その日はバレンタインデーということで、クラブハウス周辺の空気までがなんとなく朝から浮わついているようだった。
毎年、春季キャンプが折り返しに差し掛かるこの時期、クラブハウスの事務所宛に持ち込まれたり送られて来たりする宅配便の数が激増するのは、なにもETUに限った話ではない。
あらかじめ、飲食物は受け取れないという旨を広報を通じて発信しているので、本来今日の主役である筈のチョコレートが届くことは基本的にないのだが――万一届いてしまっても、それらが選手たちの口に入ることはない――、それでも色とりどり、目を楽しませてくれる華やかな美しいラッピングで、様々な贈り物が毎日のように配送されて来る。季節柄、マフラーや手袋、練習中にも使用できるネックウォーマーなどの防寒具にはじまり、下着のたぐいも定番だ。日頃からインタビューなどで好きな物を公言している選手宛には、それにちなんだグッズが届くことも多い。
クラブハウスに併設されている練習用グランドでみっちりトレーニングを行い、引き上げて来たロッカールームはいつも以上に賑やかだった。この日までに届けられたプレゼントを各選手別に仕分けした紙袋や段ボール箱が、事務所から運び込まれているせいだ。
若手のうちの何人かはプレゼントの数を競い合っていたようで、もっとも貰いの少なかった者が勝った全員に夕食を奢るという罰ゲームが設定されているらしい。彼らのいる一角からは、ひときわ大きな声が聞こえてくる。
帰り支度を済ませた村越は、自分宛のプレゼントのうち紙袋ふたつを腕に下げ、段ボール箱をひとつ胸に抱えてロッカールームを後にした。これで全部ではない。何日かにわけて持ち帰るつもりで、まだいくつかの袋を残している。
にぶい陽射しに照らされた駐車場へ出、襲いかかる外気の温度に首を竦めたところで、村越、と名を呼ばれた。現在このクラブに於いて、村越のことを呼び捨てにする人間はそう多くはなく、選手に至ってはひとりだけだ。
「ドリさん」
反射的に呼応して顔を巡らせると、既に彼自身の愛車に乗り込んだ状態の緑川が、運転席のウィンドウを限界までおろし、そこから顔を覗かせていた。
おいでおいでと手招かれ、呼ばれるがままに近付いて行けば、緑川の車の後部座席の足下にも、紙袋と段ボール箱とが複数積み込まれているのが見えた。見えている分だけでも村越が貰った数をはるかに上回っているようだ。さすが独身、といったところだろうか。これ以外にも、まだトランクの中に入っている物がありそうだ。
この日、緑川宛に届いたプレゼントの数は、独身で人気もある若手たちをまったく寄せ付けず――それは知名度の差が理由なのかも知れなかったが――同じく一年前からの新加入組であるジーノと人気を二分して、クラブ内双璧という格好になっていた。
因みに既婚者である村越は、それを踏まえた断りとして、気持ちだけで充分なので、といった趣旨のコメントを広報を介して出しているのだが、それが抑止力になるわけもない。独身の緑川に至っては、所属クラブが変わったにも関わらず、清水にいた頃からのファンのみならず、ETUで新たに獲得したファンからも、それはもう遠慮なくあれやこれやと贈られて来たようである。
「やるよ、これ」
窓からにゅっと突き出された長い腕が、片手で掴めるサイズの直方体の物体を押し付けて来た。
抱えたままだった段ボール箱を地面に置き、その上に紙袋も一旦下ろして、村越はそれを受け取る。
「なんだこれ」
飲料系、おそらく酒だろうことは、なんとなくその重さと形状から窺えたが、きれいに包装された老舗デパートの包み紙には、どういう訳だが緑川のサインがでかでかと書かれている。
「今日はそういう日だし、役割的に、俺がおまえにやるのが筋かなーと思って」
「⋯⋯」
今日はそういう日――。
要するにバレンタインデーだと言いたいわけか。
それにしたってこのサインは一体なんなのか。
矯めつ眇めつ首を捻る村越に、
「嫁さんの前で堂々と開けてくれ」
俺からだってわかるようにしとけば変に気を揉ませずに済むだろ、と緑川からの解説が入る。
「まあ、もっとも俺は嫁さんのライバルになったつもりも、なるつもりもないんだけどな」
「⋯⋯わかってるよ」
苦笑いで応え、村越は緑川からのプレゼントを感謝の言葉を添えて受け取った。
信頼関係から派生する好意と意志と渇望によって成り立つ肉体関係というものが、世の中には確かに存在するのだと、実地でもって村越に教えたのは目の前にいるこの男だ。いまから約半年前、昨季の夏のリーグ中断期間を境にして明確な色を着けた自分と緑川との、世間には公にし難い関係を、けれど村越は悔いていない。むしろ、自分に必要なものとして受け止めてさえいる。
あの過去の一日の、事細かな情景までが脳裏に鮮やかに蘇り、あまつさえ反芻してしまいそうになって、村越は意識をそこから無理矢理もぎ離した。
「それにしても大漁だな」
目線を車内のプレゼントの山へと流し、村越は話題をわずかにそらす。
「こっちに来てからは初めてのバレンタインデーだけど」
そこまで言って、緑川はなんとも言えない微妙な表情に顔を歪めた。
「これ、きわどい下着とか結構入ってんだよなー」
どこで迎えようともイベント自体は同じものなのだ。清水に居た頃と、プレゼントの中身にそうそう違いがあるとも思われない。
「あー⋯⋯」
村越にも経験がないではなかった。村越をリスペクトしている選手などから言わせれば、そんなものを贈るなど、どんな怖いもの知らずの強者(つわもの)か、ということになるのだろうが、一ファン、一サポーターの立場だからこそのチョイスなのだと考えれば納得も行く。
「で、そういうのはどうしてんだ? あんた履いてんのかよ」
揶揄うつもりで発した下世話な質問は、けれど緑川には通用しなかった。
「どう思う?」
「どう、って⋯⋯」
逆に反撃されて返答に詰まった相手に、にやりと人の悪い笑みを向けて、今度おまえの目の前で履いてるとこ披露してやるよ、とますます反応に困ることを楽しげに告げ、緑川を乗せた車は村越の前から走り去って行った。
翌日の練習後、前日に緑川から受け取ったチョコレートリキュールのボトル――それが、あのサイン入り紙包みの中身であった――を、村越は贈り主に差し出していた。
「これ、あんたんちに置いといてくれよ」
――俺が飲みたくなったらあんたの部屋を訪ねるから。
その、村越精一杯の暗喩に、
「それなら、いつでも美味しく食って貰えるように準備しとかねえとな?」
余裕の笑みで応じてみせた緑川は、やはりGK、一筋縄では行かぬ相手であった。
2012.02.17 脱稿/2018.10.24 微修正
・初出:『Chocolate & Orange』2012.02.19 配布無料ペーパー