ウタゲのツヅキ:サンプル

 月の丸い宵だった。
 障子に映る庭木の影は輪郭をおぼろににじませ、重く水気を含んだ風がそれらをあやしく揺らしている。
 ふと、庭から聞こえていた蛙(かわず)の鳴き声が途絶えたことに気付き、書状をしたためていた筆をとめて小十郎は文机から顔を上げた。
「⋯⋯」
 しばらく目蓋を伏せ耳をそばだててみたが、これといった異変は感じられない。じきに蛙の声も戻って来た。
 それでも刹那の変化を捨て置くことが出来ず、座の傍らに備え置いていた黒龍を引き寄せて立ち上がる。障子に手を掛け勢いよく引き開けると、前庭の飛び石と飛び石とのあいだに忍装束に身を包んだ黒い塊がひとつ、じっとうずくまっているのが見えた。
 佐助だ。
「忍、そこでなにしてやがる」
 口を開いた途端、鼻孔をかすめた濃く甘い鉄錆びた臭いに小十郎は眉をしかめた。
「てめえ、どこか怪我⋯⋯」
 小十郎が言いかけたのを遮るように、黒塊がゆらりと起き上がり人の輪郭をかたどっていく。そうしてふらりふらりと近づいて来る、そのおぼつかなげに見える歩みの揺れに合わせ、黒くたゆたう影が忍の身体を包み込み始めた。
 その見知った光景に、小十郎はチッと鋭く舌打ちすると諦観の面持ちで天を仰いだ。
 闇が眼前に迫っている。
 ざわ、と蠢いたのは裡なる獣の狂気。
 小十郎の中で眠る猛獣は、佐助の連れて来る闇に呼応して目覚めるらしい。
 小十郎は微動だにせず、息を潜めて待った。
 いま在るこの正気とて、じきに保っていられなくなることを経験上知っているが、腕力で勝てない現実への、それがせめてもの抵抗だ。
 馴染んだ悦楽を反芻した記憶が腹の底を熱くして、捕らえようと伸びて来る腕にさえ昂ぶりを覚え、戦きが背を走る。
 抗うだけ無駄だということは、既に骨身に染みて知っていた。