そのとき彼の拳をまともに受けて、男の背には酷く醜い傷痕が残った。蒼い炎を失うことの、それが代償――。
――二度と握れない拳なら。
そう言って、男は自ら腕を潰した。
二度と再び闘いの舞台にはのぼらない。
二度と再び彼(か)の男の前に姿は現さない。
「紅丸がさ、最近あいつのこと見かけたらしい」
平日真昼のカフェは空いていた。一組の男女が、梅雨の晴れ間のオープンテラスでテーブルを挟んで向かい合っている。
「ちょっと話もして⋯⋯元気そうだったって」
「そう」
女が安堵の表情で頷く。
「けど、あいつ、長袖の服着てたって云うんだ」
「⋯⋯⋯⋯」
折しも季節は蒸し暑い梅雨。
話題中の男が、かつて袖のない衣装を好んでいたことを、男も女も知っていた。
「腕のね、このあたり、」
と、女は自分の右の二の腕の中程を指して、こう言った。
「このあたりにまで、残っているそうなの」
――ケロイドが。
彼は怪我を負った後しばらく、彼女の屋敷で療養していたため、女はそのことを知っていた。
「⋯⋯一生消せないのか?」
現代医学を以てしても、それは不可能なことなのだろうか。整形の技術などは、近年目を瞠る勢いで向上していると聞く。ならば、あの男のそれも⋯⋯。
「適切な処置ができていれば、もう少し綺麗に治った筈なのだけど⋯⋯」
女は言葉を濁す。
「無理だよなあ、あんな混乱の最中(さなか)じゃあ、ロクな治療なんか⋯⋯」
望むべくもないことだ。
男は溜息をついた。
苦い記憶。
重い沈黙。
「それじゃあ、わたし、そろそろ行くわ」
女が伝票を手に立ち上がる。
「そうだ、おまえ何の用で上京してたんだ?」
「大会スポンサーへのご挨拶」
夏はすぐそこまで来ている。もう、そんな季節なのだ。
「あなたの今年の活躍も楽しみにしているわ」
女はそう言って男に背を向け、歩きだす。その長い黒髪の後ろ姿は、じきに雑踏の中へと紛れた。
『無理だよなあ、あんな混乱の最中じゃあ、ロクな治療なんか⋯⋯』
「そうじゃないのよ、草薙」
女は雑踏の中で呟く。
「それは、彼が望んだことなの」
わざと痕が残るように。
一生消えることがないように。
「彼の気持ち、あなたに解るかしら⋯⋯?」
2000.07.10 終
『痕』 またの名を、『片恋』
・サイト『Freezing Point』のShin様へ献上