・親鳥と雛鳥



「おはようございます、弁丸さま。朝餉をお持ちしましたよ」
「うむ。入れ」
 薄い紙越しに掛けられた、幼い主からの許可を与える言葉を聞き、廊下に膝を着いて待機していた佐助はするりと障子戸をすべらせた。床から膳を取り上げて、主の待つ室内へと足を踏み入れる。
 ふたたび床に膳を置き、膝を着いて障子を閉め、また膳を掲げて立ち上がる。
 ――お武家さまの行儀作法ってのはどうにもまどろっこしくていけないね。
 内心ではそう嘆息している忍だが、もちろんそのような不満を面に出すことはしない。
「待ちかねておったぞ、佐助!」
 部屋の上座、一段高くしつらえられた畳の上で待っていた幼子は、その言葉のとおり待ちきれぬというていで身を乗り出していた。
 朝の身支度などは侍女たちの手によって既に終えられていて、いまこの場に於いて佐助は食事の手伝いをすれば良いだけだ。
 佐助は主の前へ足高の膳を据えると、かたわらに座して椀と匙を手に取った。吸い物をすくって口元へ運べば、あんぐと大きく歯列を開いて弁丸が匙を迎え入れる。
 実はいま、弁丸の小さな手は両方とも晒しで覆われていて、匙を持つことがかなわぬのである。昨日の鍛錬の最中、炎を暴走させて火傷を負ってしまったせいだった。





 佐助が弁丸に仕えることが決まったのは、この年の正月であった。
 もともと佐助の属する忍の集団は武田軍の支配下に置かれていたのだが、弁丸が異能持ちであることが判明してから、直接彼に仕える者を選ぶようにとの命が忍頭に下っており、それを踏まえた上で白羽の矢を立てられたのが佐助であったのだ。
 弁丸と年齢が近いこと。
 機転が利き、忍としても優秀であること。
 異能を制御するすべを指導できること。
 これらの条件を満たす者として、佐助が最適と見なされたらしい。
 まだ幼い弁丸は感情の起伏が激しく、激昂するままに炎を暴走させてしまうことがよくあった。更には己の身から発せられるその炎をうまく操れず、自身が怪我をすることもしばしばで。
 佐助が弁丸の従者となって八ヶ月余が過ぎたが、目に見えて回数は減ったものの、いまだにそのような事故が起きてしまう。
 それでも最近は、全身を炎に包まれるような暴走を起こすことはなく、せいぜいが槍を中心にして腕に火傷を負うだけで済んでいるのだが。
 昨日のそれは佐助が目を離した隙に起きた惨事だった。
 今日の鍛錬はこれまでですよと言い含め、佐助が屋敷の裏手にある井戸へ水を汲みに行ったわずかの時間、言いつけを守らなかった弁丸が、疲労をおし、もう一度だけ、と修練用の刃のない二槍を手にし技を繰り出したのがいけなかった。
 屋敷表の庭から子供特有の甲高い悲鳴が聞こえ、よもや、と水を汲んだ桶を放り出して駆けつけた佐助の目に飛び込んで来たのは、危惧したとおり、両腕を炎に捲かれてしゃがみ込む弁丸の姿であった。咄嗟に忍術で呼び出した水を全身に浴びせかけたので大惨事は免れたが、やはり無傷というわけにはいかず、弁丸は両手に軽度の火傷を負ってしまったのだ。
「弁丸さま!」
 もうこれで今日の鍛錬はおしまいだと宣して聞かせた筈なのに、なぜ言いつけを守らなかったのか。こんなことになるのなら、井戸まで弁丸自身を連れて行き、そこで汗の始末をしてやれば良かった。いくら言って聞かせたところで相手はまだ子供である、素直に言うことを聞くとは限らない。これまでにもそういうことはあったのだ。解っていた筈なのに、迂闊にも目を離した自分の軽率が、佐助自身許せない――。
 と、思うことは山ほどあったが、すべては名を呼ぶ声に集約され、具体的な言葉にはならなかった。
「すまぬ⋯⋯弁丸が悪かった」
 佐助の言うことを聞かなかった自分が悪いのだ、としょんぼり項垂れた弁丸はすっかり濡れ鼠のていである。
 初秋とはいえ信州の山中では日暮れと共にぐんと気温が低くなる。はやく手当てをして着替えもさせなければ、風邪をひかせてしまうだろう。
「立てますか」
 火傷を負った手を掴むことは避け、細く頼りない胴に腕を巻きつけるようにして弁丸を抱き上げると濡れ縁まで運び、
「手拭いを持って来ますから、大人しくしてて下さいね」
 優しく言い置き、着替えと薬を用意するため、佐助は屋敷の中へと入って行った。





「佐助はもう朝餉を食うたのか?」
 咀嚼の合間に問いかけてくる主に、佐助はいいえと首を振った。
「ならばここで共に食えば良い!」
 名案を思いついた、と言わんばかりに顔を輝かせる主に、
「なに言ってんですか、そんなこと出来るわけないでしょ」
 俺様忍ですよ、どこの世界に主と膳を共にする草の者がいるんです? と佐助は呆れ顔で諭し返す。
「身分と立場をわきまえて頂かないと」
「そういうものか⋯⋯」
「そういうものです」
「だがひとりで食うてもつまらぬ」
 想いのまま口をとがらせる弁丸に佐助は苦笑し、
「いまは俺様が居るでしょうに」
 共に食しているわけではないが、同席しているのにも違いはない。
「む? そうか、そうだな!」
 言われてみればその通りだ。
 単純なもので、ぱあっと雲が晴れたように笑って頷いた弁丸は、雛鳥のごとく大きく口を開いて食事のつづきを催促した。佐助もまた、ほんとうに親鳥になった気分で雛に餌を運ぶように食べ物を匙に掬ってはかいがいしく口の中へと流し込む。
 汁物を飲ませた後、食べ易いようにと握り飯にしたものを口元へ差し出せば、ぱくりと勢いよく食いついて来て、そのさまがやけにいとおしく、そしてなにやらひどく不思議な心持ちにさせられる。
 椀も匙も持てず、誰かに世話されなくては食事も満足に出来ない幼い主。
 火傷が癒えるまでの時限と解ってはいるのだが、この瞬間、確かに弁丸の『生』の一部を左右する立場に自分が居るのだと意識してしまえば、なんとも名状しがたい昂揚感が沸き起こる。
 食べなければ人は死ぬ。
 主の生殺与奪の権利の一端に己が関わっているのだということ。そのことに、どうしようもなく心が騒ぐ。
 この主は自分がいなくては生きて行かれぬ――。





 傍らに座す忍が思い巡らせるよしなしごとになど気付こう筈もない弁丸は、もぐもぐと元気よく顎を動かしつつ、たまにならば怪我をするのも悪くはない、そんなことを考えていた。
 槍が握れず鍛錬ができないのは退屈極まりないが、いつもは朝餉に同席などしない佐助がこうして側にいてくれるのなら。
「あらら、ごはんつぶついてますよ」
 勢いよくかぶりつき過ぎたせいだろうか、頬に貼り付いてしまっている飯粒に気付き、佐助が手を伸ばして来る。弁丸が大人しくされるがままになっていると、米粒をひょいと摘まみ上げた指先はそのまま忍の口の中へ消えた。
 それを見て、弁丸はくふくふと笑い出す。
「⋯⋯? なんですか?」
 急に笑いはじめた主に佐助が怪訝な面持ちを向ける。
「いや、なんでもない。はよう次を食わせろ」
 主と従者が共に膳を囲むことなどないと言ったのはこの忍であるのに。
 たかだか飯粒ひとつだが、共に食してくれたことが嬉しくて、弁丸は満面にひろがる笑みを堪えることが出来ないでいるのだった。








了 2012.09.15発行『親鳥と雛鳥』より再録