『Chocolate & Orange』


 バレンタインデーとは、チョコレートを貰う日ではない、愛を受け取る日だ、とは誰の言だったか。


 年が変わってふた月が過ぎた。正月気分もすっかり抜け切って、いまや春季キャンプの真っただ中である。キャンプの前半は暖かい気候を求めて南の方へ移動していたが、数日前に帰東して、いまはクラブハウス横のいつもの練習場がトレーニングの舞台になっている。
 その日、トレーニング終了後のロッカールームはいつにも増して賑やかだった。
 なにせ、今日の日付は二月十四日。
 ロッカールームに、クラブハウスの事務所に届いていた選手宛のプレゼントが運び込まれていれば尚更だ。
 貰ったプレゼントの数の優劣を競っていたらしく、大騒ぎしている若手選手の一団を横目に、着替えを終えた堀田は、自分宛に届いたプレゼントたちを紙袋に納めると、石神に声を掛けた。
「ガミさん、今日の帰りウチ寄って貰ってもいい?」
「いいけど、なに?」
「こないだ観たいって言ってた映画のDVD、玄関まで持って出たのに靴箱の上に置いて来ちゃったんだよね」
 急ぐ物じゃないだろうし明日にしてもいいけど、予定がないなら今日のうちに渡しとこうかと思って、と丁寧な説明が付け加えられる。
「了解~。じゃあいっしょに帰ろうぜー」


 ふたりそれぞれに自分の車を運転して、堀田の住むマンションへと向かう。
 堀田がドアの鍵を開け、ただいま、と無人の空間に向けて声を掛けながら玄関へと入って行き、その後を追った石神は、あれ、と小さく声を上げた。
「これ、ほんとに忘れてたんだな」
 てっきり自分を部屋に誘うための口実だとばかり思っていたのだが、本当に靴箱の天板の上にDVDが置いてある。
 なあんだ、残念! と拗ねたように唇を尖らせ、忘れ物を摘み上げた石神に、
「⋯⋯自発的に忘れることにしたんだよ」
 照れくさそうに堀田は言い、
「上がってってよ」
 石神の追究が入る前に、部屋へと招き入れた。
 DVDを渡したかったというのも、もちろん嘘ではないのだけれど。


 リビングに入った石神に、飲み物を用意するから少し待っていてくれと言い残して、部屋主はキッチンへと消えてしまった。
 上着を脱いでソファーの背に掛け、テレビをつけてぼんやり座っているうちに、湯気の立つグラスとプレッツェルを盛った小皿をトレイに乗せて、堀田が戻って来る。
「これ、俺からガミさんに」
「?」
 リビングのガラステーブルの上に置かれたグラスからは、甘いにおいが立ちのぼっていた。
 鼻孔をくすぐるその香りは、
「チョコレート?」
 そう、チョコレートのそれだ。
「うん。チョコレートリキュールとオレンジキュラソーで作ったカクテルだよ」


 当初、堀田はこの日に合わせてチョコレートを用意しようと考えていた。老舗デパートに期間限定で出現するチョコレート販売用の特設会場などには、とても突撃できる気がしないが、今はネット通販なんていう便利なシステムもある。男がプレゼント用にチョコレートを入手するハードルが低くなっているのは確かだ。
 昔、まだ石神と付き合い始める前のこと。当時付き合っていた恋人から貰った、ひと粒四桁もの値段がする――もっとも値段のことはずっと後になって知ったのだが――チョコレートは、そのブランドにまったく興味のない堀田の舌をも驚かせた。
 そのときのことを思い出し、石神なら、甘いものもそれなりに好きなようだし、喜ぶのではないかと考えたのだ。
 けれど、そのプランは実行されなかった。
 付き合い始めてから知ったことだが、石神はイベント事に際して物を貰うことにあまり執着しない。それよりも、ふたりきりの時間を過ごしたがる傾向がある。
 日常的に、物品を貰う機会が多いからかも知れない。
 堀田もそうだが、プロサッカー選手を生業にしているために、誕生日やバレンタインデーといった記念日には、一般の人よりはるかに多くのプレゼントを貰うことになる。
 もちろんそれは嬉しいことだし、自分の好みをよく知る、身近な存在から貰うプレゼントだって当然嬉しい。けれど、それ以上に、側にいなければ出来ないことを大事にしたいという石神の想いも理解できた。
 だから、その想いの方を優先することにしたのだ。


「ガミさんさ、オレンジピールにチョコがかかってるヤツ好きでしょ」
「おう、好き好き。オランジェとか云うヤツなー」
「そうそう、それ」
 あれが好きなら口に合うかと思ってさ。
 レシピを調べ、数日前から作る練習をしていたのだと堀田は言った。
「飲んでみてよ」
 堀田に促され、石神はあたたかなグラスを両手で持ち上げて、そうっと縁に口をつける。アルコール特有の濃厚なかおりが鼻に抜け、すするように中の液体を口腔に招き入れれば、舌の上によく知るカカオの味と、そして柑橘類のわずかな酸味。
「どう? おいしい?」
 首をかしげた堀田が、かすかに不安を乗せた表情で問うてくる。
 石神はグラスに口をつけたまま、うん、としっかり頷いた。もう一口、今度は思い切った量を口に含み、ごくりと喉を鳴らして嚥下する。
 グラスをテーブルへ戻しながら
「うまい!」
と、ひとこと声を上げれば、
「良かった⋯⋯」
 堀田は、ほっ、と息をついて、こぼれるような笑顔を見せる。その表情がたまらなくて、石神はソファーから身を乗り出すと、テーブル越しに堀田の唇に触れた。
「ん!」
 石神から仕掛けられた濃厚なキスは、当然のようにチョコとオレンジの味がして、甘いけれどそれだけではないこの味が、優しいけれど毒もある、まるで石神のようだと堀田は思ったのだった。





 やがて時計の長針が半月の弧を描いたころ、
「ガミさん、今日ウチ泊まってくよね?」
 ていうか、飲酒運転になるから帰せないよ、となんでもないふうを装って堀田が口にした言葉に、石神は目を剥いた。
 ――あの、堀田が。
「うはっ、堀田くんが策士だー!」
 声を上げて笑い、堀田の意図を看破した、と暗に教えてやれば、
「俺も男ですから」
 精一杯の虚勢で応じた部屋主の耳朶は、うっすら血の気を刷いていた。



2012.02.17 脱稿/2018.10.24 微修正 



・初出:『Chocolate & Orange』2012.02.19 配布無料ペーパー