正月祝いの席が無礼講になって半刻が過ぎた頃のこと、
「そうだ小十郎、おまえにこれをやる」
そう言って、おもむろに政宗が小十郎に向けて差し出してきたのは、海松(みる)色の一本の反物だった。
「質(モノ)が良いんでちょいと前に買い付けてあったんだがな、俺の好みじゃねえんだよ」
粋を愛でる派手好みの主には、確かにこの渋い色味は合わないだろう。だが、戦で手柄を立てたわけでなし、頂戴するに相応しい謂れが小十郎にはない。
「しかし政宗様」
だが、辞退しようと開きかけた臣下の口を、主は即座に黙らせてしまう。
「新年の祝い物だと思えばいいだろ。おまえが要らねえってんなら処分しちまうぜ? こんな渋い色、ウチじゃおまえにしか似合わねえからな」
箪笥の肥やしにして持て余すくらいなら捨てた方がマシ、面倒臭せぇんだから譲渡先を探す気などないぞ、と畳み掛けるように退路を断たれ、しかも、この反物を売りつけてきた相手が長曾我部と聞くに及べば、おいそれと返品を迫ることもできず、
「⋯⋯そこまで申されるのでしたら」
小十郎は渋々ながら受け取ることを承諾したのだった。
「着物でも陣羽織でも好きな物に仕立てな」
そう言って、政宗は莨盆(たばこぼん)を手元に引き寄せると、愛用の煙管を口に銜え満足げに破顔した。
実を言えば、以前にも同じようなことはあったのだ。そのときの一品は真白な生地で、流石にこれはと断ったところ、後日、一着の陣羽織に仕立てられた上で改めて下賜されるに至った。
『小十郎のsizeに合わせて仕立てちまったんだから、これはおまえのもんだ』
やはり突き返すことは適わなかった。
陣羽織などどうあっても汚さずには済まない代物だ。袖を通すことがはばかられてずっと仕舞い込んでいたのだが、仕立てた以上は着てみせろと政宗にしつこく乞われ、数回だけ着用した。案の定、無事というわけにはいかず、着用後、落とせる限りの汚れを落とし、損なった部分をていねいに繕って、今は小十郎の自室の長持ちの中で眠っている。
その日の夕刻、小十郎は大切に反物を抱えて下城した。
屋敷の自室にひとりこもった小十郎は、ためつすがめつ、くだんの反物を腕に広げてみる。
おまえに、と名指しで譲られたものだが、この手の色味が似合う男を小十郎は自分以外にもうひとり知っていた。ただし、それは自軍の兵士ではない。
小十郎の脳裏に浮かんでいるのはひとりの忍の姿で。
――猿飛佐助。
似合うだろうと思うのだ。
とはいえ相手は草の者、である。たとえ着物など仕立てたところで、
「⋯⋯着ねえ、か」
そもそも政宗直々の指名で下賜された物品を、相手が誰であれ再譲渡するなどあってはならぬことだ。一瞬でも心が揺らいだ自分を恥じて、小十郎はひと知れず俯いてしまう。
今回贈られた生地は厚手な上に地味な色合いで、以前のそれに比べれば、はるかに陣羽織向きな代物といえる。
『着物でも陣羽織でも好きな物に仕立てな』
政宗もそう言っていたことであるし、今度も陣羽織を仕立てよう。
気を取り直した小十郎は、屋敷で働く年配の下女を呼びつけると、ひとつ指示を与えて彼女に反物を託した。
下女に仕立てを頼んだ陣羽織が出来上がってから数日が経った日の午後のこと。
「右目の旦那」
「!?」
不意に上から降って来る呼び声にいちいち驚かない程度には、この男の予期せぬおとないにも慣れた筈の小十郎だった。が、流石にこの季節に於ける登場は想像しておらず、びくりと両肩を跳ね上げて天井を振り仰ぐ。
幻聴などではない。視線を向けた先、羽目板をずらして天井裏から逆さに顔を覗かせているのは見慣れた忍装束の男。
「元気にしてた?」
音もたてず室内に降り立った佐助とは、それでもひと月以上ぶりの再会だった。
白い息を吐き、無意識に火鉢を佐助の方へと押し遣りながら、
「てめえはこんな雪の中をよくもまあ⋯⋯」
甲斐から奥州まで、のこのこやって来られるものだ、と小十郎は呆れるやら感心するやら。
「雪さえ降らなきゃどうとでもなるんだよ、俺様にはこころ強い相棒がいるからね」
いざとなれば飛行忍具もあるし、と事もなげに笑い、佐助は火鉢をはさんだ小十郎の真向かいに腰を下ろした。
佐助の言う相棒とは彼が使役している大烏のことだ。
地上を走れと言われては、いかな佐助とて根雪に難儀するのだろうが、空を移動する分には、たとえ季節が冬であろうとさしたる障害はないらしい。あの大烏の飛行力にはつくづく感嘆させられる。まったく有能な相棒だ。
「で、今日は何の用だ」
「年明けのご挨拶?」
なぜか語尾が上がっている。
「ふん」
言ってろ、と小十郎は鼻で嗤い、
「いつ俺とてめえがそんな挨拶交わすような呑気な間柄になった。同盟も和議も結んだ覚えはねえぞ」
と、意地悪く言いつのった。
とはいえ、言動がまったく一致していない。前(さき)の火鉢の一件を指摘されれば小十郎に返す言葉はない筈だ。口では悪態をつく小十郎だが、実際には佐助の訪れを容認しているし、そればかりか持て成しに等しいことまでしているではないかと、誰が見ても思うだろう。
当然、佐助もこの矛盾には気付いているのだが、下手につついて藪から蛇になるのが嫌なのか、敢えて触れようとはしない。
この日も、何気ない顔でぬくぬくと火鉢に手をかざしていた忍は、
「いつもと同じですよー。酒の、差・し・入・れ。ほら」
どこに隠し持っていたのか、竹徳利をひょいと手に掲げて見せ、
「冬はあんたの大好きな畑いじりが出来なくて手持ち無沙汰だろ? まあ一杯やろうよ、ね、旦那?」
屈託のない笑顔で小十郎の相伴を誘ってきた。
いい酒が手に入ったからと、それを口実に佐助がこの屋敷を訪れるようになったのは、どれくらい前のことになるだろう。
佐助はいつだって今日のようにふらりと現れ、小十郎と酒を呑みながらとりとめのない話をし、そしてまたふらりと甲斐へ帰って行く。
最初のうちは、巫山戯た野郎だ、と突っ撥ね、てめえと慣れ合う気なんざねえ、と追い返していた小十郎が、ついには根負けした形で忍の来訪を許し、いつしかふたり静かに酒を酌み交わすまでの仲になってしまっていた。
さあ呑もう、と徳利を振ってみせる佐助に、大仰なため息を形ばかりついてみせ、
「ちょっと待ってろ」
杯を用意しようと腰を浮かせかけた小十郎を、
「旦那、そのまま」
手を挙げて制し、佐助はふところから二つ、竹を切って作った杯代わりの器を取り出して寄越した。
そのうちの一つを受け取りながら、小十郎は苦笑いをこぼす。
「まったく⋯⋯」
この忍の用意周到さ加減には舌を巻くしかない。
「⋯⋯甘酒?」
佐助に注がれた酒をひとくち口に含んで小十郎は首を傾げた。
基本的に小十郎も佐助も好むのは辛口の酒だ。実際これまで佐助が持参した酒も、そのほとんどが辛口だったのだが。これはどういう風の吹きまわしだろうか。
「特に理由はないんだけどさ。なぁんか、そういう気分だったんだよねえ」
「まあ、たまには悪くねえ、か」
常とは違う趣向も気分が変わってたまには良い。
懐にでも入れて運んで来たせいだろう、竹の猪口に注がれた濁り酒は人肌にぬるんでいたが、それが却って味に濃さと深みを与え、飲みでがありそうだった。
「そういや、あれ⋯⋯あの陣羽織、新調したのかい?」
佐助が指差す先には、衣紋掛けに吊るされた、仕立て上がったばかりの海松色の陣羽織がある。
「ああ。つい最近な」
「いい色だね」
あんたによく似合いそうだ。つぶやくように声にして、佐助が目を細める。
その顔を見て、小十郎はあることを思い出し、やおら腰を上げた。
「右目の旦那?」
いぶかしむ声を背に箪笥の前に立つと、一番上の小さな抽斗から何かを掴み出し、火鉢の前へと戻ってくる。
「使うか?」
佐助に向かって小十郎が差し出したのは、陣羽織の生地と同じそれで作られた、大小さまざまな大きさの巾着袋だった。
過日陣羽織の仕立てを頼んだ折、端布を、大きめの物だけ羽織と一緒に納めるよう言い含めておいたのだ。そうして、その余り布で自分用に、潮風――横笛――を入れる袋を作り、それでもまだ幾切れも残っていた生地で、作れるだけの巾着を縫った。
使い途に具体的な宛てはなく、ひとつくらいあの男にくれてやってもいい、と縫い上がった巾着の口に紐を通しながら、小十郎がそのまなうらに見ていたのは佐助の姿だった。
そんなことを思いついたのは、生地の色合いを見て、佐助に似合いそうだと考えたせいだろう。
「いいのかい、俺様が貰っちまって」
上等そうな生地じゃないか。ありがたいけどなんだか勿体ないねえ、と殊勝な言葉が続く。
「構わねえよ、特に何に使おうってんじゃなかったからな」
佐助は受け取った巾着を畳の上にずらりと並べ、その中の最も小さいひとつをつまみあげた。
「じゃあこれを貰おうかな」
「いいぜ。好きに使え」
選んだ巾着を手のひらにのせ、見るともなく眺めていた佐助がややあって首を捻った。
「⋯⋯ん? これ、もしかしてこさえたの右目の旦那?」
「⋯⋯っ」
不意に訊かれて返答に窮する。しらばくれれば良かったものをと悔やんでも後のまつりだ。否定する隙すらも逸してしまえば答えなど誤魔化しようがない。
沈黙は肯定。
「へえ、あんたこんなことも出来るんだ」
しかし、お武家さんらしくないねえ、という佐助の言葉にからかいの色がなかったことが小十郎にとっては救いだったろうか。
「生まれたときから武士だったわけじゃねえよ」
小十郎の生家は武家ではない。言わでもの一言をつい口にして、決まり悪げに小十郎は酒をあおった。
ついでに言い訳をするなら、別段裁縫が得意というわけでもないのだ。だから凝ったものは作れないし、進んで作ろうとも思わない。ただ、ちょっとした綻びを繕う程度のことなら難なく出来た。小十郎の裁縫の腕は、いちいち下女に頼むのが面倒で、必然的に身につき鍛えられた技のひとつなのだ。
「ありがと、嬉しいよ」
佐助は胸元の内側から守り袋のようなものをするすると引き出すと、掛けてあった首からはずし、その長い紐の結び目を解いた。何をはじめる気なのかと小十郎が見守る中で、いま手に入れたばかりの巾着の紐も結び目を解き、その短い紐の片側と、守り袋からはずした長い紐の端とを結(ゆわ)え、巾着の側の紐を引き抜きながら、器用に紐を取り換えてしまう。そうして、守り袋ごと新しい巾着にすっぽり納めると、ふたたび結び目を作って輪にした紐を首からさげた。用無しになった短い紐も拾い上げて袋の中に入れてから、着物の内側へていねいに巾着をしまい込む。
「はい、これで良し、と」
おさまりを確かめるように、ポンと装束の上から巾着のあるあたりを押さえて佐助が頷く。
「大事に使わせて貰うから、さ」
皮肉など欠片もない笑顔を向けられて、小十郎はますます居た堪れなくなり目を逸らした。
「うまい酒の礼だ」
頬が熱いのは酒に酔ったせい。
うわばみの自分にはとうてい起こり得ないことを己への言い訳にして、小十郎は半ば空になっていた佐助の竹猪口へ、手にした徳利から甘酒を注ぎ足した。
了 2011.02.10