庵がその場に居合わせてしまったのはまったくの偶然だった。
「サイッテー!」
若い女がその言葉と共に細い手首をひるがえし、グラスの中の琥珀色の液体を氷ごと、連れの男のブロンドに勢いよくぶちまける。そして足音も荒く、目の前でたった今起こったあまりのでき事に唖然と立ち尽くしていた庵の脇を擦り抜け、地上へと続く階段を駆け上がって行った。
「あーあ、カッコ悪いトコ見られちゃったなあ」
悪びれもせず、濡れた前髪を優雅な手つきで掻き上げたのは、
「二階堂⋯⋯」
あろうことか庵の見知った男だった。
12月も半ばに差しかかったその日、庵は夜ひとりで外出していた。閉店間際の洋品店に飛び込んで注文していた品物を受け取り、しばらく街をふらついてから、さて約束の時間までをどう過ごそうか、とぼんやり考えた彼は、そのときたまたま目に飛び込んで来たネオンに誘われるまま、地下にあるバーへと歩を進めた。
そして。そこでいきなり出くわしたのが、前(さき)の場面だったのである。
落ち着いた雰囲気の店だった。喧噪などどこからも聞こえては来ず、音量を絞ったBGMのジャスが、耳を澄ませなくても聴こえる程には静かな。
そんな店ではおそらく滅多に起こらないだろう修羅場に、店の人間もほかの客も咄嗟の対応ができないのか、皆息を潜めて、カウンターのスツールに腰を下ろしている紅丸の様子を遠巻きに伺っているふうだ。
「参ったな」
カシス色に見事に染まってしまった白いスーツの肩を見遣り、紅丸が気の抜けた貌で笑う。
「呑気に笑っている場合か」
呆れとも怒りともつかぬ感情を滲ませた声色で低く唸った庵は、
「おまえ、コートの丈は」
突如そんなことを尋ねた。
「ハーフ」
面食らいながらも勢いに飲まれて紅丸が答えれば、
「マズイな」
紅丸の足元に視線を落としていた庵が口の中で呟く。その視線を追って己のパンツに目を遣った紅丸は、庵が問い質した理由を悟った。ハーフコートでは隠れない位置に、派手に咲いた紅い薔薇。
やおら顔を上げた庵は、
「着替えて来い」
有無を言わせぬ口調で言い放ち、肩から提げていた紙袋を紅丸に向かって突き出した。
「その格好では下手すると乗車拒否だ」
帰りのタクシーの話である。
終電にはまだ充分余裕のある時刻なのだが、まさかこの格好で人目のある電車になど乗り込みたくないだろうし、かと云ってタクシーに乗れるよう服が乾くまで待っていては風邪をひき兼ねない。こんな事態を招いたのは紅丸の自業自得なのかも知れないが、見てしまった以上、庵には彼を捨て置くことができなかった。
「いいのか?」
濡れ鼠になっている紅丸が躊躇するのへ、
「選択の余地があるのか」
あるのならば言ってみろ。
庵は青筋立った表情を見せた。気の短い男だ。
「悪い。恩に着る」
片手で拝む仕草をし、はにかんだような笑みを見せて、紅丸は化粧室へと姿を消した。
ワイルドターキー・ツーフィンガー・ロック。
最近の庵のお気に入り。
『おまえって一旦ハマっちまうとホント馬鹿のひとつ覚えだよな』とは、ある男の弁である。ひとつのことに集中してしまうと、自分がまったく周りの見えなくなる性質(たち)だという自覚はあるので、そのとき庵は反論も否定もしなかった。元よりこんな性格でなければ、2年もの間、当初は生死さえも不明だったその男を探して、世界中を駆けずり回るような真似はしていない。
庵が1杯目のグラスを飲み干し、更に2杯目をオーダーしたところで紅丸がカウンターに戻って来た。彼はスタンドカラーのチャコールのシャツに、ブルーグレーを地色にしたダブルのスーツ姿になっている。
「着ちまっといてからこんなこと言ってもアレなんだけどさ」
「だったら黙っていろ」
「おい、八神」
そりゃあ無ぇだろ。言って紅丸は庵の隣のスツールに腰を下ろした。
「おまえ、なに考えてこんな大事なモン呉れて寄越したんだよ?」
庵の眉間に深く皺が寄った。
男性用トイレのさほど大きくもない鏡の前で、紅丸はしげしげと自分の姿を眺めていた。ナルシストと云われようがどうしようが、モデルなんてものを小遣い稼ぎにしている彼は鏡に己の姿を映すことが嫌いではない。しかし今夜の自分のそれはなかなかに悲惨だった。
クリーニングでも落ちないだろう染みに見切りをつけ、紅丸はまず上着を脱ぐとゴミ箱に放り込んだ。続けてシャツを脱ぎ、それで丁寧に髪を拭く。
スーツどころか、中のシャツにまで及んでいたカクテルの被害は、彼女が注文したばかりのそれの中身を余すことなくすべて注いでくれたお陰である。しかも氷つきだったから堪らない。
ロンググラスのカクテルなんか嫌いだ。
そんなもん頼む女も大嫌いだ。
心にもないことを八つ当たり気味にぼやき、紅丸は髪を拭い終えたシャツを丸め、これまた放り投げるようにしてゴミ箱に直行させた。そして庵から手渡された紙袋の口を開いて中身を確認し、その瞬間、固まった。
ちょっと待て!
紅丸は頭を抱えた。
これはどう見たって⋯⋯。
綺麗にラッピングされ、控えめながらもリボンを掛けられたそれは、何をどう曲解しようにもプレゼントだとしか結論の出ない代物だったのだ。
しかし、振り返れば既に己のシャツも上着も汚物に塗れた箱の中、だ。
「これ、プレゼントだったんだよな?」
「⋯⋯⋯⋯」
沈黙は肯定。ひどく面白くないという貌をして庵は黙り込んでいる。その奥歯でいま苦虫を何匹まとめて噛み潰していることか。
「それもオーダーメイド」
二の腕あたりの生地が変に余ってんだよね。
「煩い」
嫌ならこの場で脱げ。
公衆の面前でストリップは勘弁してよ。
「明日だよなあ、あいつの誕生日」
時計を確認するに、数時間後には日付が変わる刻限。今日は11日。そして日付が変われば12日。どこぞの誰かさんの26回目の誕生日だったりする。
「八神があいつに服をプレゼント、か」
「我慢ならん」
「は?」
「その格好をどうにかしないのなら5メートル離れて歩けと奴に言ったら逆ギレされた」
理不尽だと思わんか、と庵はしごく真面目だ。
ぶっ。
紅丸は一度大きく吹き出した後、声を噛み殺して肩を震わせはじめた。眦に涙が滲んでいる。友達甲斐のない男だ。
「ま、ともかくありがとな。この服、クリーニングに出して返すからさ」
どうにか笑いをおさめて今更のように礼を言う紅丸に、
「いらん」
捨ててくれ、と言葉が続いた。
「柄にもないことはするものじゃないな」
あの男の手には渡らない。それがこの服の運命というやつで、要は彼に呉れてやるなということだったのだろう。庵はそんなふうに考え始めている。
「奴には言うなよ」
このスーツのこと。
「俺もそこまで命知らずじゃないって」
我が身は可愛い。この齢で、嫉妬に狂った親友に焼き殺されるのは御免だ。
「それにしても醜態だったな」
2杯目のグラスを前に、庵は煙草を口に銜え灰皿を手元に引き寄せた。
「まあそう言ってくれるなよ」
好きであんな目に遭ったわけじゃないんだ。測ったような絶妙のタイミングで、横から紅丸がライターの火を差し出した。
「当たり前だ」
それじゃマゾだろうが。
言いながら器用に煙を吸い込んで。火を貰う方も差し出す方も、妙に手慣れている。
「済みません、オーダーいいですか?」
ライターをポケットに戻したその手を挙げて、紅丸はカウンター越しにバーテンを捕まえた。
「⋯⋯ウーロン茶ください」
振られた腹いせに自棄酒でも煽る気だろうと思っていた庵は、その注文に思わず片眉を吊り上げ男の横顔を見遣る。口元の煙草が何か言いたげに揺れた。
「なに?」
「いや、別に」
「酔い潰れる気だと思った?」
「⋯⋯⋯⋯」
図星を指されて黙る。沈黙を誤魔化すように、庵はふかく紫煙を吸い込んだ。
「ヤな男のフリすんのも大変よ?」
紅丸の軽い口調に、どういうことだと視線で問えば。
「彼女が振りやすいように頑張ったってコト」
あっけらかんと紅丸は答える。
今夜は振られるつもりで女と会っていたのだ。
「なんだと?」
「もともと本気じゃなかったんだ。俺も彼女も」
だけど、
「彼女の方が⋯⋯まあ⋯⋯要するに本命に出会えたってワケね」
だったら、せいぜい悪い男になって嫌な別れ方して上げるのが、遊び相手としての最後のお役目でしょ。
「そういうものか」
「そ。そういうもん」
綺麗な別れ方なんかしちゃ駄目なんだよ。戻って来ようなんて気を起こさせたら失敗なんだから。紅丸は首を竦めてみせた。
女と見れば口説くのが礼儀などと、イタリアンのロバートも真っ青な軽口を違和感なく叩く紅丸だが、しかし彼がその表向きの態度や口にする言葉ほどに尻の軽い男でないことを庵は薄々感じている。
この男の本気は、おそらく自分や世間の想像を遥かに凌駕して、底知れぬ深さをもっているのだろう。
「二階堂。おまえ本命がいるな」
それが癖なのか煙草を左手に持ち替え、肘をカウンターについた右腕で3杯目のグラスを傾けた庵は、紅丸に視線は向けず断定していた。
「おや、バレました?」
「遠い目して話すな」
そんな優しく深い眼差しを空(くう)に投げて、人を想う心など語られてしまえば誰だって気付くだろう。
応じた紅丸の軽い口調からすると、彼には最初から隠す気などなかったのかも知れないが。
「いーンだよ。本人目の前にしてたらこんな目にはなんないんだから」
「⋯⋯気付かせなくていいのか」
「んー、たぶん」
その方がいい。
――望み薄なんだよねぇ。
珍しい弱気。薄暗い天井を振り仰いで、紅丸が紫煙を吐き出すように言葉を漂わせた。
よしんば想い合うことができたとして。けれどその先を決して望めない。そういう相手なのだ。
「血統が違うっつーかね」
他所の国の血を混ぜる訳にはいかないって、そういう家系の女性(ヒト)でさ。
紅丸の想う相手がどういう立場の人間なのか、庵には嫌というほど理解できる。たぶん自分と同じような、濃い血を保ち続けている家系の人間なのだ。
「⋯⋯諦めるのか」
「冗談」
即答。紅丸は微笑っていた。それ以外にできる表情がないという貌だった。
想うことは自由だ。気持ちまでは誰にも制約できない。自身にでさえ溢れるそれは抑止など効かぬ。
「たぶん一生想ってる」
想うことが一瞬でも己を強くするのなら、喩えそれがいつか己の毒になりこの身を蝕もうとも、この生を終えるその瞬間まで想い続ける。それもまた一興。想いに殺される甘さを思って紅丸の笑みが深くなる。
恋は狂気。そして自身への凶器だ。
「⋯⋯⋯⋯」
紅丸の青い瞳に宿る強い光に、庵はそれ以上問うのをやめた。こんな眼を持つ男を、庵はもうひとり知っている。そしてこんな眼で『一生』を口にする彼らの本気を理解できる彼もまた、同じ眼で『一生』を胸に抱く同類だった。
4本目の煙草が灰皿の上で息をとめる。と同時に、庵がチラリと腕時計に目を遣ったことに気付き、
「待ち合わせ?」
紅丸が首を傾げた。
「ああ」
「あいつ?」
「⋯⋯ああ」
「じゃあ、出よっか」
頷いて庵が席を立つ。紅丸が財布を取り出した。
「ここは俺の奢り、な」
「当然だ」
男への誕生日プレゼントを犠牲にしてしまったからではなく。それに対して紅丸から突っ込みが入ったから。だからここは紅丸の奢り。
庵の感覚はどこか微妙にズレている。
「で、どうするんだ?」
会計を待つ間に、紅丸が背後に立つ庵を振り返った。
「なにを」
「コレの代わり」
紅丸は自分が着ているスーツを摘まんでみせる。
「今からじゃ大したモン調達できないだろ」
「⋯⋯そうでもない」
庵には何やら思うところがあるらしい。ただし、
「奴にくれてやるのは惜しいがな」
それをプレゼントすることにはあまり乗り気でない様子で。
奴を喜ばせるものなど絶対くれてやるまいと誓っていたのに。
恨みがましく口をついて出たその言葉を、けれど支払いに気を取られた紅丸は、幸いにも聞き逃した。
階段を昇りきり、カウベルを鳴らして地上に出る。
「じゃあ」
「ああ」
互いに背を向けて、男たちはそれぞれ反対の方向へと歩きだした。
「庵、遅せェ!」
ガードレールに腰掛けて長い脚を歩道へと投げ出していた男は、庵の姿を見つけるや否や開口一番そう叫んだ。
「まだ5分も遅刻していないぞ」
「ふざけんな。日付変わっちまったじゃねぇか」
暖をとるために銜えていた煙草を地面に叩きつけ、ブーツの踵で捻り潰す。
「京、貴様いまさら祝われて喜ぶような齢か?」
26歳になったばかりの京に向けられるのは、相も変わらぬ素っ気ない言葉。言いながら庵は男の正面に立つ。
鼻先に漂うアルコール臭に京が目を眇めた。
「飲んでたのか?」
「時間潰しにな」
またワイルドターキーだったんだろう。京は己の想像に小さく笑う。
「で、プレゼントは?」
26歳の男は腰を折って屈み込んだかと思うと、10代も前半の子供のような笑顔で庵を上目づかいに見上げた。二十歳(はたち)もとうに過ぎて、この顔は反則だ。こうして顔を覗き込まれるたび、庵は眩暈を覚えつつそう思う。いまもそう思いながら眼を瞑り、眉根を寄せて言った。
「24時間」
「は?」
俺の時間を、24時間。
実際にはもう数分短いが。
「貴様にくれてやるから好きに使え」
庵がこの日のために用意した物。あれはあくまで庵が呉れてやりたかったものであって、京が欲しがったものでは決してない。本当に京を喜ばせるものが何なのか、この確信犯はちゃんと知っていた。知っていて、差し出す気などさらさらなかったのだ。まったく性質(たち)の悪い確信犯である。
「うっわ、ヤラレたわ」
京が額を押さえ天を振り仰いだ。そう来るとは思わなかった。ぼやく声が明るい。
彼はしばらく天を仰いだまま固まっていたが、
「んじゃあ、とりあえず⋯⋯」
右の手袋、はずせ。言って顔を戻した。
理由は訊かない。これからこの日が終わるまで、庵は無条件に京の要求をすべて飲む。覚悟などとうの昔に決めている。覚悟を決めた男ほど強いものはない。
差し出された庵の素手を、京も素手で取った。
「なんか変なカンジだな」
ひどく幸せそうに男がくすくす笑う。
「おまえのが手ェあったけぇなんてよ」
体内に籠もったアルコールのせいだろう。庵の躰は普段よりその温度を上げていた。
「この後のことは歩きながら考えるわ」
だからとりあえず。バイクを停めてある駐輪場まで手を繋いで歩く。これが一つ目の要求。
今日は長い長い一日になりそうだ。
緩む頬を隠しもせず、京は同じ歩幅でとなり歩く男のそれを握る手に力を込めた。
2001.05.03 終/2023.09.16 微修正
・2001.05.04 発行コピー本『121212』よりweb再録
・再録本『Happy Love Love?』2009.05.03 発行に収録
・再録本『Happy Love Love?』2009.05.03 発行に収録