越後の軍神のもとへ小十郎が出向くことになったのは、重要な文の行き来が託されたからである。
主・政宗のしたためた書状を届け、返事を貰うまでの数日を謙信のもとでゆるりと過ごし、帰路についた、その日のうちに小十郎は得体の知れぬ物騒な集団に襲われた。
いずれの陣営の者かは不明だが、手勢は影のたぐい、そして狙いが懐に飲んだ上杉から伊達への返書であることは間違いない。
矢を射掛けられ傷ついた馬は早々に乗り捨てるしかなく、いま小十郎は徒(かち)での移動を余儀なくされていた。
胴宛ての内側が、どこからとも知れぬ出血に濡れている。
視界が霞むのは、いつどの場面で受けた傷からなのか、毒が巡っているせいだ。放たれた矢尻にでも仕込まれていたものだろう。
目の前の景色がぐにゃりと歪み、今にも意識を手放してしまいそうだ。しかし、懐の書状はなんとしても守らねばならぬ。
あの手の連中を複数同時に相手にするなら、開けた場所へ出るべきか、それとも樹木の中にとどまるべきか。その判断すら冷静に下せない程度には意識が混濁し始めている。
既に方角もわからない。
奥州を目指せているのか、越後へ引き返しかけているのか、まったく出鱈目の方向へ進んでいるのか、何も認識できないまま、動けば動くだけ毒が回る、それと解っているのに、投げつけられるクナイを避けぬわけにはいかず、射掛けられる矢を叩き落とさぬわけにもいかず、小十郎はじりじりと追い詰められはじめていた。追われるその先に、断崖が待ち受けていることなど知る由もない。
崖下へと足を踏み外すその瞬間まで、己の身にこれから何が起きるのか、小十郎に知るすべはなかったのである。
次に小十郎が外界を認識したとき、その身は宙に浮いていた。それと意識した途端、足下が抜け落ちる感覚を再度体感として反芻してしまい、ぎくりと身が強張る。咄嗟に脚が空(くう)を掻いたのは意図しない本能だ。
「暴れんな!」
頭上からの声を耳に入れて初めて、小十郎は己の胴を抱く腕の存在に気が付いた。
背に受ける筈だった墜落の衝撃がなかったのは、気を失っていたせいだとばかり思っていたのだが、どうやらそれは違ったらしい。
声の主を確かめるために、首を捻り顔を向けようとしたところで、
「動くなって言っただろ!」
ぴしゃりと撥ね付けられる。
叩き付けられたその声には聞き覚えがあった。
――武田の忍⋯⋯?
己がいま何故この男に抱きかかえられて飛行しているのかは不明だが、助けられたことは間違いない。
おとなしく全身から力を抜くと、それまで気付かなかった力強い羽ばたきの音が耳に届き、徐々に近付いて来る眼下の地面に大烏の影が映っているのも確認できた。
が、不意にその視界がくらりと揺れて――、
「⋯⋯っ」
意識下での必死の抗いも虚しく、小十郎の視界はふたたび暗転した。
腕にかかる重みが増した。
大烏を操っていた佐助は、小十郎が気を失ったと悟り、それまでの慎重さをかなぐり捨てて飛行速度を上げる。
佐助が小十郎の窮地を救うことになったのは、偶然だ。
そもそもは、甲斐の虎の命により謙信を訪ねるだけであった筈なのだが、その道中、胡散臭い影の一団を発見してしまった。気になって後を尾けたところ、断崖へと追い詰められていく小十郎に遭遇することになったのである。
足を踏み外して崖下へと落下する身を空中で掬い上げてみれば、小十郎には意識がなかった。異様な発汗の量から察するに、おそらくは毒に侵されているのだろう。
佐助はひとまず矢の届かぬ高さまで上昇し、足下で蠢く影たちの様子を観察した。凧の用意はないのか、そもそもその技量を持たないのか、ともあれ空へまでは追手が掛かる気配はない。
ここで佐助は決断を迫られた。
このまま奥州へ向かうか、それとも先に治療を施すか。
大烏の飛行速度をもってすれば、伊達領までであれ、さほどの時間は要さないが、しかし、それまで小十郎の身体がもつだろうか。
忍である佐助にとって、毒は特筆すべきものではない。けれど、小十郎にとっては――いや、小十郎に限らず特別な訓練を受けていない者にとっては――当然危険な存在なのだ。
こういうとき、自分とこの男との間に歴然と存在する、埋めようのない深い隔たりを意識せずにはいられなくなる。
所詮は違う世界に生きる者同士。
相容れない、とまでは思いたくないが、一生、その本質を理解し合うことは出来ないのではないか、と。
思案の間にも刻一刻と小十郎の身には死が迫り、大烏は伊達領へと近付いている。
「⋯⋯」
結局、佐助は解毒を優先させた。
地に降り立った佐助は大烏を解放し、背に負った小十郎を岩穴の中へと運び込んだ。そこは迫り出した岩棚のおかげで、一見しただけでは入り口がわかりにくく、天然の隠処になっている。
小十郎を岩肌の上へ横たえると、傷を検めるべく陣羽織を脱がせ、血の滲む箇所を丹念に調べていった。目に飛び込んできたのは、赤黒く醜く腫れ上がっている右の上腕部で、毒の侵入口はこの傷であるようだ。
佐助は傷口に直接舌で触れた。
毒は既に全身に巡ってしまっているだろうから、吸い出すことに意味はない。それでもこうすることで毒の種別を知ることは出来る。
舌先に感じた痺れとも味ともつかないその感覚を因(よすが)に、神経をマヒさせる類の毒でないと判断し、佐助は手際よく解毒の準備をととのえた。
携帯している常備薬の中から丸薬をふた粒取り出すと、小十郎の鼻腔を塞ぎ、強制的に口を開かせて、喉奥へ押し込む。更に、小十郎の上体を起こして、沢から汲んで来た水を自身の口に含み、気管を詰まらせることのないよう留意しつつ少量を注ぎ込んだ。
刺激に反応した小十郎の喉仏がこくりと上下する。
幸い咽せて咳き込むこともなく、うまく嚥下されたようだ。
薬が効いて容体が安定するまでは動かさない方が良いと判断し、小十郎をこのまま寝かせておくことに決め、佐助は男の傍らに腰を落ち着けた。
いま佐助の手には折りたたんだままの書状がある。傷を検めた際、小十郎の懐から抜き取ったものだ。
中身はまだ読んでいないが――まずは甲斐に持ち帰り、信玄に見せるのが筋である――、伊達軍に於いて重要な地位を占める小十郎が直接越後に出向いていたくらいだ、かなり重要なものなのだろうことは判る。
佐助は、これを取り引きの材料に使えないか、と思案していた。
――小十郎を手に入れるための。
小十郎の、政宗に対する、ひいては伊達に対する忠誠心は筋金入りだ。たとえ引き換えに命を要求したところで覆ろう訳がない。
だが、命を救ったことと、この書状とを盾にすれば、あるいは――。
「俺様もたいがい重症だわ」
自嘲の笑みに口端をゆがめながら、佐助の視線は横たわる男の肢体に注がれている。
病んでいるという自覚はあった。
それでも欲しいのだ。
この男が。
正攻法で向き合って、手に入れられる相手だとは思っていない。
ならば、どんな手段をもってしてでも、策を弄してでも。
「ま、忍のやることだからね」
なんでもあり、さ。
陥れ、手中に納めるその瞬間を想像すれば、堪(こら)えようもなく昏(くら)い笑みがこぼれた。
了 2012.06.17発行『さすこじゅ愛護週間まとめ本。』より一部加筆後再録:2015.12.18