『微熱』 R18


 ――息苦しい。
 そう胸の裡(うち)でつぶやいた途端、その感覚は彼にとって現実のものになった。
 奇妙な表現だが、穏やかとも言える生ぬるさで、じんわりと鳩尾から喉許へと這い上がってくる何者かの気配を感じる。その感覚は胸郭をいっぱいに満たすだけ満たしてしまうと嘔吐感に変わり、けれど収まることを知らないそれは、決してそれ以上ひどくはならず、だから実際にはなにひとつ吐き出すことができなくて、圧迫感だけがいつまでもつきまとうことになる。
 慢性的な息苦しさ。
 生ぬるい吐き気。
 慣れた感覚ではあるのだ。
 そして、それに耐えきれない程度のヤワな神経は持ち合わせていない。だが精神よりも先に、なにかの『限界』の匂いを嗅ぎ付け、悲鳴を上げて警鐘を打ち鳴らすのは決まって過敏な肉体の方で。
 気づけば庵は、かるい微熱をその身に飼っていた。






 この姿を――。
 いちばん見せたくなかった相手に見せに行こう。
 そんなことを思いつき、実際にそれを実行しようとしている自虐的な自分を、庵はすこしずつ慈しみはじめている。そんなふうに、ありのままの自分の存在をわずかながら認められるようになった。
 だから。
 この身体が燃え尽きてしまわないように。
 壊れてしまわないうちに。
 そうなる前に。
 この熱を逃がしてやらなければ。
 ――なあ、京。そうだろう?






 庵が草薙邸に到着したのは陽も暮れ落ちた夕刻だった。秋風が冷たく頬をうつ。大きな古い屋敷の門前で足をとめた彼は、来客を知らせるためにインターホンを押した。
 折り目正しい柔らかな物腰で誰何(すいか)するのは、彼(か)の男の母親の声だ。草薙と八神の両家が和解を誓ったあと、すでに何度かここを訪れている自分だったから、いまさら緊張することもなく、じつに淡々と名前を伝えた。そして、京は居るかと尋ねてみる。
 京が在宅だという返答を得、ひろい屋敷の奥から現れるはずの彼が門を開けてくれるのを待つ間に、しかし庵はその場にしゃがみこんでしまっていた。あまりの眩暈ゆえに、それ以上立っていられなくなったのだ。
 ――駅から歩いたのが祟ったな⋯⋯。
 そのことを知れば京は怒るだろう。どうして自分の身体を労ってやらないのか、と。
 労ってやるためにここへ来たのだと、たとえば口に出して答えたとして、その言葉は彼に伝わるだろうか。彼はちゃんと理解してくれるだろうか、その感覚で。






「あ、れ⋯⋯? いおり?」
 木製の古くいかめしい造りの門を内側から引き開けたものの、目の前に自分のそれとおなじ高さで見えるはずの男の顔が予想に反してそこにない。街灯に照らされたあたりの景色に視線を彷徨わせ、ひとつなぎの動作で足元の熱の塊へもそれを向け、その塊がひとであると知った京は一瞬絶句した。
 そして呆れ貌で問う。
「なにしてんだ、おまえ」
 呑気な声。
 が。
 路上にうずくまる庵を立ち上がらせようと、その腕を掴むや否や、彼は唸るような声をあげた。
「なに考えてやがんだっ、このバカッ」
 ――ああ。やっぱり怒ったか。
 それとも叱ってくれているのだろうか、こんな自分を。
 頭の上から降ってきた、その気持ちのいい罵倒に庵は耳をかたむける。自分の体温が己のそれよりも高いなんてことは、あっていい事態じゃないのだろう、京にとっては。
「こんなに熱があんのに、おまえは!!」
 ったく、と舌打ちを聞かせつつ、腕を両脇に入れて庵を引きずり上げるように無理矢理立たせ、京は彼の前ですこし腰を落とす。そうして、力の抜けている庵の躰を二つ折りに己の肩へと担ぎあげた。庵にとってつらい態勢だろうとは思ったが、同体格の男を家の中まで運ぶには、こうでもするしか方法がない。
 頭に血が下がるその態勢に文句も言わない庵を連れてどうにか玄関まで辿り着き、
「おふくろーっ、どこでもいいから布団敷いてーっ」
 屋敷の中へ向かって京は、家中に聞こえるような大声を張り上げる。
 その声は、いまだ庵に対する怒りをありありと滲ませていた。それを心地いいと言ったら、きっと彼は怪訝な貌をするのだろう。
「怒っているか?」
 庵は溜まった血液のせいでさらに重さを増した頭を持て余しつつ、背中から訊いてみる。鼻の奥が詰まって、奇妙な話し辛さがあった。顔が熱く膨張していくような錯覚にとらわれている。
 庵の安穏とした問い掛けに業を煮やしたのか、
「あたりまえだッ、このボケ!」
 無茶なことしやがって、と背中が罵声を浴びせ、つづいて、
「おまえ、頭いいのか悪いのか、ときどき判んなくなることしてくれるよな」
 そう言い放ってから京は、担いでいた庵の躰を畳敷きの部屋のなかへと降ろした。
 ようやく逆さまの景色から解放され、庵はあたりを見回してみる。けれどそれだけの動作で、また頭がクラクラしてきた。重症だ。運ばれた部屋が客間なのかどこなのか、庵に解るのはここが母屋ではなく、京の部屋のある離れの方だということだけだった。
 京は甲斐甲斐しく庵の世話をはじめる。
 庵の上着を脱がせてシャツのボタンをふたつ開け、寝るには窮屈そうなベルトも外してから、母親の静が用意してくれた一組の布団のなかへ彼を押し込んでしまうと、ドカリとその枕元に胡座(あぐら)で陣取った。
「ホントなに考えてんだよ、そんな身体でウチになんか来やがって」
 飛行機を使って来たのか、電車から新幹線に乗り換えて来たのか知らないが、直線距離にすれば近そうに思える八神本家から草薙本家までの道程は、実際に移動してみると小旅行気分を味わうには充分だったりする。山陰と関西とは近距離のようで実は遠いのだ。
「⋯⋯喜んでくれるかと、思ったんだがな」
 庵のその言葉に、ふざけんなッ、と条件反射的に口にしてしまってから、京はマジマジと男の顔を見下ろした。
「もしか、しなくても、おまえ、正気⋯⋯だな?」
 ――ふざけているワケではないのか?
 だいたい伊達や酔狂で、庵がこんな真似をするわけがない、か。
 そう、相手はあの、八神庵だ。
「庵⋯⋯」
 なにに思い至ったのか、京が妙な具合にその貌をゆがめる。
「いいのかよ。俺は付け上がるぞ。誤解しちまうぞ」
 自分の都合のいいように。
 京の奇妙な表情を見、庵はかすかな声を発てて笑った。そして片手を伸ばし京の顔に触れる。
「いおり?」
 やわらかな笑みを刷く男の貌を、京はじっと見下ろす。熱のせいで潤んだ瞳が常にないほど穏やかな表情をみせている。
「自惚れろ」
 庵はそう言った。
 おまえに見せに来たのだから。この姿を。もっとも醜いと、弱いと、そう自分が思っている姿を、京にだからこそ見せたくて、自分はここまでやって来たのだ。
 自力では歩けなくなるほどに、この身の熱を上げながら。
 自分で自分を嗤いながら。
 それでも。
 京の頬に触れていた手をはなすと、彼が黙ってその手を取り、布団の中へしまってくれた。
 構ってくれ。
 甘やかしてくれ。
 それに厭(あ)いて、またあの場所へ還らなくては、と自分で思い立てるくらいに。
 その頃には、この熱も去っているだろう。
「くっそー、だからってなあ、なんでこんな時にしか来てくんねーんだよ、おまえはー。出したくても手ェ出せねぇじゃんかよー」
 京が枕元で随分とあからさまに、下心むきだしの不満げな声をあげる。
「こんな時だから、だ」
「律義に答えんな」
「なぜだ?」
「もういいよ、もう〜」
 ついつい投げやりな気分になってしまうのも、もうどうしようもない。
「いいからとにかく黙ってろ!! 黙ってさっさと寝ちまいやがれ!」
 なんでこいつは身体が辛いはずの、こんな状態になっているときに限って口数が増えるのだろう。言葉をかえして欲しいと思うときには何も言ってくれないのに。
 目を瞑れ、と言いたいのか、京が片手で庵の眼窩をゆるく覆う。
 いつもは触れられると熱いと感じる彼の手が、いまは冷たくて気持ちいい。その慣れない感覚は、けれど妙にすんなり受け容れることのできるもので、庵はそのまま大人しく目蓋を閉じることにした。








 庵が熱に浮かされながらも寝息をたてはじめたことを確認して、京はひとまず胸を撫で下ろす。眠る庵の邪魔にならないようにと部屋の照明を落としたものの、今夜は月が明るいらしい。障子越しに煌々と月の光が差し込んで、部屋の中は明るかった。
 汗に湿って房になった前髪をそっと指先で払ってやりながら、
「なに考えてんだろうな、おまえは」
 ちいさな声で口にする。
 本当に庵は解らない奴だとつくづく思う。そして解ってやれない自分を、もどかしく思う。
 彼は京の周囲に、これまでひとりとしていなかったタイプの『人種』だった。ときどき、一生理解できないのではないかと思ってしまうこともある。でもだからこそ側にいたいと思うのだろう。理解したいと願うばかりに。
 そう。投げ出したくはないのだ、彼のことは。
 そして、理解したいと強く望む一方で、いつまでも解らないヤツでいて欲しいと思っている自分がいる。相反するふたつの気持ちは、けれどごく自然に、矛盾なく京の裡で共生していた。あまりに自然で、だからこそ不自然な事象。
「何なんだろうな、これって」
 こういう気持ちを何と言うのだろう。なんと呼べばいいのだろう。
 解らない。
 でも答えを知りたいという訳でもなかった。ただ時々こうしてその存在を思い出し、手で触れるようにして確かめてみる。それは京にとって大切な儀式。
 そのとき庵がちいさく呻いて寝返りをうった。
 見遣れば随分と汗をかいてしまっている。とりあえず、と思ってそのままの格好で寝かせてしまったが、そろそろ着替えさせた方が良さそうだ。
 新しいシャツを用意してから、京は庵の力無い躰を抱き起こし、寝汗を吸って重く湿ったシャツを脱がしにかかる。そのとき意図せずして手のひらに触れた、吸い付くような素肌の熱さに、唐突に呼び覚まされた感覚。
「あーあ」
 思わず嘆息。
 なんて即物的なんだろう。リビドーに正直な躰の反応を自覚して、京は我事ながら苦笑してしまう。そのくせこの欲に逆らう気にもならなかった。
 誘われるまま、庵の胸元に顔を寄せる。自分より冷たいはずの庵の皮膚がひどく熱く、しっとりと汗ばんでいる。その感触が新鮮だった。いつもなら触れていくうちに段々と熱くなり、汗を浮かべるはずの躰だから。
 京は眠る庵の首筋に遠慮ない愛撫の唇を這わせていく。
「んー⋯⋯」
 むずかるような声を出して、庵の片手が京をどかせようと無意識に弱い力で彼の顎を押し上げてきた。
「なんだよー、嫌なのかよー」
 いったん顔を上げ、聞こえていないと知りつつ拗ねた声音で庵を詰る。なおも弱々しく抵抗する手を捕まえ、試しに自分の背へ回させてみた。
 そうしたら。
「⋯⋯ふっ」
 思わず笑みがこぼれてしまう。
 庵はもう片方の腕も京の背に回し、ゆるくシャツを握ってきたのだ。
「ホンっトおまえって素直じゃねぇよな」
 くすくすと笑いながら素肌への愛撫を再開する。あいかわらず庵の意識は覚醒しない。そのうちに京は、なんだか悪戯しているような気分になってきた。
「起きろよぉ、いおりィ」
 無茶な注文をつけながら、息苦しくさせるくらいの深くて長い口吻けを施す。
「⋯⋯ふ、っ」
 眉根を寄せて呻き、そこでようやく庵が眼を開けた。その視線を捕らえてニッと笑い、ちゅっと軽い音を立てて唇にキスをひとつ。
 庵はすぐに状況を呑み込んだらしかった。が、怒るでもなく、
「手は出せないんじゃなかったのか」
 呆れたような声で言う。京は平然と返す。
「だってよ、カモがネギどころか、鍋と七輪まで背負(しょ)って来てくれたようなもんなんだぜ?」
 放っておけるはずがない。
「それにさ、熱が下がったら、おまえ速攻帰っちまうじゃねぇか」
 だったら待ってなどいられないだろう。みすみす逃がしてしまうと判っていて指を咥えてはいられない。
 しばらく無言で京の顔を見上げていた庵だったが、
「⋯⋯無茶はするなよ」
「わかってるって」
 お許しが出たことに嬉しそうな貌で頷き、京はふたたび庵の躰に指を伸ばした。






 片腕で庵の細い腰を抱き寄せ、脚で膝を割り、その間に躰をいれ、耳朶に歯を当てる。
「⋯⋯っ、ん」
 庵の反応は鈍かった。熱のせいか、いつもと違って、京の与える刺激はまわりくどく庵の全身に伝わっているらしい。
 じんわりと昂まっていく躰。
 けれどいつもなら抑えてしまえる筈の声が、今日はひっきりなしに庵の唇を割る。
「きょう」
 自分の口を塞ぎたくて、庵は京の唇を求める。彼の願いに応え、京は唇をふかく重ねた。
「⋯⋯ん」
 鼻に抜けていく庵の声が常にないほど京をあおる。
 背筋がぞくぞくする。
 熱に乾き、荒れてしまっている庵の唇を濡れた舌で丹念になぞり癒しながら、京はひとつになれる場所を探す。張り詰めた内腿の筋を撫であげ、そこに辿り着き、指の腹で確かめた途端、触れ合わせていた舌先から庵の震えがじかに伝わってきた。
 口吻けたまま、指先を挿し入れる。
 反射的に溢れた庵の声は、口腔で吸い取った。
 意識を逸らさせようと、緊張している下腹部を撫で、指を奥まで押し進める。馴染んだところで指をもう一本増やした。
 シーツに片頬をおしつけ、庵は息を弾ませている。伏せられた眦にはうっすらと紅味がさしていた。
 指を包み込む柔らかな粘膜がかすかに蠕動しはじめ、準備が整ったことを確認した京は指を抜き取り、庵の腰を抱きかかえ、自身の熱を押し当てる。
 それに応えるように、京の背を抱く庵の腕に力がこもる。
「あっ、つ⋯⋯」
 ゆっくりと京の形に開かれていく躰。庵はほそく息を吐き出しながらその感覚に耐える。最後まで過剰な反応は示さなかった。熱のせいで痛覚にも鈍感になっているのだろう。
「ふ、⋯⋯っ」
 すべてを収め京はふかく息をつく。包まれる、熱く柔らかな感覚に腰が痺れる。堪らずぐっと腰を押し付けると、庵は目をふせ、息を止めた。
「⋯⋯っ、い⋯⋯」
 庵が京の耳元で何事かをつぶやく。
「なに?」
「あつ、い⋯⋯」
 躰の中が、灼ける。
「キツイのか?」
「ち、がう⋯⋯」
 そうじゃない。だけど⋯⋯。
 ただの熱のせいなのか、それとも京に呼び覚まされた熱のせいなのか、庵は眩暈を起こしっぱなしだった。酸欠を起こしたときのように意識に靄(もや)がかかり、頭がクラクラしている。
「も、た⋯っ⋯られ⋯⋯」
 もうこれ以上、耐えられない。
 息を詰めて、その身にすがりつく。とめどなく昂まっていく熱に意識が浚(さら)われてしまいそうだ。
「こわ、い」
 京と抱き合う最中、ときどき感じる恐怖。自分が自分でなくなりそうな。意識が熱に溶け出して、もう二度と戻っては来ないような。そんな有り得ない想像に脅えがはしる。
「なにが怖い?」
「⋯⋯っ、か、ら⋯⋯」
 判らない。だけど怖い。いや。だから怖い、のか?
「じゃあどうしたい?」
 やさしく問い続ける男の眼に視線をあわせ、判らない、と首を振る庵に、けれど京は追い詰める手をとめない。
「⋯⋯っ、あ」
「俺にどうして欲しい?」
 庵の唇がわななく。言いたい言葉はひとつしかなくて、それは庵にも京にも判っている。
 だけど言わなくては。
 だけど聞かせて欲しい。
「ぜんぶ熱のせいにしちまえよ⋯⋯」
 なにもかも熱のせいにしてしまっていいから、だからちゃんと自分の言葉で答えて。その声で聞かせて。欲しいものを欲しいと言って。今だけでいいから。
 ささやく言葉は吐息になって庵の肌をざわめかせる。
 庵の節のながい手指が京の黒髪に絡んだ。熱に浮かされて潤む紅い瞳が京の双眸を捕らえ、震える唇がみじかく言葉を形づくる。
 耳には聞こえないその言葉を眼で読んで、京は庵の顳(こめかみ)に口吻けた。
「いいぜ、おまえがそうしたいんだったら⋯⋯」
「あ⋯⋯っ」
 隙間なくぴったり重なったふたつの躰はひとつの影となり、静もる月明かりに溶けた。






 腕の中で庵が眠っている。月明かりに照らされたその穏やかな横顔に、京は様々な感情が複雑に絡み合った視線を向けていた。無防備な庵の態度は時に京の気分を和ませ、その一方でひどく不安な気持ちを呼ぶこともある。
 自分の存在が庵に安らぎを与えるということ。それは庵を想う京にとって、嬉しい事実だ。
 だけど。
 本来は、庵が帰って行かなければならない家こそが、彼にとって安息の場であることが理想なのだろう。しかしそうでないからこそ、こうして己の元へ現れてくれるのだと思えば、自分はこの現状を甘受すべきなのか⋯⋯。
 そのことを考える京の心中はかなり微妙だ。
 自分はそれでもいい。だけど当の庵はどうなんだろう。
 ――辛くないか?
 眠る庵に心の中で問いかける。
 なにもかも捨ててしまえばいいのに。
 もどかしさを抑えつけながら、京は庵を腕中ふかく抱き寄せた。肌に触れる寝息になぜかひどく切なさを誘われ、心臓が痛む。
 庵が断ち切れないでいる『家』との繋がり。そんなもの捨ててしまえと何度口にしかけたことだろう。
 でも、そうできないんだよな、おまえは。
 ――俺とは違うから。
 生い立ちも育った環境も、己の意志に関わりなく背負わされてきた使命も、なにもかもが違った。ちがい過ぎた。その過去が作り上げた庵という男の人格。それは彼のいま置かれている立場がそれまでと多少変化したところで、容易に融解するものでもない。
 そのことに歯痒さも感じるけど。
 ともかくも、これ以上ここで彼になにかを期待するのは酷というものだ。庵の方からここまで出向いてくれているという今の状況は、それだけで大した進歩なのだから。
 だけど、やっぱり。
 庵には、もっともっと庵自身に優しくなって欲しい。もっともっと庵自身を好きになって欲しい。そしてまた、今日のように自分の元へ羽根を休めに来て欲しい。
 そのためにも、この腕の中がいつまでも庵にとって憩える場所であればいいと思う。
 いや。何があっても。自分はそうあるようにするだろう。
「いおり」
 ――俺はずっと待ってるから。
 いつでも準備を整えておくよ。おまえのために。
 庵の剥き出しの肩を覆うように布団を引き上げて、京はもう一度その寝顔を見、
「おやすみ」
 口許に淡い笑みを残して目蓋を閉じた。



1999.10.27 脱稿/2018.11.02+2020.08.30 微修正 



・初出:『微熱』1999.11.03 発行
・再録本『Happy Love Love?』2009.05.03 発行に収録
・『救済の技法』(1999.09.23 発行の初版の方)を書いている最中、長い上にシリアス一辺倒でつらかったので、これ(本編)を乗り越えたらこういう関係のふたりに辿り着けるんだよ⋯! と自分を励ましながら息抜きに書いていた小作品。