カタリ、と小十郎の頭上でかすかな物音がした。
天井の羽目板が外される音である。室内にいる人物に訪ないを知らせるため、わざと音を出しているということは暗黙の了解だ。
小賢しい真似を、と憤慨し言い争ったいつかの記憶は既に懐かしい思い出話になっている。
が、
「?」
小十郎は首を捻った。
物音を聞いて数拍の刻が過ぎているが、一向に、降って、来ない。
「⋯⋯忍?」
そう、佐助が。
どうしたのかと訝しみ、声を掛けながら振り仰げば、
「やあ、旦那」
板をはずした天井の隙間から顔を覗かせ、へらりと笑う忍と目が合った。
「てめえ何してやがる」
来たのならとっとと降りて来れば良いものを。
佐助がそこから動かずにいる理由に心当たりがなく、小十郎は首を捻った。
「なんで降りて来ねえんだ」
疑問をそのまま言葉にすると、ようやく忍が身動いだのが見えたが、やはり降りて来ようという素振りはない。
「忍?」
「だって、旦那なんだかすごくいい匂いがしてんだもん!」
「は?」
思いも寄らぬ返答に、小十郎は間抜けな反応しか出来なかった。
――匂い?
「旦那気付いてないの?」
甘ったるく、そして濃い香りが小十郎を包んでいる、と佐助が指摘する。
「あ⋯⋯」
言われて初めて、小十郎は佐助が云うところの甘い匂いの正体に思い当たった。
「心当たりあるんだ?」
「ああ。政宗様がな⋯⋯」
小十郎が思い出し、佐助に話して聞かせたのは、新しい物好きな主がどこからか情報を仕入れて来、南蛮から取り寄せさせた、香りつきの油の小瓶の存在である。
「香木とは違うみたいだね」
「そうだな。まず木ではなく油だったしな」
「なんていう名前なの、それ」
「あ⋯⋯あろ、あろまナントカ」
とか言ったか、と小首を傾げつつ甚だ曖昧な答えを返した小十郎に、佐助がぷっと噴き出す。
主・政宗に対し妄信的に追従している感のある小十郎だが、こういう面ではいい加減というのか、頓着しないらしい。
昼間政宗の部屋に呼ばれた小十郎は、この香りがどうだあの香りはこうだ、と主から効能についての蘊蓄をたれられながら、聞き香の真似事に付き合わされた。そのとき、何かのはずみで手についた油を拭った懐紙が、いまもまだ着物の内側に入ったままだったのだ。
おそらくそれが香っているのだろう。
匂いに鼻が慣れ、小十郎自身は既に意識することがなくなっており、佐助に言われるまで忘れていたのである。
「いい匂いだとは思うけど、俺様それ連れて帰るわけにはいかねーのよ」
わかるでしょ、と困り顔で佐助が笑う。
隠密を信条とする忍にとっては、居場所を気取られかねない匂いを身に纏うなど、致命的以外のなにものでもない。
「香木とかさ、馴染みのものなら匂い消すのは難しい話じゃないんだけど」
それぞれに対処法を仕込まれている忍であるから、匂いを消すために必要な道具や草木さえ手に入ればどうにか出来る。
だが、南蛮お取り寄せの得体の知れぬ香りとなれば話は別だ。いますぐ完全に消臭できるという保証はどこにもない。
「せっかく来たけどさ、今日はこのまま退散させて貰うね」
名残惜しそうに、後ろ髪を引かれながら羽目板を元に戻そうとする佐助に、
「ンの甲斐性無しがァ!」
小十郎の鋭い声が飛んだ。
「ちょ、な、なんで俺様怒られてんの!?」
突然吠えた小十郎にビクリと動きをとめ、なんら間違ったことは言っていない筈だ、と佐助は理不尽さを訴える。
が、それを完全に無視して、
「くっそ、そこで大人しく待ってやがれ!」
言い捨てた小十郎は、どすどすと足音も荒く部屋を出て行ってしまった。
「右目の旦那⋯⋯?」
佐助は訳がわからず呆然とその背を見送るしかない。
屋敷の主が歩き去った方向から察するに、行き先は湯殿である筈だ。きっと、この部屋から遠く離れた場所に懐紙ごと着物を脱ぎ捨て、自身は湯を浴びて、匂いを消して戻るつもりなのだろう。
「⋯⋯」
これは、もう。
唖然とするしかない。
佐助が懸念したのは、小十郎と肌を合わせることで得体の知れぬ香りを移される事態だったわけだが、それが問題である理由は、事後に湯を使う習慣がないためだ。
後始末を済ませたら、そのまま甲斐へと発つのが佐助の常であり、この屋敷で湯浴みをすることなど有り得ない。
もしそれが許されるのなら、最初から移り香を心配する必要はなかったわけで。
――ああ、もう⋯⋯。
まったくかわいいことをしてくれる。
天井裏でだらしなく笑み崩れたまま、小十郎が部屋に戻るまで、忍はじんわりとしあわせを噛み締め続けていた。
了 2012.06.17発行『さすこじゅ愛護週間まとめ本。』より再録:2015.12.20