『チョコより甘いキス』


 正月用ディスプレイの門松飾りなどが店頭から姿を消すと、それらと入れ替わるようにして、街中はバレンタインモード一色になる。この時期が訪れると、たいていの製菓店では店舗先に特設コーナーが登場し、いわゆるバレンタイン商戦と呼ばれる、売上促進作戦の幕が切って落とされるのが近年の傾向だ。日を追って盛り上がりを見せる熱戦の、今年2000年の正念場は、バレンタイン本番を目前に控えた三連休だった。
 その三連休が明け、バレンタイン当日は月曜日。
「あ、八神? 俺おれ、二階堂だけど」
 庵の携帯に紅丸が出先から電話を入れたのは、その日の朝のことだった。
『⋯⋯うー⋯⋯』
 低血圧の庵は、べらぼうに朝が弱い。そのことを知っている紅丸だけに、電話から聞こえてきた低い唸り声には、こらえようのない苦笑いが込み上げてしまう。
「ゴメンなー、こんな早くから」
 いちおう断りを入れる紅丸だが、早く、と言っても、午前10時を既に回っていたりはする。
『⋯⋯⋯⋯⋯』
「八神、聞こえてる?」
 電話の向こうの沈黙がいつ寝息に変わるかと、正直紅丸は気が気ではない。
『あ、ああ⋯⋯大丈夫だ⋯⋯』
 頼りないながらも言葉らしい言葉が返ってきたので、紅丸はここで用件を切り出すことにした。
「京のことなんだけどさ」
『きょう⋯⋯』
 庵の気配を耳で確かめながら、紅丸は話をつづける。  
「うん、今朝ウチに電話があって」        
『⋯⋯ヤツが、どうか、したのか』
 ぼんやりとした口調だった庵の言葉が、時間の経過につれて少しずつ明確なものに変わってくる。
「や、なんかさー、カゼひいたらしいんだわ」
 昨日までの三連休を、バイト仲間とのスキー旅行に費やしていた京は、どうやらその道中にタチの悪い風邪菌を貰ってしまったらしい。
『風邪? 京が、か?』
 わりと意識がハッキリしてきたらしい庵の、その意外そうな声色に、俺もビックリしたんだけどさ、と紅丸は同意しつつ、
「それが結構ヒドイらしくて、熱出たとか言ってて」
 さらに詳しく京の状況を伝えると、はーっ、という肺を空(から)にしそうな深い溜息のあと、馬鹿が、と吐き捨てる小声での毒舌がつづいた。
「八神ィ、カゼひいたってことは、バカじゃなかったって証拠だろ?」
 紅丸は笑って混ぜ返す。
『アレはただの馬鹿ではない』
 庵の重低音が聞き取れず、
「え? なに?」
と、訊きかえした紅丸に、庵は言い直すことはせず、
『奴は大馬鹿だ』
 そう答えた。
「ひっでぇーっ」
 庵に対する悪態をつきながら、しかし紅丸は腹を抱えそうな勢いで大笑いしている。そうやって気が済むまで笑い続けてから、
「俺今日は予定詰まっててダメだから、おまえ時間あるんなら、ちょっと様子見に行ってやってくれないかと思ったんだけど」
と、彼は当初の目的を果たすべく、一気に残りの用件を庵に伝えた。
『そういうことか』
 解った、という、みじかい了承の言葉を最後に電話は切れる。
「後はうまくやれよー?」
とは、紅丸の独り言。つぎの瞬間、彼は通りの向こうから早足で近づいてくる待ち合わせ相手の女性の姿を見つけ、魅惑的な笑みをつくって片手を挙げた。






 玄関のドアがノックされる音に気付き、京は布団から跳ね起きた。彼の住む学生アパートには、インターホンなどという文明の利器は備わっていない。内部は、玄関を入っていきなり現れる、みじかい板張りの通路が奥の6畳間の和室へと続き、その通路の両側に、申し訳程度の小さなキッチンとユニットバスがあるという、典型的なワンルームの造りだ。
「いおりっ!?」
 内側から勢いよく開けられた扉に顔面をぶつけそうになって、ドア前に立っていた庵は、咄嗟に胸を反らせて扉板の襲撃を回避した。
「あ⋯⋯悪りぃ、大丈夫か?」
 鍵を開けるため玄関先に現れたパジャマ姿の京の、その意外に元気そうな様子を見、庵は姿勢を元にもどしながら柳眉をひそめる。
「熱を出した、と俺は聞いたんだが?」
 俺の聞き間違いだったのか、と首をひねり、
「それともあれは二階堂の嘘か」
 ここまではまだ、庵の口調も落ち着いていたのだが、
「なにゴチャゴチャ言ってんだよ。見舞いに来てくれたんだろ? そんなトコ突っ立ってないで、ホラ、はやく上がれよ」
 そう言って京が庵の手を取った瞬間、彼は表情を険しくし、冷たくその手を振り払った。
「平熱だな」
 京の体温が、である。
「嘘をついたのはどっちだ」
「え?」
 庵の言葉に、京は不意打ちを喰らったような貌になる。
「二階堂が嘘をついたのか? それとも貴様が二階堂に嘘をつかせたのか?」
 熱を出したから見舞って欲しいという内容の今朝の電話が、誰の発案によるものだったのか、庵は畳み掛けるようにして京を問い詰める。
「そんなこと⋯⋯」
 知ってどうするのだ、と言葉を濁して即答しない彼に、
「嘘をついたのが二階堂なら、貴様のことを責めても仕方がない」
「⋯⋯⋯⋯⋯」
「どっちなんだ。黙っていないではっきりしろ」
 黙っているという状況が、すでに半分以上答えを白状しているようなもので、せっかちな庵は京の言葉を待たず、
「二階堂に嘘の電話までさせて、貴様は何がしたい!?」
 そう噛み付いた。
「ゴメン。ウソついたのは謝る。けど⋯⋯」
「けど、なんだ」
 冷たい視線で庵は京を睨みつける。いったんは庵の鋭い視線を受け止めたものの、やましさからか、京は俯き気味に目をそらし、口の中でもごもごと、
「そうでも言わなきゃ、おまえ来てくんねーじゃん」
 まるで庵を責めるようなことを言った。
「ああ、当然だ。よく解っているじゃないか」
 聞いた相手を凍りつかせてしまいそうなほど、応える庵の声音は底冷えしている。
「帰っちまうのか」
「俺は、熱を出して寝込んだ貴様の馬鹿面を拝みに来てやっただけだ」
 なのに、それだけピンピンしているのなら、もうここに用はない、と踵(きびす)をかえしかけた庵の二の腕をつかみ、
「待てよ、庵っ」
 京は慌てて彼を引きとめる。
「離せ。帰る」
「やだ」
 これではまるっきり駄々っ子だ。
「京!」
 拘束された手をとりかえそうと庵は腕を振るが、今度は簡単には京の手が離れてくれない。
「バレンタインだから一緒にいたいとか言ったら、おまえ鼻で嗤うくせにっ」
 ――まったく、その通りだ。
「貴様はなにが言いたい」
「⋯⋯俺は⋯⋯ッ」
 喉から声を絞り出すようにして、京はこう訴えた。
「いつだったら、おまえと一緒にいていいんだよ? なにを理由に、おまえを束縛していいんだ?」
「⋯⋯⋯⋯⋯」
 庵は、溜息をつく。
「俺に逢いたかったのなら、ウチに来れば良かっただろう」
 庵はその性格上、ひとの感情に合わせて行動するようなことをしたがらない。それは京にも既知の事実で、だから普段の彼なら、庵を呼びつけたりはしないのだ。なのに何故、今日にかぎって庵を呼び出すような真似をしたのか。
「カゼひいたのは、ウソじゃねえんだ⋯⋯」
 庵の疑問に京はそう答えた。
 ――なるほど。
「だが熱はないな」
 コクリと京は力無くうなずく。
「今朝起きたら下がってた」
 つまり、己に熱がないのを承知で、京は庵への嘘の電話を紅丸に依頼したということになる。
「昨日まではあったのか」
 ふたたび小さな頷き。
「⋯⋯微熱だったけど」
 しばらくの沈黙ののち、庵の口からふかい嘆息とともに吐き出されたのは、
「病人はおとなしく寝ていろ」
と、いう言葉だった。






 部屋の換気をするために、庵はドアの下に京のスニーカーを突っ込むことで玄関を開け放ち、ベランダの引き戸も全開にする。そして、吹き抜ける寒気に身をすくめる薄着の京を見て、彼を有無を言わせず布団の中に押し込むと、コートを脱ぎ部屋の掃除をはじめた。
 掃除といっても、散乱するコンビニ弁当のからをゴミ袋に入れ、洗濯されていない衣類を洗濯機に放り込むだけのことだ。が、そうでもしなければ、人ひとりが座るスペースもないくらい、京の部屋の汚れっぷりは見事だった。
 動き回っているぶんには外気の冷たさも気にならないらしく、庵は黙々と作業を続けている。そして、ひととおりの片付けを終え、彼が玄関とベランダのドアを閉めたころ、キッチンの隅にあるポットが、湯の沸いたことを知らせる音を鳴らした。
 和室にいた庵がキッチンへと移動する。その後ろ姿を、京は布団の中から見送った。
 シンクの上に造り付けられた棚をあさる物音がし、それに続いて、コーヒーの香りが京の鼻先にまで漂ってくる。庵が、湯に溶くだけでできるインスタントコーヒーを作っているらしい。しばらくして、湯気の立つマグカップを手に、彼は6畳間へと戻ってきた。
「俺のは?」
 京はカップを指さす。
「自分で淹(い)れろ」
「ケチ」
 むくれる京に一瞥をくれ、しかし庵はキッチンへとって返したりはしない。
「俺病人なんだからさー、もっと優しくしてくれたっていいんじゃねえかぁ?」
「知らんな」
 病人になった貴様が悪い、自業自得だ、とまで突き放されて、京は憤慨した。
「ちぇーっ、冷てぇのーっ」
 結局、外の寒さに負けて布団から出ることを断念し、京はコーヒーを飲むことも諦める。だが実際のところ、彼はどうしてもコーヒーが飲みたかったというのではなかった。ただ単に、庵に構って欲しかっただけの話である。
 腰を落ち着け、熱く濃い琥珀色の液体を吐息で冷ましながら、一口ずつゆっくり味わっている庵の様子を横目に、京は布団の中から彼に話しかけた。
「なあ、どこで何してたのか、訊かねえの」
「?」
 布団のすぐとなりに、壁に背を預け、片膝を胸元に引き寄せる格好で座っている庵は、問いかけの意味が解らない、と京の顔を見下ろす。そのキョトンとした表情に、京は説明を加えた。
「この連休中のことだよ」
「ああ、それなら二階堂から聞いて知っている」
 ――だから改めて訊く必要もない。
 言外にそう答え、庵は悠然とコーヒーを啜りつづける。
「怒んねえの?」
「なぜだ? なぜ俺が怒らねばならん」
 カップから口を離し、庵はますます不思議そうな貌をした。
「だってよ、俺おまえのこと誘わなかったろ」
「誘われたところで俺に行く気がないことは、解っていたのだろう」
「そうだけど⋯⋯」
 スキーが嫌いだからというのではなく、知らない人間と行動を共にすることを庵は好まない。京はそのことを理解していて、だから事前に庵に声をかけなかった。
「でも、行くってことも言っとかなかったからさ」
「どこで貴様が何をしていようと、それは貴様の勝手だ」
 俺がとやかく言う筋合いのことではない、と庵は意に介したふうもない。
 先に庵本人が言ったとおり、京が二月の三連休にバイト仲間とスキー旅行に出掛けるということを、彼は紅丸から聞いて知った。だが、そのときの反応も、ただ、そうかと頷くだけの素っ気ないものだった。
 もし庵が、行き先や同行メンバーの素性を知らなかったとしても、彼自らが、それを自分に訊くようなことはしなかっただろう。京はそう確信している。確信していながら、それでも言葉にせずにはいられなくて、つい確かめるようなことを言ってしまった。案の定、庵の返答は、悲しくなるほど自分の予想を裏切らなかったが。
「ヤキモチ焼いてもくんねえんだな」
 京は不満げに口を尖らせる。
「なんだ、焼いて欲しいのか」
「頼めば焼いてくれんの?」
「無理な相談だ」
 第一、だれを相手に嫉妬しろというのか。
「おまえはさ、俺がどこで誰と何してんのかって、心配になったり不安に思ったりすることねえのかよ」
「ない」
 間髪入れない即答に、京はふかい失望をおぼえる。
 庵が京に対して不安をいだかないのは、彼が京を信頼しているから、というのがその理由ではない。それを知っているため、京は溜息をつかずにいられないのだ。
 そんな京に庵が問い返した。
「俺は貴様の何だ?」
「え?」
「貴様の女か? それとも恋人か?」
 京は言葉に詰まる。
「ちがうだろう」
「⋯⋯⋯⋯⋯」
 自分と庵とは、ふたりだけで外出もするし、合意の上で躰を重ねることだってある。だが、この関係を何と表現するのだろう。自分たちは、惚れた腫れたの感情だけを依りどころに繋がっている訳では決してない。そのことだけは確かなのだ。
「貴様がどこで誰と何をしていようと、それは貴様の自由だ。俺がどこで誰と何をしていようと、それが俺の自由であるのと同じようにな」
 たとえば、京がどこかで誰かを口説き、その相手と関係を持つような結果になっていたとしても、それは庵にとって気にならないことだった。それは庵に、京の何を知ったところで、自分の彼に対する感情が変わらない、との確信があるからだ。そしてまた、庵の気持ちの中では、自分が好き勝手自由に生活しているぶん、おなじだけの自由を京が持っていなければ公平ではない、との思いも働いている。自分たちふたりは対等の関係であるべきだ、と彼は常々考えていた。
 そして、もうひとつ。
「俺にとって貴様の存在は『特別』だ。そのことは、なにが起きようと、どれだけ時間が過ぎようと、揺らいだりはしない。⋯⋯絶対に、な」
「⋯⋯⋯⋯⋯」
「それだけでは、不満か?」
 自分の顔を覗き込む庵の真摯な表情に、京は不甲斐なくも口ごもる。
 ――それで充分じゃないのかよ? 充分な筈だろう?
 京は己に言い聞かせる口調で、胸の裡に自問自答する。あの庵にここまで言わせて、おまえは何が不満なんだ、と。
 だが。やはり尚、京には何かが足りなかった。彼は何かを欲しがっていた。それ以上、を望んでいた。
 だから訊いてしまった。
「そこにプラスの感情は入ってるワケ?」
「入っていなくては駄目なのか」
「⋯⋯入ってればいいな、って」
 庵と共にあるというだけでは、どうして自分は満たされないのだろう。庵に想って欲しいと⋯⋯自分が庵に対していだくのと同じ想いを彼から向けられたいと、なぜ願ってしまうのだろう。
「で、どうなんだよ」
 自分に対する正の感情を庵が持っているのか、京は期待を裏切られることへの強い不安感に苛まれながらも、一縷の希望に望みをかけて、確かめずにはいられない。
 が。
「わからんな」
 自分にも判らない、と答えた庵の言葉に嘘はなくて。
 その言葉を聞き、京は身をよじって庵に背を向けた。いまは彼の顔を見ているのも、彼に顔を見られるのも辛い。
「訊くんじゃなかった⋯⋯」
 勝手なことを口走る男の背を、庵は呆れたと言わんばかりの眼差しで眺めていた。彼は京には悟られないよう、音をたてずに溜息をつく。そして、からになったマグカップをそばの炬燵台の上に乗せ、こう言った。
「好きだと言えばいいのか? 俺が愛しているとでも言えば、貴様は満足するのか」
 京は庵に背を向けたまま首をふる。
「⋯⋯言葉だけが欲しいんじゃない」
 ただ。
「そりゃあ言葉が欲しいと思うことも⋯⋯あるけどな」
「俺は嘘などつきたくない」
「⋯⋯⋯⋯⋯」
 京は唇を噛む。
 つまり、そこにプラスの感情は含まれていない、ということか。
 改めて思い知らされる現実に、おおきく肩を落とした京を見て、しかし背後で庵はこう言い加える。
「俺は、わからないと言っただけだ」
「え⋯⋯?」
 京は思わず首をかえしていた。
「否定したつもりはないぞ」
「いおり?」
 布団の中で、首から下の姿勢も変え、京は庵の顔を見上げる。庵の、常と変わらぬ冷めた貌からは、名のある感情が読み取れない。
 でも。
 京は庵の頬に両手をのばす。手のひらで包みこんだ男の顔の中で、その双眸が凪いだ表情を見せていることに彼は気付いた。
「俺、期待してもいいのか」
「失望が怖くないならな」
 庵は自分を引き寄せる京の腕に逆らわず、畳についた両腕をゆっくりと折る。
「けど⋯⋯希望は捨てたくねえよ」
「好きにしろ」
 それは貴様の勝手だ、と庵は癖のつよい笑みに歪めた口元で、京の唇を受け止めた。



2000.02.21 脱稿/2018.11.17 微修正 



・初出:『チョコより甘いキス』2000.02.27 発行
・再録本『Happy Love Love?』2009.05.03 発行に収録