伊達軍恒例の、城内における元日の催しがひととおり終わった夜半、小十郎は小者をひとり伴って己の屋敷へと戻って来た。
部下である兵士たちの前で酔いつぶれるわけにもいかず、祝賀の席ではほどほどにしか酒を口にしなかった小十郎は、改めて飲み直すべく家人(けにん)に酒の支度を言いつけて、ひとり自室へと引きこもる。
軽装に着替え、火鉢の灰を掻き起こしたところで、遠く鳥の羽音を聞いた。
馴染みのあるその響きに呼ばれるように腰を上げ、小十郎は平素と変わらぬ足取りで部屋を出る。
武田の忍こと猿飛佐助の使役する忍鳥がたてる羽音だ。音もなく飛ぶ筈の忍鳥である、おそらくは屋敷の主に来訪を報せるため、敢えて、のことだろう。
庭に面した廊下に立てば、案の定、覚えのある人影が大烏に掴まって空から近付いて来るのが見えた。月を背に、冬空を切り裂く漆黒の翼影は、めでたき日に眺めるには少しばかり禍々しい。
小十郎の立つ場所からその表情が窺える距離まで近づいて、ようやく忍は大烏の足より手を離し、雪積む庭にふわりと降り立った。
「あけましておめでとうございます、ってね」
新年のご挨拶にお伺いしましたよー、巫山戯た口調が言祝ぎ(ことほぎ)を述べる。
しかして対する小十郎は腕組みをした上に渋面であった。
「ったく、てめえは、なに影なんざ寄越してやがる」
「え? あれ? バレてる⋯⋯? えっ、えっ? いつの間に区別できるようになっちまったのさ、右目の旦那!」
目をまるくして、うそぉ、失敗したわ〜、などとぼやく影分身の早合点が、巫山戯たその口調も相俟ってますます忌々しい。思わず舌打ちが出た。
「勘違いするな。べつに区別がついてるわけじゃねえ。元日も早々に真田を放って、てめえ本人が奥州(こんなところ)まで出向いて来るわけねえだろうが」
それを理解っているだけだ、と懇切丁寧に種明かしをしてやれば、
「あ、なんだ、そゆこと」
忍の影はあからさまに安堵してみせた。
その態度(てい)に、ふん、とひとつ鼻を鳴らし、小十郎は組んでいた腕をほどく。
「まあいい、分身(かげ)だつっても酒の相手くらい出来んだろう?」
「それ以上のことだっていろいろ出来ますけどねー」
したらしたで叩っ斬られんだろうしね〜?
不埒なことをほざく偽忍の達者な口を鷲掴んで黙らせようと、頬宛ての隙間へ片手を突っ込むべく左腕を伸ばしかけた小十郎は、しかしその動きをふと宙にとどめた。
「右目の旦那?」
中途半端に持ち上げられた腕に目を遣り、佐助の影は首を傾げる。
「⋯⋯」
しかし小十郎は人形(ひとがた)を一瞥しただけで応えず、ふたたび腕を組むと肩をいからせて室内へ戻ってしまう。
「⋯⋯?」
屋内で酒の支度が整うのを気配を断ったまま見届けてから、佐助の影もようやく屋敷の主の背を追った。
分身を相手にひとしきり杯を重ねた後、燗した徳利数本分すべての中身がなくなったことを確かめ、
「これで仕舞いだ」
小十郎のひくい声が簡素に告げる。それを潮にあっさりと、
「それじゃ俺様はここらでお暇するとしましょうかね」
影は腰を上げた。
「戻ったらてめえの『本体』に言っとけ」
見送る気もないのか小十郎は空(から)の猪口を手に座したままそれを口にした。
「小細工するくらいなら何もするな、ってな」
胸クソ悪りィったらねえ。
乱暴な口調は酔いのせいなのか、それとも生来の素がおもてに出て来ているだけなのか。判じかねるのは、己が小十郎のいうところの『本体』ではないからだろうか。
庭へ出て指笛を吹けばどこからともなく大烏が姿を現す。その足に手を伸ばし上空へと引き上げられながら、佐助の影はハッとしてわずかに背後を振り向いた。
「あの御仁⋯⋯」
そういえばこの身には指一本触れなかった――。
分身とどうこうなろうなんて気は微塵もない。触れられもしないそっくりなものが目の前にあってももどかしいばかり。そういうことなのだと気付いてしまえば、それはもう。
《自惚れるなというのがどだい無理な話》
了 2021.01.03