ケモノのウタゲ:サンプル

「やっぱりあんたが来たね」
「!?」
 不意に背後から掛けられた声にぎょっとして振り向けば、草木色の装束に身を包んで佇む男がひとり。
「てめえ! 武田の⋯⋯!」
 ――忍!
 呆けていたわけではないのに、むしろ神経を研ぎ澄ませようとしていた矢先であったのに、この男の気配をまったく感じ取れなかったという現実に、小十郎の背筋は凍りついた。もっともその動揺を相手に悟らせる愚までは、かろうじて犯さなかったが。
「嬉しいなあ、覚えててくれたんだ?」
 ろくに口利いたこともなかったのにねえ、と言ってにんまり笑ってみせた男の名は猿飛佐助。幸村の配下である真田忍隊の隊長だ。
 政宗が幸村と相まみえた前(さき)の戦で、幸村の従者として共に戦場にあり、草の者であるにも関わらず隠れるどころか堂々と姿を現し、あまつさえ高らかに名乗りまで上げた奇異な存在。それは強烈な印象として小十郎の記憶に刻まれていた。
「あんた、竜の旦那を連れ戻しに来たんだよな?」
 佐助が一歩距離を詰めるのへ、いつでも応戦できるよう、自然な所作で黒龍の柄に左手を掛けつつ、小十郎は一歩あとずさる。
「せっかく奥州から遥々ここまで再戦のために来たんだ、もうしばらく待っててやってもいいんじゃない? ウチの旦那もそれを望んでる」
 小十郎と佐助との間合いは刀であれば射程圏外だが、この忍の得物は大型の特殊な手裏剣であった筈で、先刻、声を掛けられる前に、もしもそれを投げ付けられていればと想像するだに肝が冷える。
「それでも邪魔するっていうんなら――」
「その気はねえよ」
 つづく佐助の言葉を小十郎が遮った。
「だったらいいけど」
 おどけた表情で肩を竦めて見せた忍は、しかし次の瞬間、ひと癖もふた癖もある食えない笑みをその片頬にひらめかせ、
「まあ、もっとも――」
 何もしないでただ眺めてるだけってのも芸がないよねえ?
 ガシャンと重い音を響かせて、佐助の右手が大手裏剣を掲げ持つ。
「⋯⋯そうだな」
 佐助の科白をみなまで聞く前に、彼が何を言おうとしているのかが何故だか判ってしまい、小十郎も釣られるように黒龍を抜き放っていた。