幾人もの一族の声を聞いた。
ただひとり生き残る俺に対して。
恨む声。
妬む声。
哀れむ声。
気遣う声。
それら全てを聞き終えて、俺はやっと目を覚ますことを許された。
神楽の話によれば、俺はずっと眠り続けていたのだそうだ。
1997年、晩秋。
KOF97が終了し、三月近い月日が流れていた。
目覚めて数日後。
いくつもの検査を終えてのち、これから始めるリハビリで、落ちてしまった筋肉さえ取り戻すことが出来れば、いつでも退院していいと診断された庵にちづるが言った。
大切な話があるのだ、と。
両腕両脚の筋力が衰え、松葉杖をついて歩くことさえ適わぬ男を車椅子に乗せ、ちづるは彼を入院先の病院の中庭へと連れ出した。
「言いにくいことなのだけど⋯⋯」
と、男の背後で女が重い口を開く。そして、
「あなたが退院する前に、あなたの一族の現状を話しておかなくてはならないわよね」
そう言った。
「その必要はない」
この女の言おうとしている話の内容を、庵は既に知っている。
「皆、死んだのだろう」
眠る庵に逢いに訪れた者たちは、皆死者だった。最後の言葉を遺すために、彼らは庵の夢枕に現れたのだ。
恨む声。
妬む声。
哀れむ声。
気遣う声。
それを遺して皆逝った。
「知って⋯⋯いたの⋯⋯」
息を呑む女の声。
「知っていたのか、とは、また随分なご挨拶だな。これでも俺は八神の当主だぞ? ⋯⋯もっとも、誰の命も守れぬ程に非力だったがな」
背後でちづるは沈黙した。庵の自虐に気付いている。
「オロチを斃したのは奴だな?」
「ええ」
あの時KOF97の優勝セレモニーの会場に於いて、庵が暴走した身で京と直接対戦していなければ――対戦し、尚且つ庵が彼に負けてさえいなければ――、一族壊滅の現状だけは避けられた。京をあの場で庵が倒しておきさえすれば、オロチの復活を彼に阻止されることなどなかった。
オロチ復活に興味があった訳では無論ない。
ただ。
オロチが復活していれば。いや、復活しないまでも、斃されてさえいなければ――。
僅かでもオロチの血を持つ者は、主の消滅と共にひとり残らず息絶えた。幼子までも。
直接京と対戦することで、意図せずして彼の手によりオロチの血を浄化されてしまった庵だけが、ひとり死ぬことを免れて。
庵は目の前の、紅葉の終盤に来て見窄らしい恰好(ナリ)を晒す木々を見るともなく眺める。
――無様な⋯⋯。
望みもしない結末。もしも京を倒せずオロチ復活を阻止されてしまうなら、そのときは己も一族と運命を共にするつもりだったのに。
「八神」
神楽が小さく低い声で八神一族の主だった者たちの名を挙げ、どのような最期を迎えたのか、感情を押し殺した口調で語り出す。
オロチの消滅を境にして彼らは徐々に病み衰え始め、ある者は苦しみもがきながら、ある者は心穏やかに取り乱すこともなく、皆それぞれにそのときを迎えた、と。
「遺体は八咫が?」
庵の問いに、微かに頷く気配。
「皆⋯⋯ひとりひとり、わたしたちの手で葬りました」
「世話を掛けたな。⋯⋯礼を言う」
かさかさと乾いた音を発て、落ち葉が地面を転がって行く。
じき、冬が来る。
二週間後、庵はひっそりと退院した。
帰る場所はひとつしかなかった。
KOF97に参戦することを決めたとき、既に己の死の可能性を視野に入れていた庵は、それまで暮らしていた東京のマンションを引き払っていたし、今更あの都市(まち)に戻る理由も失っている。蒼い炎を喪った彼に、もうあの男を殺すことは出来ないのだ。
山陰の山間(やまあい)に、人目を避けるようにして建つ八神の本邸。住む者のいなくなったそこは、それでもちづるが手配し手入れを続けてくれていたのだろう、綺麗に掃除されていて明日からの生活にも何ら支障はなさそうだった。だが、庵はこの屋敷に暮らすつもりはない。
ここは一族の墓場。彼らが次々に倒れ息を引き取って行った場所。
ただ、逢わねばならぬ者がひとりいて、その人に逢うためだけ庵はここに戻って来た。
入院先の病院で昏々と眠り続けていた間、ただひとり、庵を訪(おとな)わなかった血縁者がいる。
妹だ。
彼女がこの屋敷で自分の帰りを待っているのだということを、庵は知っていた。
玄関から屋敷に上がると、庵はその足で真直ぐに妹の部屋へ向かう。
「入るぞ」
声を掛け障子を開ければ、妹は和室の真ん中に、曼珠沙華を裾と両袖にあしらったお気に入りの振袖を着て、行儀よく座っていた。
『お帰りなさいませ、あにさま』
にっこりと花が咲いたように笑う顔はまだ幼い。
「遅くなった⋯⋯済まない」
謝る庵に座るよう促し、妹は兄の頬へ小さな手を伸ばして来た。けれどその手は庵の頬を撫でることができない。
『皆からの伝言があるの』
触れることができず、擦り抜けてしまう死者の身が悲しいのか、少女は淋しそうな笑顔を見せた。
『兄様は生きることが定め』
「それがおまえたちを守れなかった当主への⋯⋯俺への罰なのだな?」
庵の言葉に少女の魂は頷く。その姿は庵の気のせいではなく、少しずつ透明度を増している。小さな体躯を透かして向こうの景色が見える程に。
少女は庵に一族の遺志を伝えるためだけに、ひとりこの場に残って彼の帰りを待っていた。その役目を果たし終え、彼女の魂は本来あるべき時空へ解き放たれようとしている。
庵にはそれを引き止める術がない。
「わかった」
彼女が旅立ってしまう前に、己の意志を伝えなくては。
「俺はおまえたちの菩提を弔ってひとり生きよう」
死ぬことを許さない。後を追うことを許さない。それが死者たちが庵に突き付けた最後の要求。
わたしたちを守れなかった自分を責めながら、嘆きながらお生きなさい。わたしたちの味わった苦しみを、生きながらお知りなさい。
「⋯⋯最後にひとつだけ、俺の頼みを聞いてくれるか」
もう視覚に捕らえられぬ程に形の薄れた魂へ、庵は最後の望みを口にした。
「いつか俺がおまえたちに赦されたとき⋯⋯そのときは、おまえに迎えに来て欲しい」
少女が微笑ったのが、気配で知れる。
『約束ね。あにさま』
明るい声だけを残し、妹の気配は庵の側から消えて行った。
暫くの間、思い出に浸るように妹の部屋に留まっていた庵だが、ややあって腰を上げた。
妹に逢い、最後の言葉を聞いた今、この屋敷には用がない。
庵は外へ出て、屋敷をぐるりと取り囲む形で丁寧に結界を張った。そして徐に右の掌(たなごころ)へ紅い炎を呼び出すと、それを結界の内部に向け勢いよく解き放つ。
人を殺す威力を喪くした八尺瓊の炎でも、物を燃やすには充分すぎる。
空気の乾燥したこの季節、築200年を越す木造の建物はあっと言う間に炎に呑み込まれた。ごうごうと音を発て火の粉を吹き上げながら燃え盛るのは、1800年分の一族の想い。
燃える屋敷の向こうには、11月も上旬になれば初冠雪を記録する山の頂が見える。
勢いを増す火力に炙られ、頬が引き攣れる程に熱くなっても、庵はその場から動かない。すべてが燃え尽きるまで、ここでこうして見届けるつもりだった。
ごう、と一際大きな音を発て、それまで建物の形を保っていた黒い塊が崩れる。梁が落ちたのだろう。それにつられるようにふらりと、庵の足が一歩炎へと近付いた。
そのとき。
「八神ッ!!」
庵は誰かにぐいと腕を掴まれ引き止められた。
驚いて振り向いた彼の視線の先には、この場に居る筈のない男の顔。彼はひどく怒った貌をしていた。
「京⋯⋯?」
なぜこの男がこんな所にいるのだろう。しかし庵はすぐに驚愕の表情(いろ)を消し、京から顔を背ける。
「何をしに来た」
冷淡な声色。
「なに、って⋯⋯」
「『八神』に何か用か?」
紅い炎を見つめる男の双眸は、何の感情も湛えてはいない。
京は言葉の接ぎ穂を見失う。
八神一族の身に何が起きたのか、京はちづるから話を聞いて初めて知った。そして、矢も楯もたまらず、庵を探してここへ辿り着いたのだ。
謝って赦されるようなことでないのは充分解っていた。それでも探さずにはいられなかった。逢わずにはいられなかった。
「別に『八神』になんか⋯⋯」
用はない。ただ庵に逢いたかっただけだ。ただ彼の無事をこの眼で確かめたかった。
「そうか。⋯⋯で? 今のは何の真似だ」
先の京の行動を咎める男の声は冷たい。
「おまえが⋯⋯飛び込むんじゃないかって⋯⋯」
燃え盛る炎の海へ、庵が今にも飛び込んでしまいそうに見えて、考えるよりも先に躰が動いていた。
「馬鹿か、貴様は。自分の放った炎が己の身を害さないことも忘れたか」
小馬鹿にして庵が言う。
「そんなこと⋯⋯っ」
そんなことに思い至る余裕などあるものか。苦々しく京は吐き捨てる。
「とにかく、死ぬ気はないんだな?」
気を取り直して確認した京に、しかし庵は皮肉めいた表情を見せた。
「例えそんな気があったとしても、俺は死ねん」
「どういう⋯⋯」
「百を超える年月が過ぎようとも、千を超える年月が流れようとも、彼らが俺の身にそれを赦さぬ限り、な」
庵は笑った。
壮絶な、笑み。
かつて彼が京に見せたどんなそれよりも、禍々しく救いのない――。
怯えた眼を向ける京に、ついに庵は声を上げて嗤い出した。
「それが、一族を守れずひとり生き残った無力な当主への制裁さ」
嗤い止んだ庵の瞳には蔑みのいろ。
――貴様になどこの俺が救えるものか。
震える声で京が訊く。
「憎くないのか⋯⋯?俺のこと」
大切な者たちを奪った、この俺のことが。
「憎んでどうする? 憎しみを晴らす術も持たぬ身で」
庵は右の拳を京に向けて突き付けた。そこに呼び出されるのは紅い炎。
「滑稽だろう? 貴様を殺せなかったばかりに、俺は死ぬことも出来ず生かされ続けるんだ。貴様を殺す力を喪って尚、な!」
「⋯⋯⋯⋯」
京は言葉を失い、項垂れる。
やっと救えたと思ったのに。
運命という名の柵(しがらみ)から、オロチという名の枷から、庵を自由にして上げられたと思ったのに。そうして、これからやっと、彼と正面から向き合うことが出来ると思っていたのに。そのときが来ることを信じて、自分はオロチに立ち向かった。ただそれだけが、望みだったのに。
取り戻して上げられた自由などとは比べようもない程に大切だったものを、自分はこの男から奪ってしまった。それが意図しないことだったにせよ。
「去れ」
感情のない声が京を追い立てる。
「また、来るから⋯⋯」
それだけを口にして京は踵を返す。その背後では、衰えることを知らぬ炎がまだごうごうと燃えていた。
屋敷を焼き払った庵は、そこだけは燃やさなかった離れに住処を定めていた。その庵の元を、また来ると言った言葉通りに京はふたたび訪れた。そして彼はそのままそこに居着いた。
庵をひとりにしては置けなかったのだ。
彼を独りにしてしまったのは自分だから。だから、自分だけでも彼の側にいようと思った。本当は。
ずっと昔からそうしたかったのだ⋯⋯。
京が庵の籠る離れに住み着いて、ひと月が過ぎた。
山陰の山々は白一色の世界に侵食され、庵の住む離れの一室は深い雪に閉ざされる。
この世にふたりきり取り残され、この部屋に閉じ込められているような錯覚。
愛しい者とふたりきり。
本来喜ぶべき状況である筈なのに。もっと心躍る日々を送れる筈なのに。
京は庵の側で膝を抱え、蹲っていた。
ふたりの間に会話はない。
一方的に京がしゃべり、落胆する、それだけの毎日。
庵は日がな一日眠っている。食事も摂らない。
暖房もない部屋の畳の上に、庵は布団も被らず転がっていた。
京は埋めていた膝の間から思い出したように顔を上げ、吐く息を白く染めて今日も男に語りかける。
「なあ八神。俺のこと、恨んでもくれねぇの⋯⋯?」
――もう関心さえないのか?
横たわる庵は目を閉じて、言葉でも表情でも態度でも、何も答えはしない。
京は唇を噛み、また膝を抱えて蹲る。
息が凍る。
心が凍える。
夢見た春が遠い。
京の視線が己から逸れたことを気配で察知し、庵はその痩せこけた頬に軽薄な笑みを浮かべた。
恨んでなどやらない。
憎んでもあげない。
どんな些細な感情も、貴様には呉れてなどやるものか。
――貴様は⋯⋯。
痩せ衰え、見る影も失くし骨と皮ばかりになって、それでも死ねない俺の、醜く無惨に朽ちゆく様を、成す術なくただそこで見ていろ。
そうして。
巡り来ぬ春を嘆くがいい。
この世の絶望を知ればいい。
2000.12.13 終
・リク内容:振られまくる京
・サイト『雪月華』の叶さまへ献上
・サイト『雪月華』の叶さまへ献上