『贄』


 永遠の片想い。
 それは思慕ではなかったけれど。

 解っている。
 求めていたのは自分だけ。
 欲しがっていたのは自分の方。

 そして、手に入れてはならないのだと云うことも、理解して(わかって)しまっていた。
 どこまでも始末の悪いこの理性。

 愛して欲しいなんて。
 受け容れて欲しいなんて。
 言えない。
 言ってはならない。

 誰にも望まれてはいない自分だから。
 誰にも望まれてはいけない自分だったから。

 それでも。
 こぶしを交わしている間だけは自分の物だった。誰に邪魔されることもなく、咎められることもなく、独り占めにすることができた。公然と。
 それさえも、いまは。

 この拳(こぶし)には、もう、彼と闘えるだけの力がない。

 諦めることには、慣れているつもりだったのに。
 諦めなければならないのに。
 誰にも認めてはもらえない気持ちだから。

 それなのに、どうして涙が止まらないのだろう。

 ズキズキと疼く左胸を庇うように、無意識にそこに添えられる右手。この右手に、もう蒼い炎が宿ることはない。

 どうして自分は死ねなかったのだろう。
 これ以上自分が生きていくことに、何の意味もないのに。
 これまでの人生にも、意味はなかったのだけれど。

 魂の抜け殻。
 どうせなら、この心だけでも連れて逝って欲しかった。


「殺して欲しかったんだ」
「え⋯⋯?」
「⋯⋯でも、もう」
 ――もう、いい。
 殺しては貰えなかった。
 それが現実。
 自分は生きている。生きてしまっている。
 現実は変わらない。
 あの日、あの時、あの瞬間に、何度戻って同じことをくりかえしても、違う結果は生まれない。
 きっとここには、いつも、同じ自分がいるのだろう。

「八神も草薙も、関係ないのだろう?貴様には」
 ――ずっと、そう言い続けていたな、京。
「⋯⋯ああ」
「それなら、二度と俺の前に現れるな」
 八神に関わったりするな。
 おまえが目の前に現れたりすると、誤解してしまいそうだから。錯覚を起こしてしまうから。期待してしまいそうになるから。

 いつか来るその日を信じて、生きていく。いつか死ぬことのできる、その日を信じて。
 死ぬために、生きる。
 はじめから、そのためだけにしか、生かされてはいなかった自分だから。

 ――京、『生け贄の幸福』という言葉を知っているか?

 どうか、気付かないで。
 気付かないままで生きて。

 口を閉ざして。
 誰にも言わない。
 教えない。
 この、叶わない願い。

 できることなら、記憶を消してしまいたい。
 自分という人間がこの世に在った痕跡(あかし)を、すべて消してしまいたい。
 あの男の中から。
 すべての人の記憶から。

 なにひとつ、意味をもたない人生だから。





「どうして俺は⋯⋯あのとき、あいつの手を離しちまったんだろう」
 離してはいけない手だったのに。二度と掴み直すことのできない手だったのに。
「なのに、ひとりで行かせちまった」
 逝かせて、しまった――。
 帰って来ないつもりだとは気付けずに。

「欲しいって言ってくれなきゃ、なんにも呉れてやれねえのに⋯⋯」
 あいつは最後まで何も言わないまま。
 自分が彼に視線を向けることさえも許してはくれず。

 一時(いっとき)の安息(やすらぎ)も放棄して、一瞬の幸福(しあわせ)も切り捨てて。
 すべてを手に入れることが叶わないのなら、なにひとつ、いらない、と。

 別れの言葉すら、ないままで。

 庵のために自分が胸を痛める、きっと、こんなことすらも、彼は許さないだろう。
 でも。
「痛いんだよ、庵⋯⋯」
 どうしようもなく、痛むのだ。この胸は。

 忘れてやることが、最大の追悼なのだとしても。
 それが最高の厚酬なのだとしても。
 そんなこと、できない。
 それさえもしてやれない。

 どこまでも、彼に報いるこことのできない自分。
「おまえはそれも知ってたんだろうな」
 だから。なにも言ってくれなかったんだろう、俺には。

 時間をもどして欲しい。
 あの日に。あの時に。あの瞬間に。
 そうしたら、この炎で、この手で、屠り去ってやれるのに。
 いまなら、望みを叶えてやれるのに。
 いまの自分になら。

 庵の絶望。
 そして京の絶望。

 出逢わなければ良かったのにね。
 同じ時代に、生まれて来なければ良かったのにね。

 決して交わることのない、二本の線(ライン)。
 どこまでもどこまでも真っ直ぐに伸びた――。

 深い深い絶望の淵。



 ――京、おまえは、『生け贄の幸福』という言葉を、知っているか?



1999.09.xx 初出/2008.03.03 微修正 



・『救済の技法』(初版版/1999.09.23)執筆時に打っていた散文
・『生け贄の幸福』というタイトルで何か書けないかな⋯と模索していた頃の名残。