仕事で出かけていた訪問先からクラブハウスへ戻ってきた後藤は、グラウンドの端にあるベンチに座り、正面に立ったコーチの徳井を見上げてなにやら熱心に話し込んでいる緑川の姿を目にして足をとめた。緑川が座るベンチの脇には松葉杖が二本、無造作に立て掛けられている。
しばしその場に佇んで、視界の中の光景を、己の傷の痛みをこらえるように切なく見つめてから、後藤は建物の中へと踵を返した。
リーグジャパン第十九節の神戸戦で負傷したETUの守護神・緑川宏は、現在怪我の治療の真っ最中だ。
後藤は広報部に顔を出し、出先で受け取って来た書類を封筒ごと有里に手渡して、ふたたびクラブハウスの外へと足を向けた。
緑川はまだ同じ場所に座っており、今度は仲間たちの練習風景を見つめているようだ。徳井の姿は既にない。
後藤はネットをくぐってグラウンドへ足を踏み入れた。
「ドリ、定期検診は終わったのか」
背後から声を掛けると、あ、後藤さん、と振り向いて、
「ええ、予定より早く終わったんでこっち寄ってみました」
「さっき徳井(トク)となにか話してたみたいだが⋯⋯」
「リハビリメニュー、組んで貰おうと思って」
「まだ早いんじゃないのか?」
「トクさんにも言われましたよ。でも上半身はなんともないから」
緑川は軽い口調で応じているが、おそらく身体を動かしてないと不安なのだろう。怪我で思うように動けないという経験は、後藤も現役時代に何度か味わっている。じっとしていると余計なことを考えてしまい――そういうときは大概ものごとを悪い方向に想像してしまうものだ――肉体的にだけでなく精神的にもキツイ時期を過ごすことになる。身体を動かすことができればその間だけでも気が紛れるので、いまの緑川はそれを求めているのかもしれない。
そんな後藤の推察を裏付けるように、
「ときどきなんていうか、こう、声上げて発狂したくなるような、そんな気分になることがあって」
夏木のこと笑えませんね、そう言って自嘲する態度がらしくなかった。
「⋯⋯うん、わかるよ」
――俺も現役の頃にそういうのあったし。
「怪我はフィジカルなもんなのにメンタルまで試されますよね。ほんと、参る」
ふう、と溜息をつく横顔が隠しきれない翳りを湛えてゆがんでいた。
「ドリ⋯⋯」
緑川が今こんなふうに素直に弱みを見せてくれているのは、自分が年上だからなのか選手ではないからなのか、その両方か。
後藤は一言断りを入れてから緑川のとなりに腰を下ろし、座面に突いている手の、その甲にそっと手のひらを重ねた。心情としては覆ってやりたかったのに、さすがはゴールキーパーだ、手の大きさと厚みが同じ男であっても後藤のそれとはかなり違っている。
一瞬目を瞠って己の腕の先を見おろした緑川は、けれど重ねられたそれを振り払うことなく後藤の行為を受け入れて、そのままふたたび前を向いた。
「病気になったり怪我したりすると気が弱るっていうけど、ほんとですね」
「おまえはそうやって冷静に自己分析しちまう性質(たち)だから俺は心配だよ」
俺のことで気を煩わせて済みません、殊勝な言葉の割に悪戯な表情で返され、後藤はようやく少しだけ安堵をおぼえ頬を緩めた。
「ウチの選手が怪我するといつも思うんだ、俺が代わってやれたらいいのに、って」
「後藤さんは優し過ぎますよ」
「そんなことはないさ。ただのエゴだ」
「エゴ?」
「俺は引退した身だから、もう選手としてこのクラブに貢献することは出来ないだろ? だから、おまえたち現役の選手をその自分の身代りみたいに思っちまうんだよ、たぶん」
「⋯⋯」
目の前のグラウンドの中では練習中の選手たちの様々な声が飛び交い、ボールの弾む音が響いている。それらの音に耳を傾けて、ふたりはしばし無言の中に身を置いた。
じゃあ俺はそろそろ仕事に戻るよ、と踏ん切りをつけて後藤が腰を上げる。
「俺に出来ることならなんでも手を貸すから。遠慮せずに頼ってくれよ、ドリ」
「ありがとうございます。自棄起こす前に、ちゃんと甘えますよ」
口ではそう言うが、きっと実際には緑川は自分を頼ってはくれないだろう。後藤にはなんとなくそれが解っている。確信にも近い感覚だ。今日はたまたま、わずかに寄りかかってみせてくれたけれど、肝心なときには、おそらく――。
ひとりで闘い、ひとりで乗り越えてしまうのだ、緑川宏というフットボーラーは。
それでも、わかっている人間がここにいる、と。支えてやりたいと願う男がこのクラブにはいるのだ、と。それを知っていて貰えるなら。
己の言葉も存在も無駄ではないのだと、いまはそれだけを自分に言い聞かせる。
立場は違えど目指す先は同じ仲間だから。
それぞれがいま己に出来ることを、それぞれの場所で。
2011.11.08 終/2018.11.05 微修正