とあるお山のそのまた奥に、こんもりとした森に囲まれた、ちいさなお社(やしろ)がありました。古い古いお社は、参道が草木に埋もれ隠されていて、滅多に人間が迷い込んで来ることはありません。
天龍の雷神様を祀ったそのお社には、天狗の子供がひとり棲んでおりました。
その仔天狗は、高下駄を履き、あたまに頭襟(ときん)を乗せていましたが、山伏の装束は着ておらず、焦げ茶色の陣羽織を身に纏い、水色の裏地の裾をひらひらさせて、神様と周囲の森とをお護りすることと、お社ちかくの畑の野菜を世話することとを日々の勤めとしておりました。
仔天狗とはいえ背(せな)には烏のそれのような漆黒の両翼がちいさいながら生えており、その身は六つの神通力を確かに備えておりました。
けれどもまだまだ子供のこと、何もかもが未熟です。それを心配した雷神様が術をほどこしておりますもので、お社からとおく離れることだけはできません。せっかくの神足通は森の中までしか効かぬのです。
なので、毎朝森の様子と畑の様子をひととおり見て回り、境内のお掃除をしたあとは、たいていお社の屋根の上にちょこんと腰掛け、天眼通を以てお山のふもとのまちの賑わいを眺めたり、天耳通を以て世間の様子を学んだり、ときには得意の横笛を吹いて雷神様や森の生き物たちを楽しませる毎日でした。
ある日のこと、いつものように仔天狗が屋根の上に座って森を眺めておりますと、見慣れぬ生き物がこちらに向かって駆けて来るのに気が付きました。
森のけものたちとは違い、後足二本で駆けています。見たことのない顔をしておりましたが、纏う気配から、仔天狗と同じ、神にお仕えする一族であることはすぐにわかりました。
そうして腰から生えたしっぽが四本。
「妖狐(あやかしぎつね)⋯⋯、天狐か」
天狗の目はとおくのものもよく見えます。
赤茶けた髪をもつその天狐の子供は、頬と鼻梁に緑の染料を塗りつけており、着ている装束も緑きみどり深緑、と草の色のまだらです。草木に紛れでもすれば、人間たちならすぐにも見失ってしまうでしょう。
仔天狐は仔天狗の存在にはまだ気付いていないらしく、しきりに背後を振り返りながら駆けています。
やがて、参道を抜け、石段を駆け上がって、お社の境内へと飛び込んで来ました。
「やい、狐!」
屋根の上に仁王立ちした仔天狗が大声を張り上げますと、仔天狐は途端にびくんと身を竦ませ、声のした方へ顔を向けました。
「ここは雷神様のお社だ! よそもんの狐が来るところじゃねえ!!」
だいいち狐の神様はお稲荷様に決まっています。(と、仔天狗は思い込んでいます。)
「ああ、ごめんよ。天龍様のお庭をけがすつもりはなかったんだけど⋯⋯ここなら安全だと思ったんだ」
すぐ出て行くから勘弁してね、と断って、けれど仔天狐はそこにぺたりと座り込んだきり動かなくなってしまいました。
ゼイゼイと肩をゆらし荒い息をついているさまが大層つらそうです。
「⋯⋯」
仔天狗はしばらくその様子を伺っておりましたが、
「ちょっと待てろ」
と言い置いて、屋根からふわりと飛び上がり、お社の裏へと消えてしまいました。
「⋯⋯? 天狗の旦那?」
呼んでもいらえはありません。
きょとんと見送った仔天狐の元へ、今度はお社の裏から、カツカツカツと高下駄を鳴らし仔天狗が駆け戻って来ました。見れば両腕には大きな水桶を抱えています。
仔天狗は裏にある井戸へ水を汲みに行っていたのでした。
「飲め」
仔天狗がぐい、と桶を差し出します。
「いいの?」
「ん!」
更にぐい、と突き出された桶を座ったまま受け取ると、仔天狐は顔ごと突っ込むようにしてごくごくと水を飲みはじめました。よほど喉が渇いていたのでしょう、桶はあっと言う間にからっぽです。
「ごちそうさま! ありがとね」
生き返ったー、と空(から)の桶を差し出して、仔天狐はにっこり笑いました。
仔天狐が落ち着いたのを見計らい、
「ところでてめえどっから来た」
ここらじゃ見かけない顔だ、と仔天狗が言いますと、
「あっち」
と、となりのお山を指さして、
「ちょいと前にあすこをねぐらに決めたんだ」
聞けばこの仔天狐、天狐に変じてからずっと、お仕えする神様を探して旅をしていたのだと言います。
天狐に変じる以前、狐として千年を生きた森にも神様は居たのですが、
「それが氷の神様でさあ、俺様寒いところが嫌いでね。おまけに既にお仕えしている女狐がいたんだよ」
それで、新たにお仕えする神様を探すため、元居た土地を離れ、旅に出たのだそうです。
「ふうん」
狐だからと言って、必ずしもお稲荷様に仕えなければならないわけではないのだな、と仔天狗はひとり得心して頷き、それからもう一度首を捻りました。
「あすこのお山にも神様はおられるだろう?」
そう、となりのお山には、大きくて強い、立派な虎の神様がいる筈なのです。その虎神様の噂はこちらの森にまで聞こえておりました。
「うん、いるよ。虎の大将のことだよね?」
「そうだ。その虎神様に仕えねえのか?」
仔天狐は肯首し、
「神使(しんし)は間に合ってるって言われたんだ。けど、いつか代替わりするときに、新しい神様に仕えてやってくれたら良いからって言ってくれて」
以来、仮棲みの身として側に置いて貰っているのだ、と言うことでした。
ひととおりの事情を聴き終えて、
「じゃあ、その手の怪我はどうしたんだ」
仔天狗がずっと気になっていたことを口にしますと、仔天狐は、
「あー⋯⋯、猟師の犬と遊んでて、ちょっとヘマしちまったっていうか⋯⋯」
ごにょごにょと言葉を濁しました。
「猟犬と?」
――遊ぶ?
森の生き物たちと猟師・猟犬とは仲良くなどありません。その犬と遊ぶとは、いったいどういうことなのでしょう。
面妖なことを言うヤツだと小首をかしげた仔天狗に、何を想像したのか気付いた仔天狐は、
「遊ぶって言っても揶揄って遊ぶってことだよ」
兎を追っていたところを邪魔してやったのだ、と説明しました。
「ついでに罠に掛かってた兎も逃がしてね、悔しがらせてやったのさ!」
仔天狐はふふんと得意げに胸をそらしています。
ただ、兎を逃がすためにあれこれ罠と格闘している最中、
「ちょっとひっかけちまって⋯⋯」
それで怪我を負ってしまったと言うのでした。
けれど、えへへ、と頭を掻く仕草がちっとも悪びれていません。
「じゃあ猟犬に追われてるのか?」
「だいじょうぶ。ちゃんと撒いてきたし」
「ほんとうだろうな?」
「俺様ゆうしゅうな天狐だもの。それくらいわけないさ!」
そのわりに、ずいぶんと背後を気にして走っていたな、と仔天狗は思い出しましたが、いっこうに猟犬の現れる気配はありませんし、黙っていてやることにしました。
それよりも怪我の手当をしなくてはなりません。
「怪我、見せてみろ」
「いいよぅ、天狗の旦那。こんなの舐めときゃすぐ治るって」
言ってほんとうに舐めようとするのを、
「いいから見せろ」
と、制し、腕を掴んで目の前に引き寄せます。
「⋯⋯」
罠の歯が擦れたのでしょう、引っ掻き傷がいくつも出来ていましたが、この程度ならすぐに治りそうです。
「手当くらいしてやる」
仔天狗は、お社へ向かい、仔天狐の手を引いて歩き出しました。
「よし、これでいい」
滅多に使われることがなく埃をかぶっていた薬箱をお社の奥の間(ま)から探し出し、仔天狗は薬草を仔天狐の傷ついた腕に貼りつけると、裂いたさらしをくるりくるりと巻きつけて簡易な手当を終えました。
「お礼はどうしよう?」
軽傷とはいえ治療して貰ったお礼をしなくては、と仔天狐が律儀に訊いてくるのへ、それならば、と仔天狗はある望みを口にしました。
「しっぽに触ってもいいか?」
そう、実は一目見たときから、ずっと触ってみたくてうずうずしていたのです。
「そんなのでいいの?」
思いもよらない申し出にびっくりした仔天狐でしたが、すぐさまいいよと快諾し、くるりと仔天狗に背を向けました。
ぼふん! と目の前の四本のしっぽに抱きついた仔天狗は目をきらきら輝かせ、
「ふわっふわだな!」
手触りの良いその毛並みに頬ずりします。
「俺様の自慢だもの!」
胸を反らした仔天狐は、しっぽをぶわっと膨らませ、ますます仔天狗を夢中にさせるのでした。
聞くところによれば、この尾を使い、突風に乗って空を駆けることも出来るのだと言います。
「すげえなあ⋯⋯!」
仔天狗が素直に感心して見せますと、
「天狗の旦那も飛べるんでしょ?」
と、仔天狐に首を傾げられてしまいました。仔天狐の言うとおり、背中の羽根はまだちいさいながら決して飾りなどではありません。
けれど、
「飛べることは飛べるんだが⋯⋯」
仔天狗は口ごもり、すこし躊躇ってから、ただ、遠くへはゆけぬのだ、と白状しました。
「⋯⋯天龍様は過保護だねえ」
あきれ顔の仔天狐についムッとしてしまった仔天狗でしたが、自身も常々そう思っていることでしたので――いわゆる図星と云うやつです――反論が出来ません。
「じゃあとなりのお山にも来たことないの?」
「行けねえからな」
つまらなさそうに口をへの字にする仔天狗の横顔を、しばらくじっと見つめた後、仔天狐はこう言いました。
「そんならさ、俺様またここに遊びに来てもいい?」
「?」
「神使(しんし)のおつとめもないし、俺様ヒマなのよ」
だからこそ猟犬などを揶揄って遊んでいた訳ですし。
「天狗の旦那はいつもここにいるんでしょ?」
こくりと仔天狗が頷けば、
「じゃあ決まり! また来るから俺様と遊ぼう」
ふんにゃりと顔をほころばせ、右手の小指を差し出して来る仔天狐に釣られ、仔天狗も右手の小指を伸ばします。
ゆーびきりげんまん、と里の子供らを真似た天狐と天狗の幼い歌声が、ひとつ約束をむすんで空へと消えてゆきました。
雨の日も晴れの日も、夏の日も冬の日も。
遠出ができぬ仔天狗のもとへ、今日もとなりのお山から仔天狐が遊びにやって来ます。
やがて代替わりする若い龍神様と虎神様に、成長した彼らがそれぞれお仕えすることになるそのときまで、あの日の約束は続いて行くのですが、それはまた別のお話。
了 2012.06.17発行『さすこじゅ愛護週間まとめ本。』より再録:2015.12.17