緑川が戦線を離脱して数週間が過ぎたオフの午後。
ホームで迎える週末の試合を前に、村越は緑川がひとり暮らすマンションを訪ねようとしていた。
内鍵は開けておくから勝手に入ってくれ、と前もって言われていたのでチャイムは鳴らさず、合鍵をつかって玄関を開ける。
お邪魔します、と控えめに声を掛けつつ廊下を抜けリビングへと続くドアを開けると、部屋主はギプスに覆われた脚を投げ出しソファーで横になっていた。
「ドリさん?」
「……」
身体を横たえているだけかも知れないと、念のため小声で呼び掛けてみたが、返って来たのは寝息ばかりで。
束の間のまどろみを断ち切るにしのびなく、村越は黙ってキッチンへ向かうと、手土産に買ってきたペットボトル入り飲料を冷蔵庫に納め、ふたたび静かにリビングへと引き返した。
ソファーに仰向けに寝転ぶ緑川の、その腹の上に伏せられた本の表紙に『トレーナー』の文字を見つけ、思わず目を逸らす。
トレーナーになろうとしているわけではなく、当面のリハビリに必要な知識を仕入れるために読んでいるのだろうことはわかっているのだが、このまま引退という線がないとは言い切れない。サッカー選手の去就は、選手本人だけでは決められない部分が少なからずあるからだ。
どのクラブからも在籍を望まれなければ、どれだけ本人が望んでも、現役を続けることはできない。
そうやって引退して行った選手を、毎年、もう何度も、何人も見てきた。
第二GKの佐野はよくやってくれているし、それはチームにとって喜ぶべきことだが、ビジネスライクに割り切れない心理部分で、緑川が欠ける可能性を思い、村越はそれを惜しんでしまう。
もし、この怪我がきっかけで引退ということになってしまったら――。
それを寂しいと思うのは、同世代の感傷でしかないのだろうか。
眠る緑川を見下ろして、しばし己の思案に耽っていた村越だったが、ひとつ首を振って頭の中からその雑念を追い出すと、夏物の藺草のラグの上に腰をおろし、緑川が眠っているソファーに背を預ける。
何をするでもなく、除湿に設定されたエアコンの駆動音に包まれているうちに、部屋主の寝息に誘われて、いつしか村越の目蓋もおりていた。
耳元で、ハラリと紙のめくられる音がする。
頬に当たる、あたたかくかすかに脈打つものの感触に、村越はぼんやりと意識を浮上させた。
「起きたか」
「……? あ……」
ドリさん?
耳慣れた声を聴き、反射的に応じて、村越は背筋を伸ばした。
背後を振り向けば、ソファーの上で横になったまま新書本を持ち、左手だけで器用にページをめくる緑川と目が合う。視線をおろせば、緑川の右腕はソファーから垂れおちて、手首から先が床を這っている。
と、いうことは。
「あ」
知らず知らずのうちに、村越は緑川の二の腕あたりを枕にしてうたたねしていたらしい。
「悪りぃ、あんたの商売道具なのに」
アスリートというものは全身すべてが資本だが、サッカー選手の場合、フィールドプレーヤーなら脚が、ゴールキーパーなら腕が、と、そういう発想になるのが自然だろう。
しびれたりしていないか、といささか慌てて気遣えば、大丈夫だ、とのんびりした返答がかえり、
「それに、どうせ当分は出番ナシの道具だからな」
そんな言葉が続く。
「ドリさん……」
「別に卑屈になってるわけじゃないぞ?」
村越の声が沈んだことに気付いたのだろう、自虐ではないとすかさずフォローが入り、
「目が覚めたら、おまえ凄げぇ気持ちよさそうに寝ててな」
「……」
「よく考えたら、こんな状況ででもないと、腕枕なんかしてやれないんだなって」
それに気付いてしまったら、つい、腕を退けるタイミングを逸してしまった。そう緑川は白状した。
「まさに怪我の功名ってヤツ?」
正直、ちょっと嬉しくも楽しくもあったのだ。
「そんなわけで、期間限定! いまなら俺の腕枕で寝放題!」
そう言って笑う緑川につられ、
「ったく、あんたって人は」
村越もついには噴き出した。声に出して笑ってしまえば重い空気も四散する。
「なあ、村越」
そのまなじりに笑みの余韻を残したままの緑川が、真摯な眼差しを村越に向け、
「あんまり不吉なこと考えてくれるなよ?」
現実になっちまうからな、と穏やかに告げる。
「ドリさん」
まるで、この部屋を訪れた当初の村越の不安を知っているとでもいうような、的確すぎるその言葉に一瞬息を詰め、そして肩の力を抜いた。
――まったく……。
怪我をしているのはこの男の方なのに、自分が励まされていては世話がない。
「焦ったって仕方ないし、なるようにしかならないし、なるようになるんだからさ」
俺は大丈夫だよ、と平素とかわらぬやわらかな声で言われ、
「ああ、そうだな」
村越はちいさく頷き、うつむき気味にかすかに笑った。
怪我をしてしまって、村越と共にピッチに立つことは叶わない現状だが、そんな緑川にもチームに対して貢献できることはある。
それは、なんでもすぐに思い悩んでしまいがちなチームキャプテンをリラックスさせ、不要な肩の荷を下ろさせること。
「なあ、村越」
「うん?」
「オフになったら膝枕してくれよ」
今日の腕枕のお返しに。
「そんなんでよければいくらでも。……けどなあ、筋肉質だから」
硬すぎてあんま気持ち良くないんじゃねぇの? と、茶化し返して来た村越の眉間には、緑川の思惑通り、険しい縦皺は見当たらないようだった。
2012.05.02 脱稿/2023.05.14 微修正
・初出:『腕まくらと膝まくら』2012.05.03 配布無料ペーパー