・狢穴



 ひとあしごとに命が流れ出して行く。
 止血の処置はしたが充分でなく、左の上腕部からじわりと滲む体液が脇腹を流れ、脚を伝って地面にちいさな血だまりを作っていた。
 任務は完了済み。報告と救援とを先に帰した配下の忍に託してある。武田の領内にまで戻って来たいま、迎えもじき到着する筈だ。
 死ぬことはないと経験則でわかっていたが、ぎりぎりの状態であるのもまた事実で、だからこそ歩きながら走馬燈もどきを見るなどという、我ながら器用な真似をしているのだろうと冷静に分析してみる。
 走馬燈に見るのなら、主・幸村の姿だろうと想像していた。
 なにせ、彼がまだ弁丸と呼ばれていた幼少時から仕えている。当時は自分もまだ子供で、痩せた胴体にひょろりと長い手足を持て余していた。佐助にとって幸村はそのときからこんにちに至るまで、唯一無二の主だ。
 事実、佐助の思い出の中で、弁丸の姿が元服を迎えて青年となり、現在の真田幸村のそれになる。
 ゆっくりとひとつまばたきをした次の瞬間、視線の先、木立の向こうに血肉を伴った走馬燈の続きが現れた。
 やっと迎えが来たらしい。
 それにしても主自らおでましとは。後で説教してやんねえと。
 忍はにやりと笑い、相手を安心させるために右手を挙げてみせる。血塗れなのはご愛嬌。夜目にしかとは見えまい。
 これで本当に任務完了である。安堵して、その直後、佐助の脳裏をよぎったのは主のそれではなく、片頬に傷を持つ不機嫌そうな男の横顔だった。





 数日後、佐助の姿は奥州にあった。怪我はまだ完治していないのだが、既に忍としての戦線には復帰している。
「あんたが俺様の走馬燈に出て来たからさ」
 忍がそう言ったのは、なぜここにいるのかを、記憶とたがわぬ不機嫌面の男に訊かれたためだ。
「なんだそれは」
 正直に答えたのに、問うた男は納得しなかったらしい。
「夢だか走馬燈だか知らんが、見たのはてめえの勝手じゃねえか」
 俺の知ったことか。
 素気なく斬り捨て、伊達の軍師はきびすを返す。
「⋯⋯つれないなあ」
 片足をつけて屈んだ樹の枝の上、佐助は己の膝に肘を預け、顎を支えて溜め息をついた。
 見下ろした視線の先には、畝と畝の間で鍬を操る農夫姿の男の背中。
 佐助にとっての片倉小十郎は、彼の主・伊達政宗の傍らに控える姿で記憶されていた。
 主を仰ぐ視線は自分のそれとも似て、従者という立場に親近感もある。しかし、やはり武士は武士。それぞれが歩んできた道はずいぶんと違う景色を見せることだろう。
 家臣の鑑。
 理想の腹心。
 世間から聞こえてくる評判はそんな褒め言葉のたぐいばかりで、佐助もそれを疑ったことはない。主同士の暴走を横目に、互いの主の邪魔をさせまいと牽制し合って刃を交えた際、なかなかに好戦的であることを知り、品行方正なだけの男ではないと認識を改めはしたものの、そこに面白みを感じこそすれ意外とまでは思わなかった。
 だが、よもや野菜づくりが趣味だなどと、こんなのは予想外だ。
 昨日今日に始めたお遊びでないことは、年季の入った道具の様と堂に入った鍬使いとで容易にわかる。
「右目の旦那」
「なんだ」
 呼べば律儀に返事をかえすのがこの男らしい。
「また来るよ」
「⋯⋯勝手にしろ」
「うん、そうさせてもらう」
 今際の際に見るという走馬燈に小十郎が現れた、その理由がわかるまで、それが無理ならば諦めがつくまで、またここへ足を運ぼう。そうと密かにこころを決め、佐助は甲斐へ帰還すべく膝を伸ばした。





 忍の気配が背後から消えてもしばらくは手を休めずに鍬をふるい、畝をひとつ均し終えてようやく小十郎は顔を上げた。ぐっと背を反らし、疲れた腰を伸ばす。
 コキ、と肩を鳴らして首を回しながら、
「なんなんだあの忍は」
 ぽつりと零した独り言を聞くものは誰もいない。
 越後への遣いの帰りだと言って不意に姿を見せた武田の忍とは、これまでにいくどか、戦場や主同士の気まぐれな私闘の場で顔を合わせたことがあった。ついでのように手合せもしたが、あの男の走馬燈に出るほどの執着を生む何かを残した覚えは小十郎にはない。
 強いて挙げるなら、忍は苦手だと告げた、その言葉くらいだろうか。まさか、その程度のことが記憶に潜む強い興味に繋がるとも思えないのだが。
 小十郎の佐助に対する認識は、面妖な忍、この一言に尽きる。
 忍としての能力については諜報・戦闘ともに一級品であると、これまでの戦の中で見聞していたが、なにせ目立つのだ。忍ぶという言葉があれほど似合わぬ草の者を、小十郎はほかに知らない。
 お天道様の下を堂々と大手を振って歩く様を、見る者に異様と思わせない、それが既に異様だった。訳のわからない奴だというのが第一印象で、その感想はいまも変わっていない。
 走馬燈に出て来た道理を知りたいなどという理由で、決して近くはない奥州にまで足を運ぶ、そんなところもまったくもって理解できないものだ。
「面倒なことにならなきゃいいが⋯⋯」
 無意識に声に出してしまってから、小十郎は自分の言葉に顔をしかめた。
 既に厄介事に巻き込まれているのではないのか。
 あの男の興味を引いてしまったらしいことが、小十郎には正直煩わしかった。





 宣言通り、佐助はことあるごとに奥州へと足を向けるようになっていた。
 やれ越後への遣いの帰りだとか、やれ政宗宛の主の私的な文を届けに来たついでだとか、そのときどきで経緯は違えど任務を完遂したその帰り途には、必ず小十郎の姿を捜し出し声を掛けて行く。ときには言葉を交わす時間すらなく、目の前から掻き消えるように去って行ったこともある。
 そうまでして顔を見せることになんの意味があるのか、熱心さを当の小十郎には呆れられもした。
 これではまるで、小十郎の意識に己の存在を刷り込もうと必死になっているようではないか。
 顔を合わせ、言葉を交わす機会が増えれば増えただけ、情が沸き、深くなる。事実、小十郎はこの忍の存在を無視できなくなって来ているのだが、佐助はそのことをまだ知らない。
「てめえんとこの忍隊ってのは人手不足なのか」
 畑をたがやす手を休めることなく、視線を畝に向けたまま、小十郎が背中で口をきいた。
 この日もまた、佐助は小十郎の前に顔を出し、邪魔にならぬよう樹の上で男の農作業を見守っていた。
「なんで?」
「怪我人を駆り出さなきゃならねえくらいには忙しそうだと思ってな」
「⋯⋯えーっと?」
「ここは戦場じゃねえんだ。物騒な匂い、撒き散らされちゃ迷惑なんだよ」
 佐助は思わず肘を折り、自分の腕を鼻の前にかざしていた。手当は既に済ませているのだが、血が流れる程度の怪我を負っていたのである。
 気付かれているとは思わなかった。
「その匂い、命取りなんじゃねえのか」
 しかもどうやら気遣われてさえいるらしい。
「手当はしてんだろうな」
「大丈夫」
「ならとっととここから立ち去れ」
 血の匂いが染みついた野菜なんざ食えたもんじゃねえ。
 追い払う口実としては随分お粗末だが、意図は充分に伝わる。
 手負いの身で領地外にいることがどれだけ危険であるか、わからぬ互いではない。
「俺様心配されちゃってんの⋯⋯?」
「⋯⋯てめえがそうさせてんだろうが」
 否定されなかった。
 佐助は目を丸くして男の後ろ姿を見下ろす。鍬を操る挙措に変化は見られない。
 またひとつ、意外な一面を知ってしまった。
 知れば知るほど、ますます目が離せなくなってしまう。
 ――あんたが悪いんだ。
 そう、この男が悪い。
 目が離せないのは自分のせいじゃない、そうさせてくれない相手が悪いのだ。
 聞けばどんな理不尽かと眉間に皺を刻まれそうな言い草だが、佐助は本気でそう思い始めていた。





 いつぞやの訪問時、小十郎に、太陽の下を闊歩する変な忍だと言われ、なるほど、と佐助は感心した。その直後、それでかも知れない、と不意に思い至った。
 つまり小十郎は佐助にとって、こうであったかも知れないもうひとりの自分、というやつだ、と。
 似た立場にあるからという理由で勝手に親近感を覚えていたのは確かだ。
 だが、小十郎は忍ではなかった。それが、佐助と小十郎との決定的な違いだ。
 表街道を歩くところまでもが同じであっても、佐助は忍で小十郎は武士。
 自分にはないものがある筈で、そこに惹き付けられるのだ、きっと。
 腑に落ちた。
 そう思った。
 けれど、当初の目的を果たして尚、佐助の足は奥州から遠のくことがなかった。





 馬鹿な忍だと思う。
 勘違いをしているのだ、とも。
 美味い酒が手に入ったのだと、越後の濁り酒を手に現れた忍を見たとき、小十郎は内心に嘆息していた。
 完全に囚われてしまったと気付いたのだ。
 自分が、ではない。佐助が、である。
 いつの間に、こんなぬるい関係が築かれてしまっていたのだろう。佐助は当初の目的を忘れてしまったのだろうか。それとも、あの理由を既に見つけていて尚、交流を続けようとしているのか。
 どちらにせよ、これは無用の交遊だ。
 走馬燈云々のきっかけさえなければ、深く関わることもなかっただろうに、これでは自ら縛られに来たようなものだ。
 忍がそんな有様でどうする。
 本当に、
 ――馬鹿な忍だな⋯⋯。
 小十郎には、あの忍がまだ知らぬ裏の顔がある。
 このまま小十郎のもとへと通い続けていれば、いずれはそれを直に知る機会もあるだろう。
 そのとき、自分はあの男を幻滅させるのかも知れない。
 あの忍が小十郎に重ねて見ているらしい幻想と願望とを考えれば、それは想像に難くなかった。
 そのことに胸が痛み、そんな己の情動に困惑する。
 がっかりさせたくない。
 裏切りたくない。
 失望させたくない。
 すっかり絆されてしまっている。
 こころの変化に戸惑いが生じる。
 気遣ってどうするというのだ。それが現実である以上、隠し立てすることに意味はない。そう遠くはない未来、それは必ず露見する。
 もっとも、知る機会を得たなら、おそらく佐助の己への興味も失せるだろう。
 そうありたかったという理想でも、そうであったかもしれないという幻想でもなく、同じものだと知ってしまえば。
 忍の感傷にまでいちいち責任など取れない。
 ならば、そのときが来るまで、付き合い続けるのも悪くはないのかも知れない。
 期限を区切ることで、小十郎は己の甘さを自分に許した。





 月影の薄い夜だった。
 伊達領内の山中にその姿はあった。
 背後から袈裟懸けに切り捨てられた死体がひとつ転がっている。
 その傍らに、佐助が捜していた男の姿。
 だらりと体側に垂れ落ちた左腕の先には、血のしたたる一振りの刀が握られていた。
 かすかに漂う酒の匂い。
 既に息のない男は、おそらく、この先にある小十郎の屋敷で酒の席に招かれていたのだろう。その酒宴が終わり、屋敷の主に見送られてここまで来た。
 そして、斬られた。
 騙し討ちに。
 佐助は視線を足下の屍に落とし、無意識に唇を噛んでいた。
「⋯⋯これはあんたの役目なのか?」
 低く、醜く、声がひずむ。
「なんの話だ」
「あんたみたいな身分の人間がするべきことかって訊いてるんだよ、右目の旦那」
 小十郎の顔が肩越しに樹上の忍を振り仰ぎ、目を眇めた。
「⋯⋯忍、何を怒っている」
 心底わからない、という貌だ。
「⋯⋯」
 佐助はギリリと歯噛みする。
 これは怒りだ、殺気とも紛うほどの。
 綺麗事の通用する世界に生きていないのはお互い様だと知っていた、つもりだった。それでも、自分とこの男とは同じである筈がない。とてもよく似てはいるが、根本が違う。この男は、手を汚すことが当然の自分とは違う存在である筈だ。自分の棲む、昏く淀んだ世界とは異なる次元に生きている筈――。
「あんたが直に手を下す必要はなかった筈だろ⋯⋯?」
 込み上げて来る激しい情動が、返って佐助の声を低く抑えさせている。
「生憎だがな、忍」
 それは恐ろしく醒めた声だった。
 視線を佐助から骸へと戻すと、小十郎は無造作に左手を振るった。
 血飛沫が散る。
「てめえが俺をどう思っていようとてめえの勝手だが、俺はあの方のためになることなら――ひいて伊達軍のためになるなら、何だってするさ。それがどんな非道でも、な」
「お天道様に顔向け出来ないようなことでも、かい?」
「それをてめえが言うのか」
 小十郎の肩が震え、せせら笑う音が木立に響く。
 その嘲笑は誰に向けられたものだっただろう。
 ふたたび小十郎が佐助に視線を合わせる。
「なあ、忍」
 かすかに傾げた首が、ひどく歪んだ表情を支えていた。
「望むべき相手を間違ってやしねえか? ⋯⋯てめえがそれを願うべき相手は俺じゃねえ。そうだろう」
「⋯⋯」
「お綺麗なままで床の間に飾っておきたいだけならほかを当たりな」
 それに付き合ってやらなきゃならねえ義理は俺にはねえんだよ――。
 言い捨てた小十郎は刀身を鞘に納めると、遺骸を残してその場から立ち去った。





 佐助は地面に降り立ち、屍の前で膝を折った。
 ――俺様はいつ見誤った?
 あの男は、そうであったかも知れないもうひとりの自分などではなかった。
 気付いても良かった筈だ。
 そんなものに自分が惹かれる訳がないのだ、と。
 あれは、あれこそが。
 共に堕ちてくれる、同じ地の底まで堕ちられる存在ではないか。
「なぁんだ⋯⋯」
 ふっと佐助の表情がゆるみ、双眸が細くなった。
 ――俺様が引き摺り堕とすまでもなかったね。
 にんまりと口端が吊り上がる。
 あの男は既に闇を知っている。暗闇で息を潜めるすべを知る獣だ。
「次に会ったら教えてよ」
 佐助は横たわる骸に腕を伸ばした。
「どこまで堕ちているのか」
 あの男のそれに見立てて、手を首へと。
「どこまで堕ちられるのか」
 鉤爪を持つ忍の指先が男の喉笛に掛かり、ぐしゃりと骨を砕いて握り潰した。








了 2013.05.04発行『狢穴』より再録