「松永ァ――ッ!!」
地を這うような声だった。
血を吐くような声だった。
佐助が耳にしたその怨嗟の音は、片倉小十郎の口から発せられたものだ。
部下である伊達軍のやんちゃな兵士たちを叱り飛ばす声なら幾度も聞いてきた。いや、部下どころか、主である政宗を叱責する場面を盗み見たことも一度や二度ではない。
だが、この男の。
こんな。
こんな、恨みのこもった声音は。
知らない――。
東軍の本隊と合流するために移動を開始した伊達の軍勢がその進行の足をとめ陣を布いたのは、甲斐は武田の領地手前だった。
政宗が、自身生涯の好敵手とする真田幸村との交戦を望んだからである。
もっとも武田軍が石田軍と同盟を結び西軍に属している以上、たとえ素通りしようとしたところでそれが許されよう筈もないのだが。
武田信玄が病に伏してより、武田軍の総大将は幸村が務めている。その総大将を相手に一騎打ちを所望した政宗は、いま戦場の一角で剣戟を響かせていた。
口で諌めたところで従うような主ではない。
小十郎も佐助もそれについては既に諦めの境地に至っている。
納得の行くまで六爪と二槍を交わさせるしか、引き剥がす手立てなどないのだ、と。
更に言えば、今回の交戦はただの私闘ではなかった。伊達軍と武田軍、両軍における戦のその一部であり、その雌雄が軍としての勝敗となる。
これまでには、政務を放り出した政宗が、おしのびで私的に剣を交えに上田を訪れたこともあったが、今回は違うのだ。
なので当然、小十郎と佐助も、戯れでも暇潰しでもない真剣勝負を余儀なくされることになった。
ただし、相手の命を奪う必要がないことも互いの了解の内である。
今日の味方は明日の敵。
その逆もまた然り。
一時的な同盟関係を結ぶことは戦の世の常であるし、ならば敵対する陣営の存在であれ有能で希有な頭脳や技能をもつ者は、生かしておき味方に引き入れるのが最善である。
因って、ふたりの意識は、器用なことに、目の前の相手よりもそれぞれの主の無事如何に向けられていた。
そうして『そのこと』にいち早く気付き、小十郎に確認の声を掛けたのは佐助であった。
「ところで⋯⋯気付いてるかい、右目の旦那」
「ああ」
ふたりの視線は互いの双眸を射抜き合ったまま。しかし、佐助が指摘し小十郎が応じたのは、この戦場に紛れ込んだ異分子の存在について、である。当然たがいの視界のうちには居ない、それ。
けれど、視えている。
「この目に⋯⋯」
小十郎は右目を眇め、奥歯をきつく食い締めた。
「しかと刻み込まれた気配のぬしだ」
まなうらに焼き付いた光景が一瞬にしてよみがえる。
爆風に吹き飛ばされた政宗が崖下へと落ちて行った様。それをまざまざと思い起こさせられ、小十郎は心底忌々しげに顔を顰めた。
あの男とはつくづく嫌な縁がある。
先立っても、豊臣との戦に負けた折、敗走中の古道で出くわしているのだ。
あの男――松永久秀――を前にすると、小十郎は眠らせておいた筈の激情を否が応にも剥き出しにさせられ、暴かれることへの生理的な嫌悪に満たされる。誰を相手にするのとも勝手が違うと感じるのは、かの男に覇権を競う意志がないからだろうか。生きる道があまりにも違い過ぎて、惑うばかりだ。
ともあれ、まずは様子見を、と斥候兼先鋒として疾駆したのは佐助。
小十郎は佐助の策に乗ることを了承し、その場にとどまった。
やがて。
遠隔地より、断末魔を響かせて忍の気配が消えた。
――猿飛!
だが佐助の身を充分に案じる暇もなく小十郎の前に姿を現した男は、これまでそうであったように、今もやはり食えない態度のまま飄々と、小十郎にはとうてい理解できない持論を展開してみせる。
卿は悔いつづける姿にしか価値はない、と。
これほどまでに意思の疎通の成らない相手を小十郎はほかに知らない。
苛立ちにまかせて御託を遮り勝負を挑む。
だが。
なぜこの男には歯が立たぬのか。
またしても梟雄の前に膝を折る結果となってしまった。
男は愉しげな含み笑いをこぼし、ぱちん、とひとつ指を鳴らす。
途端、小十郎の周囲で紅蓮の炎が噴き上がった。
「松永ァ――ッ!!」
松永が呼び込んだ爆破の暴風に巻き込まれた小十郎の、その最後の叫びを佐助は高く聳えた樹木の先端で聞いていた。聞き終えて、とん、と樹の幹を蹴る。くるりとひとつ身を返すと、火薬のにおいが充満する地上へ降り立った。
松永の姿は既に黒煙の彼方へと消えている。
松永と小十郎、ふたりの対峙、その一部始終を忍は木の上からすべて見届けていた。
土埃がもうもうと立ちこめる瓦解した岩の隙間に、叩き付けられたのだろう小十郎が埋ずもれるようにして座り込んでいるのが見えた。
ふらりと近付き声を掛ける。
「右目の旦那、生きてるかい?」
「てめ、え⋯⋯」
まったくの無傷で眼前に現れた佐助の姿に、小十郎は目を瞠り言葉を飲む。
己が耳にした筈の断末魔、あれはいったい何だったのか。疑問は口にするまでもなく顔に表れており、
「あれ分身」
肩をすくめ、佐助はあっさりと手の内を明かしてみせた。
「チッ」
だから忍ってヤツは嫌いなのだ、と悪態をつく小十郎に、これだけ口がきけるのなら大した痛手は負っていない筈だと素早く判断し、佐助は心の内で安堵する。
「ほら、はやく立ちなよね!」
これ以上、松永の好きにさせる訳にはいかない。早急に追いつき、この先の地で雌雄を決しようとしている主たちを護らねば。松永の狙いが、彼が言うところの『愛でたいもの』であることが知れた今、即座に生命の危機に見舞われることはないと思われたが、かと言って、あのふたりが命惜しさに刀と鎧を差し出すこともまた、まったく想像出来ないのである。
「梟の後を追うんだろ?」
「当たり前だ!」
差し伸べられた佐助の手をはたき落とし、瓦礫の中から自力で起き上がるのが小十郎のせめてもの矜持だった。
さして間を置かず、小十郎と佐助が松永に追いつき四人対一人になったところで、さすがに数的不利とみたのか、男はあっさり勝負を捨て、背を見せた。牙を剥く面々を一顧だにせず、泰然と。
もっとも佐助だけは密かに風魔小太郎の助勢を警戒していたのだが、加勢が現れる気配はついになく、松永自身が口にした、既に契約が切れているという言葉の真実が証明される結果となっていた。
そうなれば、対戦に水をさされ興を殺がれた政宗がいの一番に緊張を解いてしまい、六爪を鞘に戻すと、
「勝負はお預けだ、真田幸村」
そう宣言し、幸村に背を向けた。
本陣へと戻る旨を傍らの腹心に告げ、呼び寄せた馬の背に腕を組んでまたがる。
声を掛けられた小十郎は諾と応え、ちらりと佐助に目線を投げて寄越し、けれど何を言うこともなく主に続いてその場から姿を消した。
――右目の旦那⋯⋯。
遠ざかる、雲を被った三日月に目を遣ったまま、佐助は腹の中で溜め息をひとつ。
さて、背後に立ち尽くす空元気の大将には何と苦言を呈すべきか。脳中にひとしきり叱責の小言が渦巻いたが、いや、いまはそれよりも迅速に軍としての戦力の立て直しをはかるのが先決だと思い直す。
抜かりなく策を練り、配下へ指示を飛ばしながら、意識の片隅に居座る澱みの存在が神経を刺激するのを感じていた。
不快の原因ならわかっている。
だから、この混乱の後始末をつけたらすぐにでもあの男を奇襲してやろう。段取りならば既に胆の中にある。
そうして佐助は闇の訪れを待った。
陣幕の中の男は背筋を伸ばし床几に腰を下ろした姿勢でひとり目を閉じていた。人払いがなされているのか、周囲にその影はない。
ざわ、と梢の鳴くさざめきに薄目を開ければ、
「⋯⋯来たか」
それまで何もなかった筈の目の前の空間に影がひとつ。地表から湧き出るようにして輪郭を結ぶ。
「あんたが誘ったんだろ? だから」
俺様参上、ってね。
天空に架かる月は下弦の半月。
月影を背に軽く首を傾げる仕草で掴みどころなく笑ってみせた忍は、
「で、俺様に何用?」
一刻も時間を無駄にしたくないのだ、と暗に匂わせる性急さで小十郎の顔を覗き込んだ。忍の身でありながら今は幸村の副将の立場にもある佐助にとって、自身の自由になる時間は限られている。
「手伝え」
小十郎にも無駄口を叩く気はないのだろう、言いながら陣羽織りを脱ぎはじめ、胴宛を外した。
その間に、どこに隠し持っていたのか、佐助が膏薬を包んだ風呂敷を地面に広げる。
「いつ気付いた?」
小十郎の、視線を交わさぬ問いに、
「見てたからね」
と、こちらも風呂敷の上に並べた治療具に目線を落としたまま、佐助が答える。
いつ、ということもない。その瞬間を佐助は目にしていたのだ。
外見上は無事に思われた小十郎だが、爆風に巻かれた際、胴宛の内側にそれなりの衝撃を食らっていたのである。追撃の可否は直後に交わした会話で確認したため、あの場ではそれ以上言及しなかった、それだけのことだ。
両肩を抜いた着物の下の背中には、広範囲に赤味を持った打ち身が潜んでいた。二日もすれば青黒く変色し、やがて外側から薄く黄色味を帯びて消えてゆくだろう痣だ。
「ただの打ち身なのに、なんで俺様呼ぶかな?」
小十郎自身の手が届く範囲には治療を済ませた跡があった。佐助はそれ以外の部分に膏薬を貼り、細かな傷には丁寧に軟膏を塗り込めていく。
「独眼竜に見せられないっていうのはわかるけど」
主の手を煩わせるなど有り得ないことだが、部下に命じて手当てするくらいは出来るだろうに。
「てめえが何か言いたそうだったからな」
きっかけをくれてやったのだ、と涼しげな横顔が告げる。
「⋯⋯バレてたの」
「そういうことだ」
なるほど、見透かされていたのか。
佐助は小十郎の背後で苦い笑みを隠す。
「で?」
何が懸念なのかと一音の尋問。
「あんな声、初めて聞いたからさ」
「あんな?」
言われても小十郎には何のことだかわからない。自然、眉間にしわが寄る。
「あんたに独眼竜以外への執着があるなんて知らなかったよ」
佐助の耳の奥、松永の名を叫んだ男の声が再び響く。
「⋯⋯」
執着、か。
小十郎はその言葉を舌の上で転がしてみる。
なんとも据わりの悪い言葉だ。
自身には自覚がなかった。能動的に思い出す相手でもない。こちらから執着しているというよりは、顔を――こちらは望んでなどいないのに――合わせるたび、否応なく起想させられる、というだけだ。苦い過去をいつまでも、繰り返し繰り返し。
ふだんは意識することのない場所に刺さる小さな刺。ふとしたはずみに痛みを感じ、そうして初めてそこにあることを思い出す、そんな類いの。致命傷には成り得ないが、小さ過ぎるがゆえに抜くこともできず、煩わしい思いをしている。
「そんだけ厄介な瑕をあんたに残したってことじゃないのさ」
「⋯⋯」
佐助の言葉どおりだとして。
ならば。
「忍、てめえ何を拗ねてやがる」
先程からの忍の言動の根本にあるものはどうやら、そういうこと、らしいのだ。
背後にいるため佐助の顔は見えないが、小十郎の想像通りであれば、唇を尖らせてさえいるかも知れない。
忍は答えない。
それが、自覚があるからなのか、それとも図星をつかれて言葉がないからなのかはわからない。が、
「てめえはときどき本気で面倒臭くなるな」
小十郎は呆れている。
なにそれひでぇ! と背中から抗議の声が上がり、手当てを済ませて道具を片付けた佐助が小十郎の正面へ戻って来る。
肩を抜いていた小袖を元通りに着直し、小十郎は床几に座ったまま忍の顔を見上げた。
膨れっ面をこそしていないが、やはりわかりやすく拗ねている。
そのことに、口元がほころんでしまうのは何故だろう。
「てめえはどうしたい?」
おだやかな笑みを湛えたまま、首を傾げ問いかける。
憮然と唇を噛んで佐助は顔を背けた。
「もし同じ瑕を刻みてえんなら――」
政宗に危害を加え得たなら、小十郎が松永に向けるそれと同じ怨恨を佐助も受けることになるだろう。そんなことは忍にもわかっている。
「もっともそんな真似は」
この命を賭しても許しはしねえが、な。
「右目の旦那⋯⋯あんたわかってない」
佐助は首を振った。
同じ瑕を刻むことには意味がないのだ。
己だけの唯一、特別でなければ。
「そうか?」
――それは違う筈だ。
松永の唯一を唯一たらしめているものをまず消さなくては、いつまでもそれは特別なひとつとして存在してしまう。
だが、佐助がそうでないと言うのなら。小十郎には訂正してやるべき義理もない。
ならば、むしろ、
「てめえはもう少し自惚れろ」
そう言って、小十郎は立ち上がった。
顔を正面に戻した佐助と目を合わせる。
「てめえじゃなけりゃ呼んだりしねえ」
人払いまでして、要りもしない手当てを口実に敵方の忍を陣幕の内に引き入れるような行為を、ほかの誰に許すというのだろう。
「それに」
小十郎の左腕が伸び、佐助の首裏に回される。
引き寄せる力に逆らわず、佐助の顔が目と鼻の先にまで迫った。
――てめえにだけだからな、こんな真似を許すのは。
くちびるにあたたかくかさついた感覚が触れる。
「狡いお人だよね、ほんと」
溜め息が肌に届く距離で佐助が嘆く。
こんなことで懐柔されてしまう自分も忍としてどうなのか、と自嘲の笑みさえもう遠い。
お互い様だという言葉を飲み込んで、小十郎は佐助に触れていた手を離した。
似合わない嫉妬をいとおしく感じてしまうくらいには、自分も大概いかれているのだ、この男に。
了 2012.10.07発行『瑕と病』より再録