『バスルームより愛を込めて』


「温泉行きてえなあ温泉!」
「急に寒くなりましたもんね」
「日帰り温泉行こうよ、堀田くん」
「シーズンが終わったらね。とりあえず今日はこれで妥協しといてください」
 そう言って、この部屋の主・堀田が石神に差し出したのは、いわゆる温泉の素だった。ちなみに最近堀田が好んで買っているらしい某社のにごり湯シリーズだ。
 石神に言わせると邪道以外のなにものでもないのだが、堀田は割り切っていて、温泉は温泉、これはただの入浴剤という認識らしい。温泉の代わりだとかその効能だとかを期待しているわけではなく、ストレス解消のバスタイムに香りや色を楽しんでリラックスするのが主な目的なのだそうだ。
「ガミさんに選ばせてあげるから、一番風呂入っといで」
 まったく納得の行っていない石神だったが、一番風呂、という言葉にピクリと反応し、
「じゃあこれにする」
 六種類が四袋ずつ入った箱の中から薄桃色のパッケージを引き抜いた。どこの温泉のものなのかやその効能は選考基準ではなく、好きな色を、という単純なチョイスだ。
「じゃあ先に頂くわ」
「ごゆっくりどうぞ。着替えは後で持ってっとくから」
「ん、ありがと。よろしくなー」
 石神の着替え一式は、堀田の寝室のクローゼットに常備されている。オフ日の前夜、堀田の部屋に泊まることが多くなってから、石神が持ち込んだものだった。






 堀田の部屋のバスルームには無駄がない。
 ボディソープとシャンプー、コンディショナーが、それぞれ銀色の格子状のラックに収まっているほかは、ドアの把手に掛けられたタオルと、プラスチック素材で白色の風呂桶、檜の風呂椅子があるだけだ。
 この風呂をしょっちゅう借りている石神に言わせれば、まったく遊び心が欠如している、ということになるのだが、当の部屋主は意に介していないらしかった。






 洗い物を片付けたりしながら石神が風呂から上がるのを待っていた堀田が、こんどは交代で浴室に向かう。
 風呂から出て来た石神は、リビングのソファーの脇に立ち、ときおりタオルで頭を掻き混ぜたりしつつ、廊下奥の浴室の様子をうかがっていた。
 服を脱いで洗濯機に放り込んだ音、浴室のドアを開ける音、浴槽の蓋を開ける音、そして――、
 次の瞬間、ぶふっ、と盛大に吹き出す音がし、続けて闊達な笑い声が風呂場特有の反響をともなって、リビングにまで聞こえて来た。
 気付いたな、と確信犯はにんまり笑い、浴室へ足を向ける。
 浴室内には、なんだこれ! という愉快そうなくぐもった声がひびいていた。
 石神はドアを開け、湯気のこもる浴室に足を踏み入れる。
「ガミさん、こいつどうしたの?」
 湯舟に浸かり、てのひらに『こいつ』を乗せた堀田が石神を振り向く。
「こないだたまたま入った店で目にとまってさあ」
 石神が堀田家の湯舟にこっそり持ち込んだのは、風呂玩具定番中の定番、黄色いゴム製のアヒルの子だった。
 堀田よりも先に風呂に入ることがあれば是非とも仕込んでやろうと、実は数日前から持ち歩いていたのだ。さっそく絶好の機会を得て、かねてからの企(たくら)みを敢行したというわけである。
「それ、腹のところ押してみー」
 石神に言われるまま従うと、
「あ、ライト点くんだ」
 風呂場の電気を消し、湯舟に点灯させたアヒルを浮かべて入浴するとリラックス効果が望める、との触れ込みなのだ。
「へえ、おもしろいね」
 手指の長い堀田のてのひらの上に乗ると、アヒルはひどく小さく見えた。
「気に入ってくれた?」
「うん、ありがと。なんかいいね、こういうの」
 愉しくなるよ、とやさしい目でアヒルを見つめている堀田は、石神が浴室に入ったときからもうずっと、無意識にか、口端をかすかに上げた、やわらかな笑みをその顔にたたえている。
「⋯⋯」
 いたずらが成功して、よろこんでも貰えて、それで良かった筈なのに、その視線がアヒルに奪われていて、しかも笑顔まで占有されているのが石神的には実におもしろくない。
「堀田」
「はい?」
 呼ばれてようやくアヒルから目線を外し石神を見上げた堀田に、
「はやく準備して出て来いよ」
 ちゅ、と額にキスをし、不満を訴える。
「⋯⋯ガミさん」
 顎に手を添え、こんどは唇にキス。歯列を割って舌を差し入れれば、
「ん」
 堀田は甘い声を添えて応えてくれた。存分に熱い口腔を堪能してから解放してやると、
「すぐ出ますから、いい子で待っててください」
 顔を真っ赤にした堀田に、浴室から追い出されてしまう。明日はオフなので、今夜共寝することは互いに暗黙の了解なのだ。

 この夜以降、アヒルは堀田家の風呂場の主になった。





 ちなみに、後日ふたたび堀田宅の風呂を使うことになったとき、浴室のドアを開けたとたん爆笑する羽目に陥ったのは、こんどは石神の方だった。
 それまで白無地だった風呂桶が、某ケ○リンの黄色いそれに化けていたからである。
 風呂桶を前にひとしきり笑い転げ、どうしたんだよこれ、と家主に問えば、浴室に顔を出した堀田曰く、
「アヒルに対抗しようと思ってさ、そしたらもうこれしか考えつかなくて」
と言うことだった。
「おまえよくこんなの知ってんね」
 石神が買ってきたアヒルは一般家庭における風呂場の定番だと思うが、ケロ○ン桶はいわゆる銭湯の定番だ。
「テレビで観たとか?」
「いや、実際銭湯で使ってたことあるんだよ」
「え、マジで?」
「うん。ウチは両親が共働きで、俺、おじいちゃんっ子だったんだよね」
 風呂は広いところでのんびり浸かるのがいい、が持論の祖父に連れられて、両親が帰宅する前の夕刻、堀田は近所にあった銭湯へよく通っていたらしい。
「へえ、それで」
「アヒル見たら思い出してさ」
 どうしても欲しくなった堀田は、ネットで検索し、取り扱いのあるショップを見つけ出して発注したのだった。
「おもしろがって貰えて何よりだよ、ガミさん」
 嬉しそうに、そしておかしそうに笑う堀田に、石神もつられてへへへと笑い、
「俺おまえのそういうとこ大好きだわ」
 堀田の服を濡らしてしまうのも構わずに、水滴を纏った腕で抱きついた。



2011.10.20 脱稿/2018.11.05 微修正 



・初出:『バスルームより愛を込めて』2011.10.23 配布無料ペーパー
・堀田家の家庭環境やら祖父やらはまったくの捏造です