているのだろう京の呆れ声が、曇りガラス1枚を隔てた脱衣所から聞こえる。
「このシャツ洗濯機に入れちまって大丈夫か?」
 色落ちしねぇんだろなー?
 ぶつぶつ云って、それでも庵の返事を待つことなく、京の姿は脱衣所から消えた。





 ふーっ、とひとつ大きく息を吐いて、庵は湯の温かさを堪能する。彼が雨に濡れて帰るのが好きなのは、その後、こうして感じることのできる、この温かさのせいなのだ。冷えた躰が徐々に熱を取り戻していく感覚を味わっていると、自分というものの存在を、物理的に確認できるような気がする。
 ――それにしても。
「なんなんだ、あいつは」
 ぶくぶくと口元が湯に浸かるまでバスタブに身を沈め、庵は首を捻った。京がアポなしでこの部屋を訪れるのは別に珍しいことでもないのだが、こんなに世話を焼かれたのは初めてだ。
 調子が狂う。
 庵はそう思った。
 平素なら、雨に濡れて帰った日は濡れた足のまま部屋に上がり、バスの中でシャワーを当てながら湯が溜まるのを待つ。身体が暖まれば湯から上がり、身支度を整えた後で濡れた廊下を掃除する。部屋には自分しかいないのだからそうするしかなく、そしてまた、そうすることが庵にとっては当たり前だった。それを疑問に思ったこともなく、誰かにこうして風呂の用意をして待っていて欲しいなどとは、今まで一度も感じたことがない。
 ――でも。
 庵はゆっくりと湯舟の中で手足を伸ばした。そして伸ばした腕の先で、手を開いたり閉じたりしてみる。だんだんと血の巡りが良くなってきて、全身が弛緩していく。
 ――こういうのも悪くはない。
 今は素直にそう思う。
 庵はいつものように目を閉じた。生きて呼吸する細胞ひとつひとつの活動が、耳に聞こえるような気がするこの瞬間が好きだ。
 やがて躰の芯から温まったことを確認し、庵はゆっくりと湯から立ち上がった。





 暖房を入れた暖かなリビングに迎えられ、庵はバスローブ姿のまま、京の座るソファーの隣に腰を下ろした。
「京」
「ん?」
「礼を言う」
「なんだよ、急に改まっちまって気味が悪りィな。俺は別に⋯⋯」
 京は照れて首の後ろに手をやった。
 自分は当たり前のことをしただけだ。そんなふうに改まって礼を言われるようなことではない筈なのだが。
「有難かったから礼を言っている」
 ――ああ、そうか。
 京は唐突にそれを思い出した。
 庵には家族と暮らした経験がないのだ。
 庵は一族の当主として相応しい様々なことを身につけるため、生まれて間もなく実母から引き離され、乳母(めのと)や守役と呼ばれる教育係たちの手で厳しく育てられた。
 京などの感覚からすれば時代錯誤も甚だしい措置なのだが、それが幼少期の庵が置かれていた環境だったことには違いない。決して乳母や守役が庵に対して冷たかった訳ではないだろうと思う。だがきっと、彼に注がれた愛情の性質は、家族という名の肉親が与えてくれる無償のそれとは違っていたのだろう。
 だから庵は「家族」というものを通念でしか理解していない。体感経験がないせいで。
「いいもんだろ? 誰かと一緒に居るってのも」
 得意げに眉を上げた京の顔を見、
「ああ、そうだな」
 ――こういう時間も悪くない。
 庵は素直に微笑ってみせた。



2001.08.27 終 



・リク内容:水がらみの京庵 by 広瀬さま