桜の花弁に血脈が透けて見えると錯覚するのは、おそらくこんな場面に遭遇してしまうからに違いない。
就寝前の日課である畑の見回りへ向かう途中であった。
夜空の主を隠していた雲が晴れて、月明かりに照らし出されたその光景に、小十郎はぎくりと身を竦め息を飲んだ。
血の匂いを嗅ぐと同時に脊髄反射で黒龍の柄(つか)へ伸ばしていた手を引いたのは、小十郎の視線の先、満開に咲き誇る桜の樹の根元に血溜まりを広げている元凶が、見知った忍の顔をしていたからだ。
小十郎は柄に這わせた左手を元に戻すと、しかし敢えて気配を殺すことをせず、深い陰影の一部と化す忍――猿飛佐助――に向かって最初の一歩を踏み出した。
「!」
途端、おそらく意識はないのだろうに、クナイを握り締めた右手が胸元へまでゆらりと持ち上がる。
これだから戦忍は恐ろしい。
「猿飛」
凶器を投げつけられる前にこちらの正体を知らしめようと声を掛ける。浅からぬ縁を結んだ相手だ、水面下の意識にも伝わるという確信があった。
自惚れを疑うような仲では既にない。
意図したとおりに声が届いたのか、ピクリと震えた忍の右手が、握ったクナイはそのままにゆらりと垂れ落ちる。
その一連の流れを見届けてから、血溜まりを避け地に片膝を着けば、どす黒い体液の匂いがひときわ濃く鼻先に漂った。胸を悪くするような臭気に思わず眉をひそめる。
「猿飛」
普段は滅多に呼ばぬ名をふたたび声にしてみたが、やはり目蓋が上がる気配はない。
ともあれ怪我の具合を確かめないことには手のほどこしようがなく、ここから移動させることすらままならぬ。
「触るぞ」
律儀に断りを入れたのは、未だ握られたままのクナイを警戒してのことだ。一瞬、先にその手からもぎ取ってしまおうかとも考えたが、触れようとすれば同時に突き立てられるだろう場面しか想像できず、試す前に諦めた。
両肩から胸元までを覆う布を持ち上げ、検分の目で全身をなぞる。
右のわき腹に、上衣の布地を斬り裂き、更にはその下の鎖帷子にまでほころびを生じさせる程の一撃を食らっているのが見て取れて、血の出所は忍装束に手を掛けるまでもなくすぐに知れた。それが一番の深手で、しかしほかにもまだ細かな傷があるのだろう、ぐっしょりと濡れそぼった衣は完全に本来の色彩を失っている。
小十郎は陣羽織の内側から手ぬぐいを引き出すと、脇腹の派手な裂傷にそれを押しあてて固定し、当面の止血をしつつ忍の身体を肩へと担ぎ上げた。
もとより忍はその動きの俊敏さのままに体躯そのものが軽い。血を失って、更に軽量になっているのかも知れぬと思い至れば、背筋を冷たい指先になぞり上げられた気がした。その感覚が何を意味するのか、考える時間がいまは惜しい。
「すぐ手当してやる。こんなところでくたばんじゃねえぞ」
織田が滅びてまだ間もなく、いま各陣営はそれぞれに力を蓄えることに専心している。奥州も例外ではなく、現状、束の間の平穏の中にあった。
だが、この忍の生きる世界はそうではないのだろう。
むせかえる血の匂いに紛れ、焦(きな)臭い風までが鼻先を掠めたような気がして、小十郎は無意識に眉根を寄せていた。
うららかな季節の宵には似つかわしくない、それは争乱の予感。
小十郎は佐助を農具小屋へと運び入れた。
畑の脇に設えられたそれは農機具を収納する目的で建てられたものだが、土間だけでなく一服できるだけの広さの板の間と、その中央には囲炉裏がある。その板の間へ茣蓙(ござ)を敷き、怪我人を仰向けに横たえた。
生憎満足な治療道具は揃っていないが、応急的にでも処置をほどこし安全を確保した上でなければ、この場を離れ必要な薬を調達しに出ることすらおぼつかない。
囲炉裏に火を起こして井戸水から湯を沸かすと、装束を脱がせ、膿まねば良いがと案じながら、ひとつひとつ丁寧に傷口を洗い、出来る限りの治療をしていく。
一通りの処置を終えたことを確かめてようよう小十郎は息をついた。知らず神経を張りつめていたらしいことを自覚し、今度は違う意味で溜め息が出る。
桶の残り湯で血にまみれた手を洗うと、陣羽織を脱いで佐助の身体を包むように覆ってやった。
見下ろす佐助の顔は、囲炉裏の炎にあぶられ血色良く見えるが、それは錯覚でしかない。手当てのために触れた佐助の身体はひどく冷たかった。刻む鼓動が弱々しく、またやけにゆっくりであったのは、体力を温存しようとしてのことだろうか。
正直なところ、身を繋ぐような間柄であるにも関わらず、いまだこの忍のことはよくわからなかった。
考えても詮ないことと割り切っているつもりで、ときおり顔を覗かせる、それは厄介な棘だ。
新たな薬の調達と、目の前の身体をあたためることと、その両方を天秤に掛け、小十郎は後者を優先した。
桜の季節になったとはいえ、まだ夜には冷え込むこともある。
意識を取り戻させることが出来れば、傷の方は佐助本人がなんとかするだろう。
小十郎は黒龍と脇差しとを傍らに並べ置き、諸肌を脱いで佐助のとなりに身を延べた。生憎、いまここには暖をとるための道具が充分には揃っていない。
脇腹の傷に障らぬようにと反対側から、そしてなるべく触れ合う面積が多くなるよう上体を伏せる。触れた途端、死人(しびと)かとまがう冷たさに跳ね起きそうになるが、そこはぐっと堪えて更に肌を密着させた。
佐助が何者かに追われていたのであろうことを思えば、眠ってしまうわけには行かない。が、意を決するまでもなく、触れる塊の冷たさが小十郎にそれを許しそうになかった。