「おまえ、明日の夜はライブなんだよなあ?」
庵に背を向けて、カレンダーを眺めながら京が言う。
「ああ」
その問いかけを肯定する部屋主の言葉はひどく短い。
「だよなあ⋯⋯」
その力ない声を聞けば、いま男がどんな表情をしているのかなど、顔が見えなくても庵には判った。
落胆し切った残念そうな貌をしているに違いない。
「もういい加減にやめないか、京」
実を言えば今の問答は、それに類するものがこの1週間程の間にもう数え切れないくらい繰り返されているのだ。だからいちいち律儀に答えを返す庵も、さすがにうんざりし始めている。
「んー」
「何度訊いても俺の予定は変わらんぞ」
「それは判ってんだけどさ⋯⋯」
言葉尻を濁す京は未練たらたらの様子だ。
「その日のうちに帰るかどうかも判んねーんだよなあ?」
「そうだ」
「はーっ」
肺を空にしてしまうような深い深い溜息。
それを庵は、毎回毎回この会話が繰り返される度に聞かされている。
明日は12月24日。
20世紀最後のクリスマスイブだった。
そしてクリスマスイブ。
練習とリハーサルとの関係で、庵は23日の夕方から家を空けている。23日の夜はバンドのメンバーの家に泊まると言っていた。そして、
『そんなに誰かと祝いたいなら今からでも女を捜せ』
そんな素っ気ない言葉を残して彼は出掛けてしまって。
「なんで解んねーかな」
ひとり残された部屋で、京はぽつりと呟く。
誰かと祝いたいんじゃない。自分はほかの誰でもない庵とだからこの日を祝いたいのだ。なぜそれが彼には伝わらないのだろう。
何度も言葉にしたのに。
それとも、解っているのにはぐらかしたのか。
だとしたら最悪だ。
「脈ナシ、ってコトか?」
――いい加減に諦めろ。
庵にそう言われた気がした。
「でも俺、諦め悪りィんだよな」
京はひとり自分を嗤う。
オロチを斃し、ネスツに捕われて、更にその組織から逃げ出し放浪を続けた三年の間、自分が逢いたいと願った相手は日本で自分の帰りを信じて待っていた女ではなく、同じだけの時間、自分を探し、追い続けていた男だった。
理屈では片付かない。
ただ庵に逢いたいと、そう思う気持ちだけが真実(ほんとう)で。
だからKOF2000の終幕直後、彼と再会できたときには運命を受け入れてもいいとさえ思ったのだ。この男に出会うことが己の運命だったのなら、その運命とやらを自分に授けた何者かに感謝してもいい、と。660年前の八尺瓊当主とオロチ一族とに礼を言いたいくらいに。
「俺はこんなに惚れてんのに⋯⋯」
らしくもない弱気。
自分の気持ちを自覚した京が庵の部屋へ頻繁に訪れるようになったのは、KOF2000が終了してからだ。
京を殺していいのは自分だけだ、と、そう周囲に宣言する庵の姿勢に変化はないが、彼が京に対して本気の殺意を抱いていないのは確かだった。八神一族の草薙家に対する怨念や憎悪も、三年前のあのとき、オロチの消滅と共に霧散し、家同士の確執は公然と解消され、世間にもそう認知されている。そのせいなのか、庵は京が己の部屋へ出入りすることをあっさりと許可した。
「出掛けるか」
自分も外出しようと重い腰を上げ、京はダウンジャケットを羽織った。何気なく手を入れたポケットの中で冷たい金属が指に触れ、チャリ、と更に冷たい音を発てる。
音の正体はこの部屋の合鍵。
いつでも部屋に入れるよう、合鍵を寄越せとねだった京に、庵は失くすなとだけ言ってそれを差し出した。
無造作に。
何の抵抗も躊躇いもなく手渡されたことにどれだけ自分が落胆したか、彼は知らないだろう。庵にとって、自分はそういう対象になり得ないのだと言われた気がしただなんて。でもそう感じる気持ちが、自分の独りよがりだとも京には解っていた。
これ以上この部屋にいても仕方ない。庵はきっと今夜は帰らない。
だけど、こんな日にひとりで街に出るのは辛すぎる。きっと今日はどこへ行っても幸せそうなカップルばかり。これ以上惨めな気分になるのは御免だ。それでもこの部屋にもいられなくて。
「どこ行こっかなあ⋯⋯」
声にした自分の言葉が虚しかった。
結局京に行き場所はなく、でも自分の部屋に戻るのも嫌で、彼は一日中あてもなくバイクを飛ばしていた。そんなことをしても少しも気は晴れず、それどころか冷えた空気に晒されてますます心が凍っただけだった。
陽が暮れた空には星が瞬き始め、ついには日付けが変わろうという時刻になってようやく、京は帰途に就く。自分のアパートに戻りフルフェイスのヘルメットを外すと、晴れた夜空に白く痩せた爪痕。
――そういえば明後日は新月だ。
毎日のように庵の部屋で眺めていたカレンダーに、確かそう書いてあったなと思い出す。
どうでもいいことを考えているつもりで、その全てが庵への想いに繋がってしまう。
「諦めらんねぇよな⋯⋯」
白く息を吐いて、ヘルメットを小脇に京はアパートの階段を自分の部屋へと昇り始めた。
「遅かったな」
不意に前方から聞こえた耳に馴染んだ低い声に、京はビクリと足をとめる。顔を上げたその視線の先には――。
「や、八神!?」
びっくりし過ぎて心臓が止まるかと思った。
俯いて歩き続けていたせいで、京は階段を昇りきるまで部屋の前で膝を抱えるその人物の姿に気付かなかったのだ。地べたに座り込んでいる庵の、寒さに凍った顔の中では唇が完全に色を失くしていた。
「おま⋯⋯おまえ、いつからココにいたんだよ!?」
引いて立たせたその手のあまりの冷たさに、京の方が悲鳴を上げる。
「忘れた」
答える庵は収縮し切った筋肉の動きがぎこちなく、言葉にも抑揚がない。もう殆どの感覚が死んでいるのだろう。
「とにかく部屋(なか)入れ!」
玄関で靴を脱ぐのにも苦労している庵に手を貸して、京は彼を室内へと連れ込む。洗濯物や郵便物が床に散らかったままの部屋は正直恥ずかしかったが、それに構っている余裕など今の彼にはなかった。
「ココ座って」
慌てて回したファンヒーターの前に庵を座らせ、京はベッドの上の毛布を引き剥がし、それで彼の身体をコートの上からくるむ。
「待ってろ、いまコーヒーかなんか⋯⋯」
淹れて来るから、とキッチンへ向かおうとした京のズボンの裾が、クイ、と引かれる。足下に視線を向ければ、毛布の中から伸びた庵の血の気のない手が彼を引き止めていた。
「行くな」
「行くなって⋯⋯でも早く暖めねぇと!」
風呂も沸かして来ないといけないし、と言い募る京に、庵はそれでも首を振る。
「いいからここにいろ」
側にいろと繰り返す庵に、京は根負けして大人しく彼のとなりに膝をついた。すると庵の両腕が、内側から毛布を広げ京に向かって伸ばされる。
「やがみ?」
庵の行動の意味が判らず京は戸惑う。そんな京に、庵はまだ強張ったままの顔で微笑んだ。
「暖まらねばならんのなら貴様が暖めろ」
京は今こそ本当に心臓が止まるという感覚を知った気がした。
ただし今度は喜びのあまりに。
庵が汗をかく程に熱を取り戻す行為を終えて、京は満ち足りた表情で傍らに横たわる男の紅い髪を梳いていた。京の盛り上がった筋肉質な二の腕に頬を預けてじっとされるに任せている庵は、けれど眠っている訳ではなく、時々思い出したように瞬きしている。
「俺さあ、今年のクリスマスが今まで生きてきた中で一番最悪なクリスマスになるって思ってたんだけど⋯⋯」
京はそう言って、それまで髪を撫でていた手で庵の頬に触れた。
「全然逆だった」
――最悪どころか。
「今まで生きてきた中で、一番最高のクリスマスだ」
そう口にした京は至高の笑顔。そして感慨深げに言う。
「サンタってホントにいるんだな。それもすんげぇサービス精神旺盛の」
「?」
京の言葉の意味を読み取れず、庵は首を上げて怪訝な貌をして見せる。が、そんな庵を気にすることなく、
「靴下吊ってなくてもプレゼントくれんだぜ?」
京はそう続けた。
「ま、靴下吊ってたって形のないモンは入れられないだろうけど」
ますます訳が解らない、という表情をした庵に京は声を発(た)てて笑い出し、気付かないならそれでもいいさ、と触れるだけのキスをする。触れた庵の唇もいまはもう血の色を取り戻し、暖かな吐息を零していた。
「けどさあ、」
と、それまでとは不意にトーンを変え、京が庵の顔を覗き込んだ。
「おまえ、なんだってあんなトコで待ってたんだよ? 電話すりゃ良かったのに⋯⋯」
自分の携帯電話の番号はずっと以前に庵には教えてあった。今まで一度も彼から掛かって来たことはないのだが。
「まさか番号消しちまったとか?」
「違う」
庵の携帯に京の番号を登録したのは京自身だ。そして庵はそれを消してはいない。
「じゃあなんで掛けなかったんだ」
掛けてくれれば自分はすぐにでも庵の元へ飛んで来られたのに。そうすればあんなに庵を凍えさせずに済んだ。
けれど庵は微笑うばかり。そして、いいのだと小さく呟き、こう続ける。
「アレは貴様をずっと待たせた自分への罰だからな」
京の想いを知りながら、それに答えることもせず、ずっとはぐらかし続けた自分への。
――許されるにはまだ足りない償いだが。
更に続いた庵の告白に、京は腕の中の彼を力いっぱい抱き締める。
「二度とあんな真似すんな。それを約束してくれたらそんな償いもう終わりだ」
その言葉に応えるように、無言の庵の両腕が京の背を抱き返した。
Merry Christmas !
2000.12.24 終/2018.12.08 微修正
・2000.12.24 サイト『京庵同盟』さまへ企画参加作品として投稿