そのマンションの部屋のリビングの壁には、カレンダーが一軸掛けられていた。日々の予定を書き込むような余白を持たないデザイン重視のそれは、部屋主の好みなのか、落ち着いた深みのある色調とシンプルさとを売りにしている。
が。
そのカレンダーの存在こそが、この部屋の持つ洗練された雰囲気を台無しにしていた。一年の最終月を示す一枚だけが残された濃紺地の紙面に、不透明の赤インクがこれでもかと云わんばかりの自己主張をしている場所が一箇所あるせいだ。
12月12日。
今日を示す12の文字は、そのインクのお陰で読み取ることさえできない。
11月分のカレンダーを破り取るまで、部屋主はそこにそんなものが描かれているとは知らなかった。
犯人は知れている。
この部屋に入ったことがあり、尚且その日付けに執着する人物といえば、草薙京、その男をおいて他にはいない。
師走の12日。
それは彼(か)の男の誕生日だった。
京が2000年の自分の誕生日を迎えてから、既に23時間以上のときが経過している。しかし、この日庵はまだ当人と一度も逢っておらず、それどころかその声さえ聞いてはいない。
それもその筈、いま京は大阪にある草薙の本家に勾留されているのだ。
強制送還を喰らって。
当主がその生誕の日を一族に祝われるのは当然のこと。しかしその当然の祝いの行事を、京はここ数年平然と無視し続けていた。そんな当主に業を煮やした草薙本家の者達が、ついに強行手段に出た。
京がほぼ毎日訪れる庵の部屋へ、何の前触れもなく草薙家からの遣いが現れたのは昨日。聞き分けも反省の色もない犯罪者よろしくジタバタと暴れもがきながら、複数の強者共に両脇をがっちりとガードされて強制連行されていく彼の姿を、庵は苦笑と共に見送った。
そのとき京が振り向きざま喚き置いた、
『絶対ェ明日中に帰るからなっ! 待ってろよ!!』
という言葉を律儀に守って、庵は朝からひとりこの部屋で、玄関のドアが開く瞬間を待ち続けていたりする。
我ながら馬鹿なことをしていると自覚はあった。
京がどんなに頑張っても、この部屋に朝から戻って来ることなど不可能だ。なのに、それを判っていながら尚、この日の庵は一歩も部屋の外へ出ようとしていない。日付けが変わる前に京が本当に帰って来る保証さえ、どこにもないというのに。
庵は決して、京の言葉を100パーセント信じてそうしている訳ではなかった。京がどれだけ強くそれを望んでも、そしてまた庵自身がそう欲したとしても、叶わない願いなどというものはこの世にいくらでもある。それを認めてしまえないほど庵は子供ではなかったし、だから駄目なときは駄目なのだと悟ってもいた。そんなふうに、庵の冷静な頭は、いつもどこかが醒めている。
それでもこの日、庵が外へ出ようとしなかったのは、京以外の誰にも逢わないでいたかったから。
ただ、それだけ。
それが自分の為なのか、京の心情を思ってそうしてやっていることなのか、それは庵本人にも判っていなかった。
そうしたいからそうする。
それだけの想いで今、庵はカレンダーの赤い印を眺めながらひとり部屋に籠っている。
新大阪を20時54分に発車するのぞみは、予定時刻通り東京駅のホームに滑り込んだ。その車内から、ドアをこじ開けんばかりの勢いでひとりの男が飛び出して来る。彼はホームに降りるや否や猛然とダッシュをかけて改札を通り抜けると、何人もの通行人にぶつかりながらコンコースを突っ走って消えて行った。
自慢の黒髪を振り乱し、必死の形相に顔を歪めていた弾丸男はほかでもない、京だ。
どうしても今日の内に、日付けが変わる前に、庵の顔が見たい。彼からの祝いの言葉を、直接逢って聞きたい。ただその一心で、京は萎びた長老連中の監視の隙を突いて屋敷を飛び出すと、追い縋る猛者共の制止も振り切って、新幹線に飛び乗ったのだ。
目指すは東京。
庵の待つあの部屋へ!
どのルートで帰れば一番早く庵の元に帰り着けるのか、道中京はそれだけを考えていた。
東京駅着、23:24pm。
馬車がカボチャに戻るまで、猶予はたったの36分。
男は深夜の街を疾走した。
――バン!
真夜中の静寂(ねむり)を覚ます派手な物音と共に、玄関のドアが開け放たれる。
「いお、り⋯⋯ッ」
走り通しで息が上がり、乾き切って張り付く喉から嗄れた声しか出せない京が、それでも真っ先に口にしたのはその名前。
「ま、に、あった⋯⋯か?」
先の物音に驚いたのか、それとも近付いてくる駆け足の靴音に気付いていたのか、リビングのソファーから立ち上がり玄関を振り向いていた部屋主は、その言葉に、やっと躰ごと京の方へ向き直った。そして無言のまま、立てた親指で背後をさし示し、己の肩越しに見える筈の置時計へと京の注意を向けさせる。
「あ⋯⋯」
――良かったあ〜。
へにゃりと床に座り込んでしまった京が目にしたのは、短針と重なるにはまだ数ミリの開きがある長針だった。
もし既に24時を過ぎてしまっていたら、という恐怖感から、京は新幹線を降りてここに辿り着くまでの間、一度も時刻を確認出来ずにいたのだ。
緊張感から解放され立ち上がる気力を失くし、京は庵を手招く。素直にそれに従って京の前で膝を着き、彼と目線を合わせた男は、
「また貴様に先を越されたな」
と、僻(ひがみ)とも取れる台詞を吐いて微笑んだ。こんな言葉でも彼から京へのれっきとした祝辞なのだ。それを理解してはいるものの、
「素直じゃねぇなあ」
京は堪らず苦笑する。
毎年この日の庵はこうなのだ。
自分たちの関係がかつてのそれのように殺伐としたものではなくなり、今のようなそれに変わってからも、京は庵からおめでとうの一言を云って貰ったことがなかった。決して言おうとはしない彼を「らしい」とも思う。
でも。
「なあ、祝いはそれだけかよ?」
それだけじゃ満足など出来ないから。
「何が欲しいんだ?」
そう問い返して笑う、悪戯な光を湛えた男の眼が京の望みを見通さぬ筈もなく。
「言わなきゃ判んねぇ?」
訊き返す京の眼もやはり同じ表情(いろ)を見せていて、庵がわざと訊き返していることくらい知っている。
「ならば望みのものをくれてやろう」
そう囁きながら、京の見慣れた、けれど決して見飽きることのない男の貌が近付いて来る。
年に数回、特別な日にだけ、庵から触れてくれるキス。
その瞬間を待って目蓋を伏せた男の顔は、ひどく幸せそうな表情を湛えていた。
真夜中に目が覚めて、京はひとりベッドを抜け出した。京が満足するまで彼に付き合っていた庵は、まだベッドの中でふかい寝息を発(た)てている。
蛍光灯の光が、神経質な庵の目を覚まさせないよう寝室のドアをきちんと閉めてから、京はリビングに明かりを灯した。そして闇に慣れていた目を眩しさに眇めながらキッチンへと赴く。庵が常時買い置きしているミネラルウォーターのペットボトルを冷蔵庫から取り出すと蓋を開け、そのまま直に口をつけた。存分に喉を潤おす。
「ふーっ」
満ち足りて、ふかい吐息をひとつ。
人心地がつき、身体が冷え切ってしまう前にさっさと庵の隣に戻ろうと、再びリビングを横切ったそのとき。
京の目が違和感を訴えた。
それはリビングのサイドボードの上に、文字盤を下にして寝かされた置時計。
数時間前、庵が伏せたのだ。
京が寝室へと誘いを掛けたとき抗いもしなかった庵は、そのサイドボードの側を通り過ぎながら時計をそっと寝かせ置いた。その所作があまりに自然だったから、彼の行動はそのときは京の注意を引かなかったのだ。
ふかく考えることもせず当然のこととして、京はそれを元の通りに置き直そうと取り上げ、
「え⋯⋯?」
時計を持つ右手を宙に浮かせたまま、固まった。
文字盤の示す時刻は23時58分。
二本の針の位置は、京がこの部屋に飛び込んで目にしたそのときのまま⋯⋯。
「まさか、なぁ?」
降って沸いた己の疑念を笑い飛ばそうと、思わず口に出した声は乾いて上擦り、微かに震えてしまった。確かめることを躊躇する指を叱咤し、京は時計の裏蓋を取りはずす。
そして。
「マジかよ⋯⋯」
惧れていたとおり、そこにあるべき物の形を京は目にすることが出来なかった。
――あいつ⋯⋯。
ある筈だったのは乾電池。だがそれは、庵の手によって二本とも抜き取られていて。
12日の日付けのまま、時計は人為的に止められていた――。
置時計を手にしたまま微動だにしなかった京は、ややあって気を取り直した。時計の裏蓋を嵌め、それを元通りに伏せる。そうしてリビングの明かりを消してから寝室へ戻った。
リビングの時計の細工に気付いた京には、もうひとつ気になることがあった。だからその想像を確かめるべく、闇に慣れた目で寝室内を探したが、案の定それは見当たらない。いつもならベッドの枕元にある筈の、それは時計。やはりこの部屋の時計も、庵がどこかに隠してしまったのだろう。
ベッドの上へと視線を向ければ、暗がりに、眠る庵の白いうなじがほんのり浮かび上がって見えて来る。
おそらく庵は、時計の存在――つまり時間――を、自分に意識させる隙を与えたくなかったのだ。
この寝室に入った直後から、彼がいつになく積極的だった理由はそれだったのか。
声が聞きたいと言えば、噛み締めていた唇を解いてくれた。それでも無意識に喉の奥で声を殺してしまう彼を、京は幾度となく追い詰め、言いたがらない台詞を聞きたいと、何度もねだった。達きたがる庵を無理に焦らして、自分を欲しがらせて。いつもなら、情事(こと)の最後に罵声のひとつも浴びせられるところだが、今日に限って庵は何も言わなかった。朱に染まった眦で、何か言いたそうに自分を見ていたような気もするが、今となってはその記憶もあやふやだ。
京は庵を起こさないよう、気配を殺してそっと布団の中へもぐり込む。庵は穏やかな寝顔を見せて、身じろぎすることもなく眠っている。
リビングの時計に関しては、抜かりない庵のこと、自分に気付かれる前に電池を戻し時刻を合わせて、元通りに据えておくつもりだったのだろう。だが、それをたまたま、夜中に目覚めた自分が先に見つけてしまった。
気付かなければ知らないままでいられたこと。
信じていられたこと。
疑う必要さえなかったこと。
でも真実は――。
――間に合わなかったんだよな、俺は。
おそらく自分は、現実の時間の流れの中で、己の生誕の日の内に庵に逢うことは叶わなかったのだろう。
しかし庵の取った行動と、それを彼にさせたのだろう心情とを思うと、京は不覚にも眼の奥が熱くなり呼吸(いき)が苦しくなる。
庵がその日の内に自分に逢いたいと思っていてくれて、その日の内に逢うために仕掛けた罠。自分がそれに掛かってあげなければ、庵の望んだ真実は虚偽(ウソ)になる。
だから。
気付かなかった振りをしよう。
庵が自分を騙したように、自分も庵を騙してあげよう。
庵のために。
京はそう心に決め、感謝の気持ちを込めて庵の髪にそっと唇を寄せた。
何もかも知っていて、芝居を打った庵。
この部屋の時間を止めて、庵が京を待っていた、それは紛れもない事実。
けれど。
庵が一番騙したかった相手は一体誰だったのか。
翌朝京が目覚めたとき、リビングのサイドボードの上で置時計は、何事もなかったように規則ただしく正確な時を刻んでいた。
2000.12.09 終/2018.12.14 微修正
・2000.12.12 がみちゃん様のサイト『Doll Club』の「京お誕生日企画」へ提出