<注意>
※この話を下敷きに、大幅に加筆修正したのが『赤の原罪』です。
当初は『救済の技法』と同じ世界線、後日談的な話としてネタを練っていたため、オロチは大蛇表記、庵の妹の名は都(『赤の原罪』では蒼子)、父親も養父になっています。
草薙家と八神家とが本来の関係を取り戻して、約一年の年月が流れた一九九九年一月。京がそのマンションを訪れたとき、部屋の住人は慌ただしく出掛ける準備をしているところだった。
「済まん、京。今日の予定はキャンセルさせてくれ」
玄関が開いた音に気付いて振り向き、京の姿を見留めてそう断った部屋主は庵である。
予定といっても具体的に何を約束していた訳ではない。京の算段では庵に今日一日の予定を空けておいて貰い、何をするかは会ってから決めるつもりだったから、特別これといって困った事態には陥らない。しかし張り詰めた部屋の空気を敏感にキャッチし、京は負の予感に知らず眉根を寄せる。
「なんか⋯⋯あったのか」
自然、声が潜まった。その京の言葉に庵は微かに頷き、そして、
「⋯⋯養父(ちち)が⋯⋯倒れたらしい」
吐息に紛れるように零れたその台詞に、京は一瞬息を止める。続いた庵の話に因れば、詳しい容体は判然とせず、ただ至急本家へ戻るよう妹に請われたとのことだ。
八神本邸の所在地は山陰の出雲地方だ。因って東京から庵が帰郷する場合、公共の交通機関を使うと、たとえ乗り継ぎがうまくいっても優に四、五時間はかかってしまう。
「タクシーもう呼んだ?」
「いや、まだだ。済まんが京⋯⋯」
タクシー会社に電話してくれ、と庵が言い終わるより早く、部屋の中に電話の呼び出し音が鳴り響いた。
悪い、予感。
電話に目を向けて一瞬動きをとめた庵だが、一拍置いて意を決したように受話器を取る。
「はい」
無意識の内にその声は常より低くなっていた。
「そうか。ああ⋯⋯わかった」
沈んだ表情で受話器を置いた庵に、
「どうした」
と、気遣わしげな声で京が訊く。
「都(みやこ)からだ。⋯⋯いま息を引きとったそうだ」
深い溜息と共に吐き出された重い言葉。都というのは庵の年子の妹の名である。
「いおり⋯⋯」
急なことで何と声をかけていいか判らず、ただ名を呼ぶことしか出来ない京に、
「⋯⋯大丈夫だ。そんな貌をするな」
自分の方が身内を喪くしたような表情をしている男に微かな笑みを向け、庵は自室へと姿を消した。喪服を用意するためだろう。
京はその場で庵が出て来るのを静かに待った。
昨年の春、KOF98の開催を待たず、当時同居していた京の部屋から無断で消息を断った庵は、しかし京が予想していた通り、KOFの会場にその姿を現した。だがKOF終了後、庵は京の部屋へは戻らなかった。その代わり、以前彼が住んでいたのとは違うマンションに新しく部屋を借り、ひとりで暮らし始めている。それが、いま京がいるこの部屋だ。京の住むアパートとはさほど距離が離れていないため、事あるごとにこの部屋を訪れる男を、部屋主が迷惑がっている節はない。むしろ当然のもののように、その存在を受け容れているらしい。でなければ、庵自らが京に合鍵を寄越したりはしなかった筈だ。気が向けば、真剣に拳を突き合わせることも、肌を重ね合うこともある今のふたりの関係について、ことさら口にして確かめ合ったことはないのだが、京は、自分だけでなく庵もまた、気持ちのどこかでこの現状を心地よく感じているのだろうと思っている。
そんな平穏だった日常に、突如水を差した、庵の養父の訃報――。
京は、嫌な予感に気が重くなっている自分を知る。そこへ、一泊用のボストンバッグを手にした庵が出て来た。その彼が施錠を確認しようとし始めたことに気付き、
「戸締まり、後で俺が見に戻ってやるから。早く戻った方がいいんだろ?」
と、京は気を回す。養父の死が確認されたことで、急を要する事態ではなくなった。もう死に目には遭えないのだ。しかし庵が未だ八神の当主である以上、彼が早く実家に戻るに越したこともないだろう。
「駅まで送ってってやるよ」
京の提案に、
「⋯⋯助かる」
庵は素直にその厚意を受けた。
バイクで移動する方がタクシーを呼ぶより遥かに早い。庵の部屋の玄関の靴箱の上にいつの頃からか常備されるようになった、元は自分の持ち物のフルフェイスのヘルメットを小脇に抱え、京は一足先に部屋を出た。エレベーターの前でボタンを押して庵を待つ。程なく現れた彼と共に狭い箱の中へ収まって、一気に地下まで降りた。京のバイクは、その地下の駐車場の来客用スペースに停めてあるのだ。
「忘れ物、ないか?」
「ああ、大丈夫だ。それより京、ここの鍵は?」
戸締まりを確認しに戻ってくれる京が部屋の鍵を持っていなければ困る。懸念する庵に、
「スペア持って来てる」
ほら、と京はポケットから現物を出してみせた。こんな時にまで他人のことに思いを巡らせる庵の気遣いが正直堪らないのだが、敢えてそれを悟らせないよう軽い口調で応じ、京は停めてあった二輪車を方向転換させて出口へとヘッドを向け、それに跨がった。そして庵の乗車を促す。タンデムシートに座った庵が安定感を確かめると同時に、京は一路、駅を目指して愛車を発進させた。
平日の日中であるせいか、比較的道路は空(す)いていて、ふたりは大した渋滞に巻き込まれることもなく、空港行きのモノレールが乗り入れる最寄り駅に着くことが出来た。
バイクを降りた庵から、
「助かった。礼を言う」
その言葉と一緒にメットを手渡され、更に、
「おそらく『草薙』へも家の方から正式に連絡が行く筈だ。実家に戻って待っていた方がいいかも知れんぞ」
親切にもそんな忠告が続く。
「わかった。そうする」
と、京は頷き、
「じゃあ気ィつけて行けよ」
そう言って、庵を見送るべく少し後ろに下がった。が、その京を追うように庵は彼に一歩近付くと、腕を伸ばして男の手を掴んだ。常には考えられない行動だったが、当の庵はそのことに気付いていない。
「京」
庵はいつになく強い力で京の手を握ると、
「後でな」
そう言い残し、改札を抜け駅の構内へと入って行った。
庵の部屋の戸締まりを確認した京は、一度自分のアパートへ戻った。大阪の草薙本家へ戻るにあたって、事前に雑用を片付けるためだ。
京は平常は東京でひとり暮らしをしている。が、盆や正月といった祭事には草薙当主としての務めがあるため、まめに帰省していた。
本音を言えば京だって、その手の面倒事は、先代でもある父・柴舟に代行して貰いたいのだ。だが格式張ったことを嫌うのは血筋のようで、京以上に落ち着くという言葉の似合わない彼の父は、家督を息子に譲って以降、修行と称して、まるで祭事の時期を狙いすましたタイミングで旅に出てしまい、平時以外はまず捕まらない。だから今年も、嫌々ながら、京は年末から草薙家の本邸に腰を据えていたのだった。
この年の正月、庵は分家の当主として新年の挨拶をするために宗家当主の京の元を訪れている。たが、それを除けば昨年の暮れからふたりは会っていない。今日は、そんなふたりが新春の祭事全般から解放され、当主同士ではなく、ただの京と庵として初めて会える筈の日だったのだ。
京は知らず溜息を吐いていた。
が、嘆いてみても始まらない。庵に言われた通り、実家に戻って彼からの連絡を待たなければ。
休みを貰うためにバイト先に電話を入れたり喪服の準備をしたりと、必要最小限の用事を済ませてから、大阪までは新幹線を使うつもりで、京は庵を送ったのとは別の駅へと向かう。長期間バイクを駐輪場に置き去りにすることが不安なため、最寄り駅まではアパートから徒歩で移動していた。
電車を二本乗り継ぎ、東京駅へ。そこから新幹線を待つ時間を利用して実家へ電話を入れてみると、既に八神家から草薙家へ正式に庵の養父の死が伝えられていることが確認できた。母の静の話では、心臓疾患が招いた突然死だということだった。
程なく新幹線がホームに滑り込んで来た。京はデイバッグを担ぎ直して車内へと歩を進めた。
大阪までの道すがら、京は少々難解な八神家の人間関係頭の中でお復習(さら)いしていた。八神家の<本当の>家系図は随分と複雑なのだ。
八神家の現当主は庵である。そして今回亡くなった男性は、戸籍上庵の父親に当たる人物だ。しかし彼は八神の先代ではなかった。八神家は男女の性に関わりなく、代々直系の第一子が当主の座に就く家系なのだが、彼(か)の男性は八神の血筋ではないからである。先代は、死亡した男性の妻、そして庵にとっては母親に当たる女性が務めていた。但し彼女は既に故人だ。因に、庵と直接血の繋がりを持つのは、この母親の方だけであって、急死した父親は庵との血の繋がりが全くない。その理由は八神の血統の特殊性にあった。かつて京は庵の口からその仕組みを聞かされている。
八神家の当主たる直系第一子には、人間の父親が存在しない――。
それは比喩ではなく。
『八神当主の父は大蛇(オロチ)』
俄には信じ難いことだが、それが最も真実に近い回答になるのだ。
ただ、死亡した男性は、庵の妹にとっては実父だった。一年程前に既婚者となった彼女は、八神の姓もそのままに、現在夫と共に八神の本家で暮らしている。庵が当主の座を降りていないため、彼女が家に留まらねばならぬ理由も、八神姓を継がなければならぬ理由もないのだが、
『婚姻後に夫の姓へ変更することも出来るのですから』
と、都は言い、現実に庵の婚姻が決まってからその方法を選択しても遅くはないと説明して、訝る周囲の血族を言い包(くる)めてしまった。それが、庵に婚姻の意志がないことを誰よりもよく知っている妹の、兄に向けられた精一杯の愛情で、彼女のそんな想いを知っているのは、当の庵と京だけである。
実は密かに、近い将来この都が正式に八神家の当主になるのではないかと京は思っていたりする。彼女に苦労を掛けるからと、庵はそうなることを望んでいないようなのだが、案外そうなることこそを都は望んでいるのかも知れない。京がそう思うのは、彼女の幸福が、『兄が自由を手に入れて幸せになること』だと知っているからだ。ただ残念なことに、そんな妹の気持ちを庵はまだ知らないでいる。
車内アナウンスが新大阪に着くことを知らせる。車窓からホームが見えることを確かめて、京は立ち上がった。
葬儀の日は、朝から小雪の舞う生憎の空模様だった。
低音の読経が流れる斎場の一室で、黒いスーツに身を包んだ庵は喪主の席に座っている。弔問客を相手に、彼はそつ無くその任を務めていた。庵の隣では妹の都が泣き腫らした赤い眼を隠そうともせず、膝の上でハンドタオルを握り締めている。
「庵様⋯⋯」
弔問客を座敷へと通す案内役が囁く低い声に、顎を上げてじっと正面の壁を見据えていた庵がその首を回した。自分の前に新たに現れた男の横顔を見、それまで微動だにしなかった庵の表情が僅かに動く。彼の前に座り、他所行きの畏(かしこ)まった貌で、
「この度は突然のことで⋯⋯」
と、母親の静に教え込まれたのだろう口上を他人の言葉で語り始めたのは、『草薙』を代表して弔問に訪れた京だった。彼はその表情で、大丈夫かと庵に問いかける。庵もまた型通りの挨拶を口にして返しながら、大丈夫だと瞬きで頷いた。京はそれを確認した後、膝頭を動かして都の方へも顔を向け、不似合いな程の丁寧さで一礼する。そして改めて座り直して焼香をし、一度遺影を見上げてから、一呼吸置いてすっと立ち上がった。
廊下へと大股に出て行く彼の背を、庵の視線が追いかけていた。
弔問者の足が絶えた夜半、庵はひとり霊前に座し、火の番をしていた。通夜の席が設けられた別の部屋では、今もまだ一族が集まり、故人を偲んでいる筈だ。
庵の瞳の中には、二本の蝋燭に灯された小さな炎が映り込んでいる。不意に、その焔が大きく揺らめいた。庵の背後の障子が音もなく開き、外から風が吹き込んだためだ。が、庵は振り向かない。その庵のピンと張り詰めた後ろ姿に、
「いおり」
耳に馴染んだ、男の、柔らかく暖かな声が掛けられる。庵の背が僅かに緊張を解いたように見えた。
「⋯⋯⋯⋯」
己の背後にいる人物が誰なのか、庵には振り向かなくても判っている。庵がその男の氣を読み違えることなど有り得ない。
「お疲れ」
労いの言葉にようやく顔を上げた庵の憔悴した表情を目の当たりにし、京は小さく鋭い痛みが胸腔を走り抜けるのを感じたが、敢えて笑顔を造ってみせて彼の隣に腰を下ろした。そして腿の上に置かれていた庵の拳に黙って己の手を重ねる。冷たく凍えた手の甲が、京の手の温もりに暖められて行く。
唐突に庵が京の肩に頭を預けて来た。その、庵から甘えるという滅多にない行為を意識しない振りで、
「疲れたろ」
京は優しく問いかける。
「流石にな」
素直な反応。
葬儀など一生に何度も経験するものでもない。慣れないことの連続で、正直庵は気疲れしていた。触れ合う京の躰から伝わる熱に酔うように、暫し目を伏せる。
温かな沈黙。そして、
「京」
「ん?」
「⋯⋯⋯⋯」
呼びかけて、何か言いたそうに自分の顔を見るものの、結局そのまま視線を逸らしてしまった庵に、
「どうした?」
京は誘い水を送ってやるのだが、
「いや⋯⋯」
尚も思い切れないでいるのか言葉を濁し、庵は口を噤んでしまう。
「言えよ」
強い口調にならないよう留意しながら、京は辛抱づよく庵の気持ちを誘導する。そして、
「⋯⋯薄情だと⋯⋯思ってな」
頑なだった庵の口からようやく引き出せたのはそんな言葉。
「薄情?」
「父が倒れたと聞かされたときも、息を引き取ったと伝えられたときも、俺は⋯⋯」
心が動かなかった――。
あまりに突然のことで驚いたのは確かだが、そこに哀悼の感情は伴わなかったのだ。驚愕以外の感情を己の裡に見い出すことが、庵には出来なかった。いくら相手が血の繋がらない人間だからと言って、自分がこれほど冷淡に生まれついているとは正直思っていなかった。死に顔を見れば、いくらなんでも泣くだろうと思ったのだ。
けれど。
涙は一筋も頬を伝わず。
自分には人の死を悼むという感覚が備わっていないのだろうか。
庵は皮肉っぽい笑みをその頬に浮かべる。
「俺はどこか、面妖(おか)しいのかも知れんな」
――人としての欠陥品。
長い間自身の死があまりにも身近にあり過ぎたために、世間一般の死というものに対する感覚までが麻痺してしまったのか。
「そんなこと⋯⋯」
慰めでも気休めでもいい、何か言葉をかけたくて京が口を開いたとき、ふたりは遠くから近付いて来る人の足音に気付いた。
「やべっ」
身を隠そうと、京は腰を浮かせる。
「どうした」
「あ、いや⋯⋯」
自分の行動を訝しむ庵に詳しく事情を説明している暇はなかった。しかし身を隠す場所もない。
――万事休す。
京が観念してぎゅっと目を瞑ったところで、ふたりの背後の障子が開いた。
「お兄様、そろそろ替わりましょう」
そう言いながら顔を覗かせたのは、庵と火番を交替するためにやって来た都だった。彼女は京の姿を見留(みと)め、あら、という表情になる。都の両目は、泣き過ぎたせいか、まだ薄赤く腫れていた。
「お邪魔、してます⋯⋯」
都の顔を見上げ、急に畏まって頭を下げる京に、彼女は小さく吹き出す。それに釣られたのか庵も少し頬を緩めた。
「また裏の垣根を越えて入られたのですか?」
京には、かつてその方法でこの屋敷に忍び込んだという前科がある。そのことを指摘する都の声音は笑いを含んでいたが、しかし京を揶揄っている訳ではなかった。
「うん、まあ⋯⋯」
首筋を掻きながら困ったように京が答えると、
「京、そんなことをしていたのか?」
てっきり正式に訪問したのだとばかり思っていた庵は、咎める口調で男を見遣る。
「俺がいると何かと面倒じゃん?」
京は悪びれず、そう言い訳した。
宗家の当主が居残っていては、たとえそれが京の本意でないにしても、否応無く分家である八神家の人間に気を遣わせてしまうことになる。それを懸念した京は、通夜には参加しないことを予め伝えて、焼香を済ませた後一旦この屋敷を離れた。そして最寄りの道の駅で時間を潰し、家人に気取られないよう、ふたたび今度は忍んで来たのだ。
だから今夜はこっそりおまえの部屋に泊めて欲しいんだけど、と付け加えた京に、
「呆れた奴だな」
先の不審な挙動の理由も理解した庵は、いつの間にか戻って来ていた普段の口調でそう言った。
「今日はお疲れでしょうから、ゆっくりお休みになって」
通夜の方はもういいから、との都の言葉に送られて、ふたりは庵の部屋へ引き上げた。
離れにある庵の部屋にふたつの布団を並べて敷き、しかし、ふたりはどちらからともなくひとつの布団に身を伸べた。
ふたりきりになってしまうと、また、先程感じ取った沈んだ空気が庵の周囲に漂っていることを京は強く意識させられる。抱き寄せる京に逆らわず、大人しく彼の腕の中に収まっている庵は、胸元に鼻梁を押し当てて目を閉じ、身動ぎもしない。が、彼が眠っていないことが京には判っていた。だから、いつもなら先に寝入ってしまう寝付きのいい京が、敢えて眠らず起きていて、さっきからずっと庵の髪を撫で続けている。
そうして半時も過ぎただろうか。それでもまだ眠った気配のない庵に、
「眠れないのか⋯⋯?」
髪を慰撫する手は休めないまま、京が囁くような声で尋ねた。
「⋯⋯⋯⋯」
庵は目を開け、京の顔を見上げるように顎を上げる。そして、
「都は⋯⋯」
と、呟いただけで言葉を途切らせてしまう。
「都ちゃんがどうしたって?」
何でもない口調で先を促すために問い返した京は、身を寄せ合っている庵の背を軽く叩いてその切れ長の瞳を見詰め返した。
庵がポツリと言った。
「都は⋯⋯あいつは⋯⋯ずっと泣きっ放しだった」
庵の言ったとおり、この日、都は人前であることも憚らず、嗚咽を零して泣き続けていたのだ。実の父親が突然この世を去ったのである、だからある意味それは自然なことだっただろう。しかし庵はそうは考えなかった。
「なのに俺は⋯⋯」
庵は我が身を振り返る。
「もう考えるのよせよ」
庵の言葉の先が容易に想像できるから。京はその続きを言わせまいと、会話を切り上げにかかる。
「だが⋯⋯」
「今日はもう遅いんだし。そうでないと明日おまえが辛いだろう?」
明日もまだ、喪主としての庵には、しなければならないことが幾らもあるのだ。
「⋯⋯⋯⋯」
もの言いたげに視線を泳がせる庵に、京は邪気のない触れるだけのキスをする。庵が拒絶するなら、勿論それ以上のことをするつもりはなかった。
ただ――。
その重い思考から庵の意識を逃がしてやりたい。忘れさせてやりたい。その一心で。
多分『それ』を考え口にするのは、庵にとって必要なことであるのだろう。京にもそれは解っている。でも、今はまだ意識させない方がいい。もっと時間を置いて、建設的に物事を考えられるようになってからであれば、いくらでも聞いてやれるけど。
だから、今は――。
唇を解放し、京は腕の中の庵の表情を伺う。庵自身迷いがあるのか、彼は困惑の表情で京を見つめている。
「もう寝ようぜ」
ふたたび就寝を促して、京は庵の躰を抱き直す。と、それまで庵の胸元に折り畳まれていた彼の両腕の内の一本が、京に向かって伸ばされた。京は迷わずその手を取る。
「おやすみ、庵」
「⋯⋯おやすみ」
五指をしっかりと絡め合って。
ふたりはそのままの態勢で、いつしか眠りの淵に沈んでいた。
明け方、かなり早い時間に京は目覚めた。しかし昨夜抱き締めて眠った筈の庵の姿が腕の中にない。うつ伏せの姿勢のまま布団の中で顎を上げ、京は枕元に置いた自分の腕時計を見遣る。起き出すにはまだ早過ぎる時間。庭に面した廊下を隔てる障子の向こうはひどく明るいが、それは朝陽のせいではなく、庭一面に降り積もる雪のせいだろう。外の景色が判るということは、昨夜閉めた雨戸がもう開けられている証拠だ。家人は皆、既に起き出しているのだろうか。
――庵の奴、トイレかな⋯⋯。
まだ半覚醒の寝ぼけた頭でそんなことを考え、京は耳を澄ませてみた。が、一向に足音は聞こえて来ない。一旦意識し始めると急に不安になった。京は布団から抜け出し、庵に借りた夜着の上から自分のダウンジャケットを羽織って障子を開ける。早く庵の姿を目にして安心したかったのだ。
部屋を出て廊下に立つと、真っ白に雪の積もった庭に佇む庵の後ろ姿が目に飛び込んで来た。上着も羽織らぬその寝間着姿の異様さに気付くと同時に、彼が裸足だと判って、
「いお⋯⋯ッ」
叫びそうになった自分の口を、京は慌てて自らの手で塞いだ。危うく家中の人間を起こしてしまうところだった。
――何やってんだ!!
ともかく自分も庭へ出なければ。しかし庵の元まで行こうにも、縁に履物が見当たらない。
仕方なく京は庵の部屋に置いておいた自分の靴を急いで取りに戻り、それを履いて庭に下りた。飛び石の位置も判らなくなるほどの深い雪に足を取られながら、どうにか転ばず庵の側まで歩み寄る。
「庵⋯⋯その足! ⋯⋯靴はどうしたんだよッ」
押し殺した声で、それでも必死に言い募る京の言葉が聞こえていないのか、庵は精気の薄いぼやけた表情であらぬ方向を見遣っているだけだ。
薄着の肩を抱き寄せれば、一体いつからこの場にいたのかを詰問したくなる程に冷え切っていた。
「いおり⋯⋯」
温かな腕に包まれて耳元で囁かれ、漸々庵が京の存在を認識する。
「ああ、起きたのか⋯⋯」
そんな的外れな言葉だったが、それでもやっと返って来た庵からの反応に、京は一先ず安堵に胸を撫で下ろす。
京の腕の中に収まったまま、不意に庵が言った。
「以前、おまえに母の話をしたことがあったな」
「ああ」
覚えている。それは大蛇が斃された少し後のことだ。
『おまえは狂人を見たことがあるか』
そんな言葉で始まった庵の昔語りはあまりに衝撃が大きくて、京には忘れようにも忘れられない内容だった。
庵がこの世に産み落とされるひと月程前のこと、臨月を迎えた彼の母・八神家の先代は発狂した。
胎児が男であったなら、その子には運命づけられた死が与えられる――。
そのことを知っていた女当主は、己の胎に息づく児の性別が判明したその日、狂人となったのだ。
自然分娩を望めないという周囲の判断で、次期八神当主の座に就く第一子のその男児は、母の腹を切って取り出されることになる。そうやって、この世に生を受けた赤子が庵だった。
庵は、かつて八尺瓊一族が大蛇一族と結んだ血の盟約の破棄を目的に、死を義務づけられて生まれて来たのである。
しかし、その運命づけられた死から、大蛇を斃すという手段で以て――それが意図しないことだったにせよ、結果的に――庵の生命を救ったのが京だ。
庵がとつとつと語り始めた。
「幼い頃、俺には入ることを許されていない場所があった。それが⋯⋯あそこに、」
と、朝日の昇る方角を指さし、
「茅葺きの屋根が見えるだろう? あの建物⋯⋯東の離れと呼ばれる場所だ⋯⋯」
そこに誰かが住んでいるのだということには、幼いながら庵も薄々気付いていた。毎日決まった時間に膳が運ばれて行くし、衣類の行き来もあったから。そしてその着物の形や柄から、そこで生活しているのが既婚の女性であることも推測できていた。
いつの頃からか、庵はその離れへ行ってみたいと思うようになった。大した理由はなかったのだろう。子供故の好奇心だったのかも知れない。
その離れへ行くためには、使用人の控える部屋の前を必ず通らなければならなかった。だがその部屋には絶えず数人の使用人が詰めていて、まず間違いなく途中で見つかってしまう。望みを完遂することは困難だった。
「いくつの時だったか⋯⋯俺はこの庭伝いにその部屋へ近付くことを思いついた」
そして、
「雪の吹雪く日に、それを決行したんだ」
それは誰も庭へ出ようなどと思わないような、寒い寒い冬の日だった。日頃大人たちの言い付けに柔順な庵が、よもやそのような行動に出るとは誰も想像出来なかったことだろう。常に庵の側にいた目付役も、その日は、彼の挙動に殆ど注意を払っていなかった。それを幸いに、庵は大人たちの目をうまく盗み、事前に見つけておいた垣根の壊れた場所から、子供ひとり、やっと潜(くぐ)り抜けられるくらいの穴を通って、ついに離れの庭へ侵入することに成功したのだ。
そのとき、自分が何を期待して小さな胸を高鳴らせていたのか、今となっては庵本人にも思い出せない。ただドキドキと、厳しい稽古を終えた後のように激しく脈打っていた己の心臓の音だけは、今でもはっきりと覚えている。
垣根にひっかけたせいで髪は乱れ、雪にも塗れ、全身を白く染めたまま、庵は狭い庭を突っ切って離れの縁から屋内へと這い上がった。使用人が出て来ないよう祈りながら、迷うことなく奥の部屋を目指す。この離れの造りが、対である西の離れと同じ構造だということは予想していたから、離れの住人がどの部屋にいるのかも、庵には大体の見当がついていたのだ。
そして――。
奥の部屋の障子を開け放った庵は、そこで若い女の姿を見た。冬だというのに女は襦袢しか身に着けておらず、その着衣の真っ赤な色と赤く染められた髪が、明かりも灯さぬ薄暗い部屋の中で庵の目を刺した。
闖入者に気付いたのか、目の前の情景の異様さに言葉もなく立ち尽くしていた庵の側へ、女が這うようにして近付いて来た。あどけない、子供の笑顔で庵の瞳を覗き込んだ細面の色白な女の虹彩は、
「俺のそれと同じ、血を薄めたような朱い色で⋯⋯」
それは薄暗い部屋の中でも、なぜかはっきりと判ったのだ。その眼に射竦められて、庵は総気立ち、身動ぎすることも出来なかった。
「怖かったんだ」
目の前の女の様相と室内に満ちるただならぬ気配に、当時庵の胸裡に沸き起こったのは恐怖という感情。
「実の母親を見て、俺は怖いと思ってしまった⋯⋯」
「おまえは知ってたのか⋯⋯? それが自分の母親だってこと」
庵は首を横に振る。
「母は俺を生んですぐに死んだと、教えられていたからな」
「だったら⋯⋯!」
――それは仕方のないことではないか。
しかし、言い募ろうとする京の言葉を遮って、
「俺は気付けなかった。それが俺の母だと」
感情の死んだ庵の声が続ける。京は口を噤んだ。庵はいま反論を望んでいない。
『遊ぼう?』
おさなごの声音で女が言った。そして、
『名前は? 名前は何て云うの?』
女の瞳に魅入られ、教えて欲しいと乞われるまま、虚ろな思考で庵が己の名を舌に乗せた直後、
『――――――!』
女は聞くも悍(おぞ)ましい絶叫を放ち、その細い両腕のどこにそれ程の力があったのかと驚かせるような強さで、庵の躰を突き飛ばした。自分の背中が障子の枠にしたたかに打ち付けられる痛みを感じ、獣の咆哮のような女の声を聞いたのを最後に、庵の記憶は途切れている。
次に気が付いたとき、庵は母屋の自分の部屋で布団に寝かされていた。異様な声と物音とを聞き付けて駆けつけた家の者が、離れの奥で倒れていた庵を発見し、母屋まで連れ出したのだ。
庵の幼すぎた精神は、口を利くことも出来ない程の強い衝撃を受けており、その後、彼は高熱を出して数日間寝込んでしまった。
「今ならあの絶叫の意味が俺にも解る。母にとって俺は、忌むべき存在でしかなかったのだろう」
『いおり』
それは恐怖の――望まないものの象徴。
それはわたしを不幸にする赤子の名。死を望まれて生まれ出ずる、我が息子の⋯⋯。
京の腕の中に、庵は淡々と言葉を落とし続ける。
「それから更に数年経って、八神の家から葬式を出すことになった」
遺影のない奇妙な葬儀だったと庵は記憶している。外部(そと)からの弔問客はひとりもなく、まるで密葬だった。
「どうしてなのかは判らない。だが⋯⋯かつて見たあの若い気狂いの女が死んだのだと、俺は悟った」
それは直感。そして彼女が自分の実母なのだと、そのとき庵は唐突に理解した。その直感が確信に変わったのは、喪主の座についた父の姿を見たときだ。
死者は先代。そして己の母。
だがそれを知ったときも庵は涙を零せなかった。そんな自分がひどく疎ましかった。
「俺が男でなかったら、母は発狂などしなかった」
悔いる気持ちだけは確かに存在するのに、悲しむことが出来ない。哀しいという気持ちが解らない。
「あんな若さで、あんなふうに死ぬこともなかった」
おそらく薬漬けの生活をしていたからだろう、火葬場で拾おうとした骨は箸で摘まんだ先から跡形もなく崩れ、骨壷に収められたのはただの白い粉だった。
「母を殺したのは、俺だ」
「⋯⋯⋯⋯」
昨夜、義父の葬儀を営みながら庵が想いを馳せていたのは己の非情さのことだけではなく、そこから呼び起こされた過去の記憶――若くして死んだ庵の唯一の肉親である母のこと――だったのだと、このとき京はようやく理解した。
何と声を掛ければいいのか判らず、京は庵を抱く腕に力を込める。そして、
「もう部屋(なか)に入ろうぜ? な、庵」
やっとそれだけを口にした。
屋内に戻っても、凍え切った庵の躰は容易には体温を取り戻さなかった。特に裸足のまま雪を踏んでいた足先は、放って置けば凍傷になるのではないかと疑う程で、京は湯を貰って来るべきかどうか判断に困る。けれど、自分の存在が家人に知られることも勿論だが、それ以上にいま庵を一瞬でも独りにすることが躊躇われ、結局京は自分の手のひらで暖を与えようと試みた。
躰が暖まるまで出てはいけないと京に諭されて、庵は布団の中に押し込まれている。その庵の足元に座り、布団の中へ手を差し入れて、暖めようと手のひらで包み込んだ爪先だったが、ふとあることを思いつき、京は手にしたそれを少しだけ持ち上げた。
「京?」
何をするつもりなのかと不安そうな声を出した庵の足の指先に、生温かく濡れた感触。驚愕に目を見開いた彼の視線の先には、布団から僅かに覗いた庵の足指を口に含んでいる京の姿があった。
「⋯⋯っ」
庵の足指は京の口腔に誘い込まれ熱い舌に包まれて、一本一本丁寧に温められて行く。無体に抗うことが出来ず、庵は小さく震えながら必死にその行為に耐える。
すべての指を温め終えて京が彼の足を解放した頃には、爪先だけでなく庵の躰全体が熱を取り戻していた。
「京ッ」
押し殺した、しかし切迫した声が京のそれ以上の行為を制す。
「いやか?」
顔を上げ、庵の表情を窺う京に、
「やめろ⋯⋯」
嫌だとか良いとか、そういう問題ではないだろう。
「どうして」
庵の戸惑いを他所に、
「ほら、おまえだってその気になってるくせに」
そう言ったときには既に、京の悪戯な指が熱の中心に伸ばされて、庵の微かな変化を確かめていた。
「⋯⋯っ」
庵は唇を噛む。あんな愛撫を施されて、その気になるなというのが土台無理な注文ではないか。昨年末から今日まで触れ合うこともなかった自分たちなのだ。躰も心も飢えていて当然だった。
「こ、の、節操ナシがッ!」
悪態を吐いて睨みつける庵のまなじりが朱に染まっている。それは庵が感じていたという証拠。
「物足りないってカオしてる⋯⋯」
「誰のせいだと⋯⋯っ」
尚も喚こうとする男の口を、京は自らの口で塞いだ。そしてすぐに口吻けから庵を解放し、
「否定しないんだ?」
きわどい台詞を吐いたのに、それを否定しない。それどころか肯定さえしてしまう彼が潔くて、京はわざわざ言葉で確認してしまう。
「⋯⋯言うな」
逃げ場を無くした庵が俯く。
「けど、しっかりあったまったろ?」
「貴様⋯⋯言うに事欠いて⋯⋯」
怒りよりも呆れを多く含んだ声が、俯いたままの庵の口から溜息と共に漏れた。
京のしたことを庵が本気で詰れないのは、それが、過去の記憶から自分の意識を逸らさせようと意図した結果だと気付いているからだ。
「いおり⋯⋯」
名を呼ぶことで庵に顔を上げさせ、京はもう一度唇を合わせた。そして今度は舌先を伸ばしてその先を誘う。閉じていた庵の歯列が上下に開き、京を招き入れる。京のシャツの背を握る彼の手は、拒絶ではなく享受を示す仕種。が、京にはこれ以上事を進める気はなかった。
「続きは帰ってからにしようぜ」
約束をひとつ。
ここに残していこう。
そうすれば、庵に、あの部屋に帰らなければならぬ正当な理由が出来るから。
庵が躊躇いを、戸惑いを抱えたままでも。養父のために涙を流せなかったことに罪悪感を感じ、更に一族を残して、この家をふたたび離れる自分の我儘を許せないと思っても。
――おまえは帰って来られるだろう?
「⋯⋯いいのか、おまえはそれで」
「それ以上は反則」
それ以上言われたら止まれなくなるからな、と言葉の先を切り捨てて、
「まだおまえにはこっちでやんなきゃいけないこと、残ってんだから」
しごく真っ当な返事をし、京は庵の躰を離す。庵の顔から、前(さき)に庭で見せたような危うさはもう消えていた。そのことを確認して京は帰り支度を整え始める。
「初七日を過ぎたら一旦帰るつもりだ」
自らも衣服を着替えた庵は見送りのために庭へ出て、目の前の垣根の向こうへ荷物を放り投げた京に、帰りの予定を伝える。
「解った。帰って来るときには連絡してくれよ? さっきの続き、楽しみにしてるから」
そう言って京はニヤリと笑う。
「⋯⋯随分と長いお預けだな?」
片頬を歪めて笑い返した庵の首を、
「そいつは俺のセリフだろ」
京はやんわりと引き寄せ、
「じゃ、おまえの部屋で待ってる」
約束だからな、と今度は真顔で耳元に囁くと、次の瞬間にはもう垣根を身軽に飛び越えて、表の通りへ綺麗な着地を決めていた。
2000.10.13 脱稿/2023.08.12 微修正
・初出:無料配布本『雪の日の庭』2000.10.15 発行