『続・真冬の花火』 ※本編『真冬の花火』読了後にお読み下さい


「じゃあ庵、そろそろ出掛けようぜ」
 そう言って、京が座っていたリビングのソファーから立ち上がったのは、俺が作った夕食をふたりで摂って暫く経った頃だった。
 俺はクローゼットのある寝室に入ってコートを手にした。右のポケットに或る物が入っていることをこっそり確かめ、素知らぬ貌でリビングに戻る。その間に、京はダウンジャケットに袖を通し、ショルダーバッグを肩に掛けて待っていた。
「待った!」
 黒のカシミアのロングコートを着て、そのまま玄関へ向かおうとする俺を京が呼び止める。
「駄目だって、マフラーもしとかねーと」
 言いながら、リビングのロウテーブルの上に出したままになっていた俺のマフラーを手に近付いて来て、
「ほら、おまえ寒がりなんだからさ」
 そんなことを言いながら、俺の首にそれを掛ける。俺はされるがままだ。
 アンゴラ素材のそのマフラーは、京がどうしても欲しいと言ってこの冬俺に買わせた物だった。誕生日でもクリスマスでもない日に、こいつは何をねだるのだろうと不審には思ったのだが、ヤツがマフラーをしている姿を見たことが無かった俺は、それを京がマフラーを持っていないからだと判断し、ならば望み通りにしてやるのも悪くないと考えた。これからどんどん寒くなるのだし、京はバイクの愛用者だし。だから京の選んだ一枚を素直にレジに持って行った。
 そうしたら横から京が口を出し、包装はいらないと言いだした。すぐに使うから値札を外して欲しいと要求を追加して。
 何だかよく解らなかったが、俺は金だけ払って後は京の好きにさせた。どうせ京の物になるのだから、と。
 ところが。
 買ったその日のうちに、そのマフラーは俺の物ということになっていた。そのときも、店から出た俺の首に、京はそれを巻き付けたのだ。
 どういうつもりなんだと問い質せば、おまえに似合うと思ったんだよ、と一言。
 ヤツは最初から俺に使わせるつもりだったらしい。俺は京にも似合うと思ったんだがな。そのマフラーは、目が覚めるように鮮やかな紅い色をしていたから。それが京の好む色だということも俺は知っていたし。
 俺の首にマフラーを巻いてしまうと、
「手袋は持ったか?」
と、京が訊いた。
 俺は短く答える。
「いらん」
「なんで。今夜も冷えるぞ?」
 どうせ手を繋ぎたいと言い出すくせに、とは胸の裡でだけ呟き、
「ポケットで充分だ」
 そう返した。
「それより火種は持ったのか?」
「いらねぇだろ。俺たちにそんなもん」
 京がこれ見よがしに指先に紅い炎を小さく点したのを見て、ああ、そうだった、と俺は苦笑する。
 オロチとの一件に片が付いてから、俺や京が試合以外の場で炎を使う機会はめっきり減っている。特に俺の場合は京が露骨に嫌がるので、日常生活の場面であの蒼い炎をこの手に呼ぶことは、殆ど全くと言っていい程なくなっていた。あの炎を見ると、もう俺の生命を削らないと判った今でも、京は過去の苦い記憶を刺激されて嫌なのだと言う。命を縮めながら自分のことを追い掛けていた俺の姿を思い出すのが辛いらしい。気付けば京の見ていないところでも、それを使うことを控えている自分がいた。おかしなものだ。
「じゃあ行くか」
 玄関先に用意しておいたバケツを片手に、今度は俺が京を促し、俺たちはふたり一緒にマンションの部屋を出た。





「うへぇ~、やっぱ寒いわ!」
 マンションのエントランスを抜けて一歩外へ出るなり、京は白い息でそう言って首を竦める。そして俺のコートのポケットに、いきなり右手を突っ込んで来た。
 京も手袋はしていない。その手で、ポケットの中に入れていた俺の左手を握った。俺とさほど変わらない大きさの肉厚な京の手は、俺の手を甲の方から包み込む。
 ――ほらみろ。
 ここで俺が手袋などしていようものなら、興醒めだとか何とか、文句を言ったに決まっている。正直なところ、バケツを提げている右手は剥き出しで冷たいのだが、俺は京に気付かれぬよう我慢していた。目指す公園はすぐそこだ。
 そう、すぐそこ。
 だから。
 俺はポケットの中で、京の右手から強引に自分の手を逃がし、京が抗議の声を上げるよりも先に、手のひらを合わせて握り返してやった。
「!」
 京が驚いた表情をして俺の顔を見たが、敢えて視線も合わせず黙々と歩く。京が微笑ったのが、視界の端に見えた。
 公園の入り口は、本当にもうすぐそこだ。





 さすがに冬の夜、こんな狭い公園には人影もなく、花火の用意を始めた俺たちを見ている者は誰もいない。
「良かったな、風がなくて」
 京がバッグの口を開けながらそう言った。あまり風が強いようだと、打ち上げ花火は上手く飛んでくれない。京はそれを危惧していたのだろう。俺はその言葉に頷いて見せて、水飲み場で、持って来たバケツに水を汲む。これで火の後始末の準備も万端だ。
 京がまずはお子様用の花火セットの袋をバリバリ破った。そのゴミがどこかへ行ってしまわないよう、京はそれらをすぐにバッグの中へ押し込む。こういうところで京が几帳面になったのは最近のことだ。いつだったかそれを指摘したら、おまえが口煩いからだ、とヤツは俺に向かってそう云っていたが。俺の教育の賜物ということらしい。
「やっぱ打ち上げは最後にやんねぇとなあ?」
 そんなことを言いながら、京は打ち上げ花火の入った缶を横によけ、
「じゃ、始めますか」
と、陽気に俺に笑いかけた。京が花火を一本手にする。俺もそれに倣った。
 専ら火付け役は京だった。
 次から次へと俺に花火を持たせ、その先端に指先から火を移す。慣れているのか、少しも危なげのないその手付きを俺は正直意外に感じながら、素直に器用だと思った。指を引くタイミングが早過ぎれば火はつかないし、あまり悠長に構えていては逆に吹き出す火花で火傷してしまうのに。
「おまえはいいのか?」
 火をつけるばかりで、最初の一本以降、花火を手にしない京にそう問えば、
「見てるだけでいい」
 なんだからしくないことを言われてしまった。こういうことをするのが好きなヤツだと思っていたのだが、それは俺の勘違いだったのだろうか。
 京はただただニコニコして、俺の横顔を見ている。妙にこそばゆい。
 俺の手の先で、シューッと音をたてて吹き出す青や赤や黄色、緑の炎たちは、俺や京の操るそれとは違って、余裕がなかった。まるで生き急いでいるように勢い良く炎を吐き出し、あっと言う間に消えてしまう。なんだか少し淋しい。だから、手にした花火をくるくると振り回しながら、
「一本ずつではつまらんだろう?」
 だからおまえもやれ、と俺が催促すれば、だったら、と京は俺にまとめて数本の花火を両手に持たせ、それらすべてに一度に火をつけた。
「これならいいだろ?」
と、京は笑う。
「ああ。これならいい」
 俺は急に豪華になった視界の様子に嬉しくなった。自然と笑みが零れる。やっぱりこういう花火はまとめて火をつけた方が、綺麗で華やかで楽しい。
 ――楽しい⋯⋯?
「⋯⋯⋯⋯」
「どうした? 庵」
「いや、なんでもない」
 俺は笑みに口元を緩めたまま、ふるふると首を振り、残っていた花火すべてを手に取った。京の買って来た手持ち花火はこれで後わりだ。
 そして最後に残ったのは、別の缶に入っている打ち上げ花火、五本。
 京がその筒を五本、等間隔で地面に並べた。それから、その様子を見ていた俺を振り返り、火をつけてもいいか? と表情で問うので、俺も口は開かず、肯定するために顎を引く。それを見た京は、五本の花火に順に全部に火をつけた。



 ヒュ――――――ン!

 真冬の冴えた空気を切り裂いて、ロケット花火が打ち上がる。

 ヒュ――――――ン!

 流石に尺玉のような華麗さや派手さはないが、俺たちにはこれくらいが似合いのような気がした。

 ヒュ――――――ン!

 飾り気のない潔さ。

 ヒュ――――――ン!

 そのシンプルさを、俺は素直に好きだと思った。

 ヒュ――――――ン!

 立て続けに五発。

 先に打ち上げられた光の軌跡を追い掛けるように、そして星を掴もうと言うように。
 夜空に向かって伸び上がった光の筋は、俺の目蓋の裏に眩しい残像を焼き付けて消えて行った。
 夏には大勢でする賑やかな花火が相応しいのかも知れない。
 でも今は冬だから。
 こんなに澄み切った夜空に打ち上げるのなら、空を焦がすようなそれよりも、空を目掛けて飛び込み突き刺さって行くようなのがいい。
 夜空を見上げたまま大きく息を吸えば、周囲にけぶる火薬の臭いが鼻孔を刺激する。あの日、俺の胸を締め付けたのと同じ臭いの筈なのに、いま俺の周囲に漂うそれは、俺の胸の裡に暖かく柔らかく満ちる。この先またいつかこの臭いを嗅ぐことがあっても、俺はもう二度とあのときのように、心臓を掴まれるような苦しさを感じることはないだろう。
「ちょっと呆気なかったかな」
 俺の横に並んで立ち、やはり夜空を見上げていた京が、苦笑いを含んだ声でそう言った。
 俺は小さく首を振る。
「そんなことはない。これくらいが丁度いい」
 ――ふたりきりでする花火なら。
 呟いた俺を、優しい光を宿した半月が、静かに見下ろしていた。





「京、ちょっと待ってくれ」
 まだ熱の残るロケット花火の筒を拾い上げ、バケツの中に放り込んで帰り支度を始めた京に、俺は少し慌てて声をかける。
「まだあるんだ、花火」
「え?」
 訝しむ貌を見せた京に、俺はコートの右ポケットに入れていた物を差し出した。それは、この日、京が留守にしていた間に、ひそかに手入しておいた線香花火だった。藁のような素材の細い本体の先の方にだけ火薬のついた、おそらく花火の定番中の定番。この季節でも、問屋に行けば花火が手に入ると教えてくれたのは昨夜の京だ。
「おまえ、いつの間に⋯⋯」
 京がなんとも形容し難い貌をして笑った。少し泣き笑いのようにも見える。
「じゃあ最後はコレだな」
 今度は間違いなく笑顔だとわかる貌になって、京が線香花火の袋を開けた。
「庵、コレさ、十本全部、一回も火をつけ直さずに最後まで燃やせるかって⋯⋯やんなかった?」
「⋯⋯俺はやったことがないな」
「じゃあ今から挑戦してみようぜ」
 京は屈託のない笑顔でしゃがみ込み、
「まずは庵からな」
と、俺に一本持たせ、その先端に、掠めるようにして指先で火をつけた。
 ジジジジ⋯⋯と優しい音をたててオレンジ色の筋が広がる。シナプスのような触手を四方に伸ばしては引っ込める、そのせわしない動作がなんとも間抜けで愛らしい。その様は、なにか小さな生き物が、必死になって動き回っているようにも見え、微笑ましくも可笑しくもある。それを見ていると、ひどく気持ちが和んだ。
 京もきっと同じような気持ちになっているのだろう。そっとその顔を盗み見れば、京の目が優しく細められていた。
「京」
 俺は花火の燃え具合を見て、短く京に声を掛ける。
「わかってるって」
 弾んだ声で応じ、重力に従い、塊になって落ちようとするオレンジ色の熱の塊を、待ち構えていた京が新しい花火で受けた。上手く先端で捕らえることが出来ず、真ん中あたりから火花が散り始めてしまったが、これはまあ仕方ないだろう。
 俺は新しい一本を手に、次の瞬間を待つ。
 そんなことを飽きもせず、呆れるくらい真剣な貌をして、俺たちは最後の一本まで繰り返した。
「あー、これでホントに終わっちまうな⋯⋯」
 十本目の線香花火を手にした京が、あまりにも残念そうな声でそう言ったから。
 ――終わる瞬間を見なければいい。
 花火に気を取られている京に、俺は何の前触れもなく口吻けた。京の肩がビクリと震えた。驚いた京は、目を見開いている。俺は唇を触れさせたまま目蓋を伏せた。
 今の振動で、きっと最後の火種も地に落ちてしまったろう。
 けれど。
 今はまだ。それを見ていないから。確かめてはいないから。
 あのオレンジ色の柔らかな、伸びて行く葉脈のような光は、いまも弾け続けている。俺たちふたりの胸の中で。



 ずっと、ずっと⋯⋯。



2000.08.05 終/2018.11.01+2020.09.12 微修正 



 本編『真冬の花火』を読み、お部屋で花火をして下さったという話をお聞きして『Private EDEN』の日向 葵さんに献上したもの。
 SCC18内にて開催された庵受プチオンリーへ参加するにあたり、HLLシリーズの再録本のおまけとしてコピー本にし、当日のイベントでのみ頒布。