縁累ぬる獣、二尾:サンプル

「竜の右目が行方知れず⋯⋯?」
 諜報を目的に奥州へ放っていた部下によってもたらされた一報に、武田軍真田忍隊隊長・猿飛佐助はわずかに瞠目し、すっとその面から表情を消した。
 伊達軍が、一度は総べたはずの奥州に於いて蘆名との交戦中、南部・津軽・相馬三勢力から同時に反旗を翻され窮地に陥っているとの情勢が伝えられた直後のことだ。
 その戦場(いくさば)に軍師・片倉小十郎の姿がないという。
 状況報告を終え、ふたたび己の持ち場へと戻っていく部下と入れ違いに、最新の情報を上げるため、佐助は大将・武田信玄のもとへ向かうべくその場から跳躍した。そろそろ主・真田幸村が薩摩へ出立する頃合いでもある。見送らねばならない。





 南へと加勢のために発つ主の姿を信玄と共に屋敷の屋根上より見届けて、その場を辞した佐助は手甲に覆われている己の手指に視線を落とした。五指の先が冷え、先刻からずっと痺れたように感覚をなくしている。
 佐助の両の手指は五指すべて、その先端が青黒く変色していた。毒に対しての耐性をつけるため、幼いころから微量の毒を服(の)み続けてきたことがその原因だ。指先だけでなく、赤茶けた頭髪の色もこの毒の服用に因る。
 忍として任務に就いているあいだは基本的に手甲を装着しているため素手を晒すことはごく稀なのだが、小十郎は他軍の将の身でありながら佐助の指のことを知る数少ない存在だ。
 せんだって、設楽原で明智光秀の襲撃を受けた伊達軍が武田屋敷に身を寄せることとなった折り、小十郎は部下三名の命を救うために松永久秀と対峙し、仕掛けられていた香炉の毒に冒された。武田屋敷に引き上げた後、毒の作用のぶりかえしに苦しんでいた小十郎を、佐助は解毒剤を調合することで助けたのだが、その看護の際に変色した手指を見られ、理由を説明した、という経緯がある。
 気味が悪いだろうと慮り視界から隠すように握り込みもしたのに、小十郎はその指を悪くないと言い、佐助がその指で触れることを許した――どころか、むしろ積極的にそうすることを望まれさえした。
 それが妙に佐助の意識にとどまり、忘れ難い存在になってしまったのだ。
 第六天魔王・織田信長に引導を渡し、伊達軍が奥州へ引き上げることになった前夜、しのび込んだ客間の一室で、佐助が小十郎と肌を合わせたのも、身体を介してでも繋ぎたい縁があったからだ。
 ただし、当時そこまでのことを佐助が考えて行動していたのかと問われれば、それは違うと答えなければならない。あのときは、このまま何事もなく別れることは出来ない、言葉を交わすだけでは知り得ない何かをわかりたい、そう感じていた程度だ。結果、肉を交えて己が何を知り得たのかは、佐助自身にもわからないままだったのだが。
 だから、更に後日、越後への遣いの帰りに奥州へ足を伸ばした佐助は、二度目の逢瀬に望みを賭けた。
 小十郎からの誘いに応じるかたちで肌を重ねた後、なぜ自分と閨を共にすることを許すのか、厭わぬのか、それを問う佐助に、気持ちの良いことは嫌いじゃない、と答えた男のそれは嘘ではないにしろ理由のすべてでもなかった。佐助自身、うわべの建前だけを教えられたと気付きはしたのだが、それ以上の追求はしていない。
 理由を突き詰めることに意味がないとは思わない。だが、知らぬままでも続けていけるのならば、この関係を維持することの方がそのときは重要に思えたのだ。
 こうして、真意を聞き出すことを諦めはしたものの、関係そのものを積極的に解消しようという意思は無論なく、二度目の逢瀬以降も、佐助が奥州へ小十郎を訪ねるというかたちでふたりの関係は細く続いていた。





 そんな彼らが最後に顔を合わせ言葉を交わした場所は川中島。
 圧倒的な数的有利で豊臣軍に包囲され、対峙していた武田・上杉両軍と、そこを突破しようとしていた伊達軍とが、もろとも絶体絶命の窮地に立たされたときのことだ。
『猿飛、伝令を頼む』
 佐助に策を授け、小十郎は彼の主と共に、豊臣秀吉・竹中半兵衛の両名に挑んで時間をかせぎ、見事、三国数万の兵馬をその場から離脱させることに成功した。
 あの後、彼らは無事に奥州へ帰還した筈だ。
 武田軍がそうであったように、伊達軍にも豊臣の手の者が内通者として紛れていたに違いないが、燻り出す前に仕掛けられたということなのだろうか。
 それにしても、行方知れずとは穏やかではない。
 浅からぬ縁を結んだ相手だ、小十郎の安否が気にならないといえば嘘になる。だが、もしも死亡したのであれば、その情報はすぐ己の耳に届くだろう確信が佐助にはあった。あの男の才能と立場ならば、その死は噂の段階であっても必ず周囲に漏れ伝わる。伊達軍における彼の重要度は敵将誰しもが認めるところで、死んだとあらば、機有りとみて奥州へ兵を進める軍が現れるだろうことも必定だ。
 もっともそんな噂は、
「嘘でも聞きたくないけどねえ⋯⋯」
 指先に痛みが走ったような錯覚をおぼえ、内頬をわずかに噛んで耐える。視界が蒼く揺らぐのは、血の気が引いている証拠だ。そんな思わぬ動揺ぶりに、いかに自分があの男に嵌っていたのかを改めて突き付けられたようで、佐助は己の意外な情動を知り、我がことながら驚いていた。
「右目の旦那⋯⋯」
 ――無事でいてくれよ⋯⋯。
 正確な情報を得るために自ら動きたい気持ちも当然あったが、幸村が甲斐を離れたいま、佐助は自由が利かず勝手ができない。それが助太刀のためにか信玄からの言を伝えるためにかは判らぬものの、いずれ幸村を追うような事態にもなりそうだ。なにせ忍のあしは早馬よりも速い。
 ともあれ今は己の任務をこなしながら配下の報告を待つしかないだろう、そう自分に言い聞かせ、抗議する指先を宥めて佐助は前を向き歩き出した。