『You're my...』 R18


 京の誕生日が終わりクリスマスも過ぎて、2000年という年ももう残り僅か。それと同時に二十世紀という時代が終わろうとしている。
 そんな二十一世紀を目前にしたある日のこと、庵は自分の部屋で旅支度をしていた。
「いつから帰るんだっけ?」
「明日」
 京の問に庵から短く明瞭な答えが返る。彼の旅支度は、年末年始を実家の八神本家で過すための準備なのだ。
「京、おまえはどうするんだ?」
「ん。俺も帰る。明後日からな」
「そうか」
 盆暮れ正月を本家で過すのは当主として当然の務め。それ以外の日をまったく本家へ寄り付かずに過す京と庵にとっては、これらの時期にはほかの何をおいても本家へ戻らねばならない時なのだった。
 だがそうして当主としての務めをきちんと果たしさえすれば、誰に咎められることもなく京は庵と一緒にいられる。だから彼は我慢しているのだ。たった数日のために、その他の日の自由までを失いたくはないから。その数日を犠牲にするだけで、一族の誰にも気兼ねすることなく公然と庵と共に過ごす自由が得られるのなら、多少の束縛には耐えようという気にもなる。だからこそ、自分をひとり残して一足先に実家に帰ってしまうという、本来ならば許し難い筈の庵の行動を、京は何の不平も零さずに肯定していた。本当は一日でも多く、一秒でも長く庵と同じ時を共有したいと望んでいるの彼なのだが。
「ウチには挨拶に来んの?」
「ああ。行く。宗家への新年の挨拶は絶対に欠かせんからな」
 97年の夏、オロチを再び封印したことをきっかけに、草薙家と八神家とは全面的に和解した。飽くまでそれは『表向き』であるのだが。ただ、少なくとも京と庵の関係は、和解以上に進展している。
「じゃあ逢えるか、一日に」
「そうなるだろう」
 数日の辛抱だ。庵にはまたすぐに逢える。
 自分自身に言い聞かせるために、京はそのことを頭の中で何度も反芻していた。






 2001年元旦。
 宗家へ新年の挨拶に訪れる、草薙に列する者たちに応対するため、京は朝から慣れないスーツを着せられてずっと客間の上座に座らされていた。正直退屈で退屈で仕方なく、思わず訪問者の前で欠伸を漏らしそうになるくらいには緊張感も欠いているのだが、それでも大人しくそこに座り続けているのは庵が来ると判っているからだ。そうでなければ、子供の頃から落ち着くということを知らず父親の柴舟をして鉄砲玉のようだと言わしめていた京のこと、座を暖める前に痺れを切らして逃げ出していただろう。
 そんな京の元へ待ち人が現れたのは、昼食を挟んで午後の訪問が始まってからだった。その頃には比喩ではなく痺れを切らせかけていた京は、
「遅せェよ、庵〜!」
 庵に新年の挨拶を述べる間も与えず、それまで溜め込んでいた不満を彼に直接ぶつけてしまう。それを苦笑いで受ける庵は、新調したらしいスーツ姿で京の前に膝を折った。
「待たせて済まなかったな」
 庵とて八神家の当主なのである。家での新年の祝いの神事を済ませてからでなければここへは顔を出せない。だから本来彼が謝るのは筋違いなのだが、それでも庵は謝罪の言葉を口にすることで簡単に京の気を鎮めてしまった。
 庵の形ばかりの口上を聞き、それに対してやはり形ばかりの口上を返してから、
「脚崩せよ」
 京は畏まっている庵に胡座を許し、自分もまた脚を組み直して庵ににじり寄る。
「なあ庵、おまえ何か疲れてないか?」
 庵に近付いた京は、彼の顔を覗き込んで首を傾げた。気のせいか、庵の顔色があまり良くないように見える。
「⋯⋯いつものことだ」
 庵から返って来た低い声に、京はあからさまに眉を顰めた。
「またかよ⋯⋯」
「わかっていたことだろう? 別に大したことじゃない」
 俯いて、その疲労の表情を京から隠そうとする庵に、
「大したことだろうが! おまえがこんなに⋯⋯っ」
 京は声を荒らげ、そして目の前の男に触れようと手を伸ばす。けれどその腕は当の庵に拒まれた。
 庵は京に手のひらを向け、自身の腕を突き出すことで彼の追求を抑止する。
「大丈夫だ⋯⋯」
 庵はそう言って俯いたまま小さく首を振った。
「まだ限界ではないからな」
「庵⋯⋯」
 京は切ない眼をして庵を見つめる。庵の言葉に胸が詰まった。けれどそれ以上は何も言えない。今は、何も。庵が望まないうちは。
 庵が疲れの色を見せているのは、彼が八神の本家に戻ったからだった。庵の存在は、いま八神家でひどく危うく微妙な位置にある。当主であることには変わりがないが、それは名目上に過ぎず、彼に対する扱いはそれまでとは全く違ったものになっているのだ。それは、97年、一族の悲願を裏切る形で庵が京・ちづると共にオロチの再封印に手を貸したことに端を発し、その後も失踪した京の行方を追って三年もの長きに亘り一族を顧みなかったこと、そしてついには京と口外出来ない関係を持ったことへと終結している。その一連の庵の行動を一族は快く思ってはおらず、無論それらの行動すべてを認めてもいない。草薙家との和解さえ、積極的に肯定している者はいなかった。だから今あの家には庵の味方がひとりもおらず、帰省するたび、彼は一族からの有形無形の攻撃を一身に受けることになる。
 この数日の帰省中にも、庵は京の想像を超えるような嫌がらせを受けていたのだろう。庵は決してその詳細を口にはしないが、だからこそ京は彼が心配になる。
 我慢強いのにも、寛大なのにも限度があるだろうに。
 京は一呼吸おくと、
「庵、おまえこのまますぐ帰っちまうの?」
 わざと口調を変えて明るく庵に問い、重苦しくなりそうな場の空気を破った。
「そのつもりだが」
「すぐ帰らなきゃなんねー用事でもあるのか?」
「いや、そういう訳では⋯⋯」
「じゃあゆっくりしてけよ。俺まだこの部屋にいなきゃなんねぇけど、後ふたりだっけな⋯⋯そんだけの客に逢って、そいつらの挨拶が済んだら解放して貰えるからさ」
 ――だから俺の部屋で待ってな。
 その京の提案に、庵は逆らえなかった。
 京に引き止められることを望んでいた自分を、彼は自覚している。






 京に呼ばれて現れた静が、庵を京の部屋へと案内してくれる。屋敷内の長い廊下を、静に少し遅れてついて歩きながら、庵は口を開いた。
「ご迷惑を⋯⋯」
「あら、そんなことはないわ」
 しかし静は庵に皆まで言わせず、
「いくらでもゆっくりして行って良いのよ。京なんてもう一日で実家に飽きてしまって、昨日あたりから大変なんだから」
 無償であの子の相手をして貰えるのなら、それはこちらにとっては感謝したいくらいに有難いことだわ、と静はころころ笑う。
 これが母親の余裕というものなのか、それとも彼女が持って生まれた性格なのか。
 冗談とも本気ともとれる口調で言って笑う静の横顔を、庵は戸惑いの表情で眺める。
 彼女は、彼女の息子と今隣を歩く男との関係を知っているのだろうか。知っていて尚、自分に同じ言葉を掛けてくれるのだろうか。
 ――虫が良すぎるだろうな。
 いくらなんでもそれを望むのは。
 ――許されざる関係。
 そんな言葉が庵の脳裏を掠める。男同士であるだけでなく、草薙・八尺瓊・八咫の三家間での契りはタブーだという、その禁忌をも犯しているのだから、自分と京との関係は何者にも認められはしないだろう。赦されることもないだろう。まして祝福などされない。
「ここですよ」
 屋敷の離れにある一室の前まで来て静が足をとめた。彼女は先に中へ入ってエアコンをつけると、そのまますぐに出て来る。そして廊下で待っていた庵に、気兼ねするといけないから、と彼の性格をすっかり読んでいるらしく、呼ばれなければ来ませんからね、と有難い言葉を言いおいて静は自分の仕事へと戻って行った。
 それを見送り、庵は京の部屋の中へと足を踏み入れ障子を閉めた。
 本間の8畳間は思ったよりも広かった。中にあるのは箪笥と本棚がそれぞれひとつずつ。後はもう何年も前から使われていないのだろう勉強机。それでもそれらが少しも埃を被っていないのは、静が日々掃除に入っているからか、大掃除の後だからだろうか。押し入れの上の衣紋掛けにはこの冬京が新調したダウンジャケットが掛かっていて、そのすぐ下には東京から持ち帰ったのだろうボストンバックが無造作に放り投げられていた。
 何か大きな行事があるときにしか主人(あるじ)の出入りがない部屋だ。それでもこの空間は主人が京であることをそのすべてで主張しているようだった。
 そこかしこに彼の匂いが染み付いていて。
 部屋中が庵を安心させる空気に満ちていて。
 庵は脇に抱えていたコートを畳の上へ置き、側にあった座蒲団を引き寄せてそこに腰を落ち着けた。やんわりと心がほぐれて行くのが判る。それに伴ってじわじわと眠気が襲って来た。
 眠ってはいけない。
 そう思うのに、重くなっていく目蓋の動きを庵はとめることが出来なかった。






「悪りィ。遅くなっ⋯⋯」
 謝罪の言葉を口にしながら部屋の障子を引き開けて、京は声を途切らせる。空調の効いた室内の畳の上で、二つ折りにした座蒲団と自身の腕を枕にし、コートを肩まで被った庵が眠っていることに気付いたからだ。
「いおり⋯⋯」
 京は知らず微苦笑を洩らす。こんな恰好で寝ていては、いくら暖かい室内でも風邪を引いてしまうかも知れないし、何より筋肉が変に強張ってしまうだろう。
 庵を起こさぬよう押し入れにそっと近付き襖を開けて、中から敷き布団と掛け布団を下ろす。敷き布団を敷くと、その上へ庵の躰を移動させた。起きる気配のない庵の上着をゆっくり脱がせ、硬く締めたままのネクタイを緩めてやり、シャツのボタンをふたつはずす。続いてベルトのバックルをはじき、スラックスのボタンを開ける。そこまでしてやってから枕を宛てがい、掛け布団を掛けた。
「よっぽど疲れてたんだな」
 京の声に反応することもなく、庵は安心しきった寝顔を見せて深い呼吸を規則正しく繰り返している。京は微笑みに眼を眇め、頬を弛めた。ネクタイをほどいて庵の枕元に座ると、腕を伸ばし紅い髪を撫でてやる。染めているせいで少し傷んだそれは、けれど京の手のひらに柔らかな感触を残してくれた。
 ――なんで庵だけ⋯⋯。
 そう思う気持ちはいつも京の裡にある。
 自分は草薙の誰からも、庵と共にあることを咎められはしない。でも庵は、彼だけは責められるのだ。血縁達に疎まれ、詰られる。
 いっそ、自分が無理に彼を自分の側に置いているのだと嘘を吐けば良かったのだろうか。そうすれば、今庵に向けられている悪意すべては自分に向けられ、庵が責められることはなかったかも知れない。
 だが、当の庵が嘘を吐くことを潔しとはしなかっただろうことも容易に想像できた。
『貴様を選んだのは俺だ。これは俺の意志だ』
 そう言ったときの庵の表情(かお)を覚えている。あんなに綺麗で誇らしげな彼は初めて見た。
『貴様は俺が選んだ男だ。俺が認めた人間だ』
 その言葉を聞いたときには興奮で背筋が震えた。
 どちらか片方が一方的に相手を望んだのではない。庵は自分を、自分は庵を。それぞれ己の意志で選んだ。それを隠すことなど出来なかったし、したくもなかった。
 自分たちは互いに、この相手とでなければ絶対に得られないという未来を望んだ。それは何ら恥じることではない。
 京は庵の髪に触れていた手を離す。
「庵。甘えたいときはそうしろよ? 甘えさせてくれる相手が目の前にいるときくらい、それを自分に許したっていいだろ?」
 甘えたくても甘えられないときなんて、いくらでもあるのだ。だからそうでないときくらい、飽きるほど甘えればいい。その為の腕は今ここにある。
 自然に目覚めるまで寝かせておいてやろう。
 そう思い、京は庵の側に座ったまま、一度読み終えていたバイク雑誌を膝の上に広げた。






 エアコンが発てる微かなモーター音に混じって、時折スルリと紙が擦れる音がする。
 意識が覚醒していく過程で聞こえて来た周囲からの物音の正体を確かめるように、庵はゆっくりと目を開けた。
「よお、やっと起きたな」
 視界を得た途端、そこに飛び込んで来たのはジーンズを穿いた腿。視界の明るさに一瞬目を眇め、横臥していた体勢から俯せになり、暫く明るさに目を慣らしてから首だけを捻ると京の顔が見えた。
「メシの時間だからそろそろ起こそうと思ってたトコだ」
 ちょうど良かった、起きてくれて、と京に言われ、壁に掛かる時計を見上げれば午後7時を少し回っていて、
「⋯⋯熟睡していたらしいな」
 変な時間に寝てしまったせいか普段にも増して気怠い寝起きの躰を、庵は無理矢理布団の上に起こす。
「ウチでメシ喰うだろ?」
「え? あ⋯⋯いや、それは⋯⋯」
「おまえんちにはもう電話した。手伝って欲しいことがあるから今夜はウチに泊まらせるって」
 そうすることで、また後から庵が手ひどく詰られ責められるかも知れない。それには考えが及んだ。でもそんな先の事よりも、大事なのは、今、だ。今この瞬間に庵に必要なのは、それが例え束の間であっても、心の底から安らげる場所だと思ったから。
「もうこんな時間だし、出雲まで帰ってたらかなり遅くなるし」
 庵本人に許可も得ず勝手に八神に連絡を入れてしまった京だが、少しも悪びれた様子はない。そして庵も、何一つ異議は唱えなかった。京の気遣いが通じたのだろう。
「メシ運んで来るからおまえは顔洗って来いよ。こっちで一緒に喰おう」
 まだ起きたばかりで頭の回転が鈍い庵にそう言って洗面を促し、京は膝の上に広げていた雑誌を閉じて立ち上がる。母屋へと歩き出した彼の後から、庵も洗面所へ向かった。
 庵が洗面から戻ると、どこからか用意されたロウテーブルの上に、正月らしく静お手製の雑煮とお節料理が並ぼうとしているところだった。京を手伝って箸を並べ皿を上げて、ふたり向かい合わせに食卓につく。
 東京の庵のマンションで日常的に交わされる、他愛無い話題を口にしながらの食事。なんということもない時間が過ぎた。
 和やかな雰囲気の内に食事が終わる。
 客は大人しくしていろ、と言われ、庵は下げようとしていた食器を京に取り上げられた。庵の食器を下げに行った京は、今度は母屋から大きなお盆を持って戻って来て、残りの食器をすべてそれに乗せ、テーブルの上を拭き終えた庵から布巾を受け取って、再び台所へと下げに行く。
 することがなくなって手持ち無沙汰になった庵は、ふっと溜息を吐いた。その途端、
「⋯⋯っ」
 急に涙腺が弛んだ。
 視界を不鮮明にし頬を熱く濡らすその感覚に、正直庵自身が驚いてしまう。慌てて目蓋を押さえたが、涙はすぐにはとまってくれなかった。
 気が抜けたのだろう。
 早く泣き止まなくては京が戻って来てしまう。こんな所を見られたら、また彼を心配させてしまう。
 庵は焦ったが、一度溢れ出したそれは簡単にはとまりそうもなく。肩で何度も深い呼吸を繰り返しながら、庵は自嘲気味に嗤うしかなかった。
 どうかしている。実家である筈の八神家よりも、ここ、草薙家にいるときの方が気が休まるだなどと⋯⋯。
 ――いや、そうじゃない。
 草薙家だから、ではないのだろう。ここがどこであろうと、京が側にいるから自分は⋯⋯。
「庵⋯⋯どうした?」
 庵が危惧した通り彼の涙が乾かぬうちに、京が母屋の台所から戻って来てしまった。
 庵の様子に内心はひどく狼狽した京だが、その色を表に出すことは最小限に押さえ彼の正面に膝をつく。そして庵の頬へと伸ばされた京の手は、けれど再び庵の拒絶に遇ってしまった。
「⋯⋯何でもない。少し気が弛んで、それで⋯⋯」
 言いながら、京に触れられることを拒む庵の腕が、京の手を宙に彷徨わさせる。
「そんなにヒドイこと言われたのか?」
 手を伸ばすことは諦めて、その代り、口に出来ないような酷い仕打ちを受けたのか、と言葉で庵を宥めようとする京に、また庵は首を振った。
「違う。それで泣いたんじゃない⋯⋯」
 激情に流されているのではない証拠に、庵の声は嗚咽につまずくこともなく上擦りもせず、いつも通りの落ち着いた抑揚を保っている。
「本当に、ただ気が弛んで⋯⋯それだけだ」
 心配ない、と。そして、自分でも驚いているのだ、と言いながら、庵は涙を拭って俯けていた顔を上げた。気遣わしげな表情の京の眼とぶつかる。
「おまえがそう言うんなら⋯⋯」
 俺がとやかく言うことじゃねぇな、と口にした京が少し不服そうに見えるのだが、それは庵の気のせいではないだろう。
「ま、いいや。風呂沸いたから、先に使えよ」
 寝間着代わりの浴衣とバスタオルを差し出され、庵はそれを受け取って立ち上がった。






 マンションの風呂とは違う広く天井の高い浴室で浴槽に浸かる庵は、両脚が完全に伸ばせる自由を満喫する。八神家の風呂も充分な広さがあるのだが、あそこでは気を抜くことが出来ない。身も心もリラックスできるということが躰を労るのにどれだけ重要か、改めて思い知らされた気がする。
 庵はゆっくりと両腕を湯の中で伸ばした。
 京を選ぶということが何を意味するのか。そのことが自分の身にどんな影響を及ぼすか、八神家からどんな制裁を受けることになるか、それを考えられなかった訳ではない。何もかも予測できていて、それでも自分は京と共にあることを望んだ。
 それなのに、ときどきどうしようもなく他のすべてを恨みたくなる瞬間がある。なぜ自分だけが、と思ってしまう。どうにもならないことだと知っていて、それでも恨み言を口にしたくなる。それは甘えだ。
 苦しいのも辛いのも、自分だけである筈がないのに。
 多かれ少なかれ、ひとは皆何かしらの不都合を抱えて生きている。だから庵は、自分が甘えていると思うのだ。
 いつから自分は、こんなにも弱くなってしまったのだろう。
 昔はどんな困難があっても、そのすべてをひとりで切り抜けて来た。
 それなのに。
 このままではいつか、京がいなければ立ち上がることさえ出来なくなってしまうのかも知れない。いつかひとりでは歩けなくなってしまうかも知れない。それが怖い。それは嫌だ。自分は決して、京に守られるような存在でいたい訳ではないから。そんなことは望んでいないから。
 湯気の籠る浴室で、庵は考え続ける。
 だが、それならば何故、己は京と共にあることを望んだのだろう――。






 庵が部屋に戻ると既にふたり分の布団が敷かれていて、
「先に寝てていいぜ」
と、片方の布団を指し示されて、入れ違いで風呂に向かう京に言われた。けれど庵は布団には入らず、自分のコートを羽織って庭の見える廊下へ出た。
 仰ぎ見ると、冬の澄んだ空気に星が綺麗に瞬いていた。月は半月に向かう途中、まだ少し欠けた姿で夜空を照らしている。
 庵は板の間に腰を下ろし夜空を見上げ続ける。どのくらいそうしていたのか、
「風邪ひくぞ、そんなカッコで⋯⋯」
 風呂から上がった京の声が背後から掛かった。
 京の怒ったような声には反応せず、庵は振り向き彼を手招く。呼ばれるままに京が側へ近付けば、ここに座れ、と庵が自分が座る廊下のすぐ横を手でポンと軽く叩いた。庵の要求に従い、京は彼の隣に腰を下ろす。
 と。
 ことん、と庵が京の胸元に頭を預けて来た。
「⋯⋯!」
 京は声もなく驚く。
 珍しいことだった。庵から京に触れたがるなど、普段まったくと云っていいくらいに無いことだから。
「冷えた」
「当たり前だろ! ンなコートだけでこんなトコ!」
 廊下に直に座っていれば腰からだって冷える。
 庵の気の抜けた言葉に憤慨し、更に何かを言いかけた京の耳に、信じられない一言が囁かれた。
「抱けよ、京」
 庵の冷たい指が京の首を抱き寄せる。
「抱いて暖めろ」
 京の唇に、触れるだけのキスが降った。






 京は布団の上で庵を裸に剥いた。まだ湿った紅い髪を指で梳き、口吻けを求める。薄く開かれた歯列の間から熱く濡れた舌を差し入れれば、同じように熱く濡れた庵のそれに迎えられた。
 口吻けを深めていくと、その間に庵が京の浴衣の帯をほどき、はだけられた袷(あわせ)からスルリと冷たい手のひらが滑り込む。その肌のあまりの冷たさに、思わず身を竦めれば、躰の下で庵が小さく笑ったのが判った。
 癪に触って、不意打ちのように庵の下肢を手に収める。
「!」
 眼を見開く彼に、仕返し、とばかり笑い返し、京は庵自身に絡めた指を蠢かせ始めた。すると柔らかだったそれは次第に芯を持ちはじめ、それと呼応するように、庵の吐息に艶が混じり出す。
「きょう⋯⋯」
 低い声が京の名を囁いた。京の脇腹を撫でていた彼の両手が胸元へと擦り上がる。片手は胸の尖塔を指先で押し潰すようにしながら何度も胸板の上を上下し、もう片方の手は腹筋をなぞり下ろすようにして京の下肢へと伸ばされる。器用に動く節立った長い指は確実に京のポイントを捉え、彼を夢見心地にさせていく。
「もっと⋯⋯」
 庵を追い立て熱を高めてやりながら、戯れる口調で京が促す。と、庵の両腕が京の背に回り、きつくその身を抱き寄せたかと思うと、次の瞬間、狭い布団の上で京は体勢を入れ替えられていた。
「いおり⋯⋯?」
 真上から庵からの口吻けが降ってくる。その唇は京の顎を伝い、首筋を辿り胸元へと降りて行った。さっきまで指で触れていた胸の尖りを今度は唇が愛撫する。京が視線を向けると、ちょうど庵の薄く開いた唇の隙間から紅く濡れた舌が伸びて、それを舐め上げるところだった。濡れた音が発つ。そうしている間にも庵の片手は京の雄を絡めとり、敏感な裏筋を爪の先で擦り上げ、親指の腹で先端の部分をきつく撫でつけて、溢れ出す先走りを塗り込めるように動いている。
「ん⋯⋯」
 心地よさに京は素直に喉を鳴らした。
「庵、おまえも気持ちよくしてやるよ」
 胸元に身を伏せている庵の腰を捉え、京はその躰を引き上げる。下から己の脚で庵の脚を絡めとり、育ち切った互いの熱を直に触れ合わせ擦り付けてやれば、庵は腕を限界まで突張り、喉を引き攣らせて仰け反った。
「京⋯⋯」
 熱に熟れた眼が京を見下ろす。そして庵は腿で京の腹筋を跨ぐと徐に男の片手を取り、己の背後へ導く。
「挿れて欲しいか?」
 問いかける京の掠れた声に婉然と笑んで頷き、引き寄せた手を更に強く握ってその指先をまだきつく閉じられている熱い体内への入り口へ押し付ける。
「ここに⋯⋯おまえが、欲しい」
 上体を倒し、京の耳元でそうねだった自分の言葉に嬲られたのか、言い終えた直後、庵は小さく息を呑んで躰を硬直させた。
「っ⋯⋯ん⋯⋯」
「いおり?」
 庵の躰の変化に気付き、それを確かめるために京は自分に覆い被さる男の上体を押し上げる。そして視線をそこに送ると、まだ透明な体液しか滲ませていなかった筈の場所が白濁に塗れて震えていた。
「すごいな⋯⋯」
 言葉にされるのが嫌なのか、それともただ焦れているだけなのか、庵が幼子の仕草でかぶりを振る。
 京は庵の耳朶をするりと撫で上げ、彼と向かい合う形で上体を起こした。腰を引き寄せ躰を密着させる。
「京」
 安堵したような柔らかな声の洩れる唇に舌を這わせ、今夜何度目になるのかも判らない口吻けを深く交わしながら、京は庵の望みを叶えるために彼の背筋を撫で下ろしその場所に触れる。まだ頑に口を閉ざしていることを確かめると一旦手を離し、ふたりの躰の間に手を差し入れた。どちらの物ともつかない体液を指先に集めてから再び腕を伸ばし、ぬめりを借りて堅く窄まる窪みを解していく。片手で双丘を押し開き、その中心にもう片方の手指を押し当て突き立てる。
「んっ」
 筋肉に覆われた胸を喘がせて庵が仰け反った。その反動で離れた唇が透明な糸を引く。
「力、抜け、よ⋯⋯」
 指を喰い締めてくる内襞のあまりのきつさに、京は眉根を寄せた。
「イっ、ツ⋯⋯」
 意識を逸らすことが出来ず痛みだけを知覚してしまうのか、庵は苦鳴を上げ唇を噛み締める。
「いおり⋯⋯、前、自分で触って」
 体内を探る指を2本に増やされて、圧迫感に引き攣った声を上げる庵が痛々しくて、京は彼の手を引き彼自身に添えさせた。
「自分で、気持ちよく、なって⋯⋯いいから」
 息の上がった京の甘い誘導に素直に頷いて、庵の指が自身を嬲りはじめる。
「んっ、ん⋯⋯っ」
 声を出すことを無意識に耐え、庵は無心に己の愉悦を追い求める。うっすらと目蓋の開かれたその表情は、犯罪級の婀娜っぽさ。その庵は自身だけでなく京のものにも触れて来た。
「ふ⋯⋯っ」
 京の体温が一気に上昇し、理性が霞む。更にそれに拍車をかける言葉が庵の口から零れた。
「きょ⋯⋯、も、いい⋯⋯っ」
 もう、充分だから。
 ――挿れて欲しい。
 京は庵の体内から指を抜き取ると、乱暴な振る舞いで彼の躰の向きを変え、腰を掴み上げて一息にその身を繋いだ。
「――――ッ!!」
 背後から抱きかかえられ、下から容赦なく突き上げられて、その最初の衝撃で達してしまいそうになった庵を、けれど京の手が許さなかった。咄嗟に前に回した手で、庵の出口を塞いでしまう。
「京ッ!」
 庵の尖った悲鳴が耳に心地良い。
 庵が最初に受けた衝撃の余韻から抜け切らない内に、京は激しく彼を揺さぶる。
「あっ! ⋯⋯っ、う、⋯⋯んーっ!!」
 閉じることを忘れた庵の口から、それでも低く押し殺した声が途切れ途切れに溢れ出す。彼は身を捩り、片腕を回して京の首を抱き寄せ、キスをねだった。呑み込むことの出来ない唾液に顎を濡らして、しかしそれを拭うこともせず、唇を離して荒く呼吸(いき)をついではまた唇を求める。それに飽かず応えてやりながら京は腰の動きを早め、庵の花芯を扱く手に力を込めていく。
「京⋯⋯きょう⋯⋯、⋯⋯」
 いつしか庵の口からはその名しか聞かれなくなる。おわりが近付いたときの彼の癖だ。
 そして。
「――――!!」
 溢れた庵の嬌声が京の口腔に呑み込まれた。無理な体勢で京と深く口吻けたまま、庵の全身が硬直する。シーツを握りしめた拳が色をなくす程に力を込めて、庵は熱い白濁を京の手の中に吐き出していた。
 唇を解放してやれば、音が洩れるほどの荒い呼気が庵の口をつく。
「ゴメン、庵。もう少し、付き合って⋯⋯?」
 吐精の余韻に力をなくした躰を改めて抱え直し、京は息を詰めて何度か腰を突き上げ、庵の中に熱流を注ぎ込んだ。その熱さに感じたのか、庵の四肢がビクリと震える。
「まだ、いけそう⋯⋯?」
 密着していた肌を離し、汗に湿った紅い髪を掻き上げながら京が問えば、
「⋯⋯ああ」
 庵からは確かな頷きが返る。
 自ら京を誘ったせいか、この日の庵はいつになく積極的だった。
 再び、今度は庵を仰向けに横たえて、その躰に挑みながら京は思う。
 ――躰が冷えたから。
 それを理由にしなければ、自分を誘い甘えることの出来ない庵の不器用さも悪くない。
 庵の腕が京の背に回る。
 空気を犯すような湿った音とふたり分の荒い息遣いが、深い闇の中に溶けて行った。






 一度では済まされなかった情交のせいで、部屋の中にはまだ熱い空気がわだかまっているようだった。
 ふたりはさっき使われなかった新しい布団の中に潜り込んで疲れた躰を休めている。数時間微睡んで、先に目覚めたのは京だった。その後すぐに庵も眼を覚まし、まだ訪れぬ夜明けをふたりで起きて待っている。まだ躰は気怠いのだが、頭は冴えて、もう眠りたくないと訴えていた。
「なあ、庵」
 京は煙草を銜え薄暗い天井を見上げている。
「なんだ?」
 俯せに枕に頬を埋めている庵の応える声は少しくぐもっていて聞き取りにくい。目覚めてから京が腕枕をしようとしたら庵は速攻で逃げてしまい、今はこの姿勢に落ち着いている。
「なんで俺のこと選んでくれたんだ?」
 一度訊いてみたかったのだ、と京は言う。
 庵が闇の中で身を起こした。それにつられて起き上がろうとした京を手で制し、庵は彼を真上から見下ろす。
「俺もずっとそれを考えていた」
 そう言って京の口から煙草を奪い、庵はそれを自分の口に銜え一服する。そして再びそれを京の口に返した。
「オロチと対峙したときのことを覚えているな?」
 京は、ああ、と頷く。息を吸い込むと、苦い筈の煙草の味が何故か甘く感じられた。
「あのときのことを思い出して、その理由が判った気がした」
 あのとき、庵は人類を救うだとか人類の未来を守るだとか、そういったことを考えた訳ではなかった。ただオロチの意のままに操られることに逆らいたかっただけで。
「だが⋯⋯もしあのとき共に闘うことになっていた相手がおまえたちでなければ⋯⋯」
 KOF97で庵がエディットメンバーに選んだのは、京とちづるのふたりだ。
「いや⋯⋯あのチームの中におまえがいなければ⋯⋯」
 そこまで言って庵は少し笑んだ。
「俺はあんな遣り方でオロチに立ち向かってはいなかった」
「どういうことだ?」
 庵の言葉の指すことが理解できず、京は訝しみの表情を見せる。それに構うことなく庵は続けた。
「あのとき自覚した」
 血の暴走に逆らい、オロチの躰を押さえ込んだ、あの瞬間に。
「この背はおまえにしか預けられん」
 自分が背を預けることのできる相手はこの男しかいないのだ、と。
 唯一ただひとり。
 この命までを預けられる相手。
 それが、京なのだ、と。
 だからもし、あの場に居合わせた者達の中に京が含まれていなければ。自分は決してあの行動には出なかった。京にしかオロチを屠る能力がないと判断したからではないのだ。例え京にそれだけの技と能力とが備わっていなかったとしても、あの場に京が居さえすれば自分は同じ行動を取った。そしてあの場に京がいなければ、例えあの場にオロチを斃すことのできる何者かがいたとしても、そして自分が死ぬと判っていたとしても⋯⋯。
「俺の命を自由にしていいのは、京、おまえだけだ」
 京は銜えていた煙草を己の炎で灰にすると身を起こし、庵と真正面で向き合った。
「今更かも知んねぇけど、俺も言っとく」
 好きだからだとか、愛しているからだとか。そういうことが理由なのではなくて。自分達が互いに相手を必要だと思うのは、もっともっと簡単で複雑で、原始的な理由から。
 魂が惹かれ魂が呼び合うのは、おまえが俺の⋯⋯。
「俺の命、自由にしていいのは、庵、おまえだけだからな」
 お互いにお互いを選んだ理由。
 それは。
 生きていたいから。彼と共に歩まねば迎えられない未来が、自分の未来だと知ったから。
 それがなければ生きては行けない。
 生きて行くために欠かせないもの。
 それは水のようなもの。
 それは太陽のようなもの。
 それは酸素のようなもの。






 YOU’RE MY LIFE.



2001.01.02 終/2018.12.08 微修正 



・2001.01.02 サイト『Doll Club』のがみちゃん様へ献上