・狐の恩返し



「恩を返しに来たんだよ」
 そう言って小十郎に笑いかけた青年の、頭には獣の耳が、そして腰には先端の白い金色の尾がひとつ――。





 就寝前に自身が世話をしている作物の見回りをするのは小十郎の日課である。
 その夜、畑では異変が起きていた。
「!?」
 畝と畝との間に転がっているのはどう見ても、
「子ギツネ⋯⋯?」
で、あったのだ。
 これは食うべきか。狐の肉は臭いがきつく不味いものと昔から教えられてきているが、果たして子供の狐はどうだろうか、と小十郎はひどく即物的なことを考えつつ手を伸ばす。遠慮のない腕が間近に迫ってもまったく動く気配のないそれの、もっさりとした尻尾をむんずと掴んでぶら下げた途端――、
 きゅう、と。
 なんとも情けない鳴き声がひとつ上がった。
 だが、反応らしい反応はそれきりで、子狐は大人しく宙吊りにされたまま身じろぎもしない。
「⋯⋯」
 さて、どうしたものか。
 屍であるならまだしも、生きていると判った以上、畑のそばに放置しておくのは憚られる。丹精込めて育てている大事な野菜たちだ、食われぬまでも、畑ごと荒らされてはたまらない。
 ――仕方ねえ。
 腰に片手を当て、ふう、とひとつ溜め息をこぼした小十郎は作物の見回りもそこそこに、手拭いを裂いた布で子狐の四肢を縛り上げると肩に担いで家路についた。



 屋敷に運び、改めて子狐を検分し、結果、見つかったのは首根に刻まれた大きく深い噛み傷だった。おそらくこの怪我が原因で行き倒れていたのだろう。
 獣の手当てなどこれまでしたこともなかったが、人にするのと同じ要領で傷口を洗い、膏薬を塗る治療をほどこして一晩。藁を敷いて土間に即席の寝床をつくり、かまどの温みの側へ放り出しておいたところ、翌朝には目を開けて頭を起こすまでに恢復していた。
 近付けば暴れるかと危惧したが、そこまでの元気はまだないようで、わずかに首の毛を逆立てる様子が伺えるのみだ。牙を剥き、ううう、と低く唸るのを無視して水を入れた器を顔の側に押しやると、しばらくは警戒して口をつけずにいたのだが、小十郎が目を離した隙にすっかり空にしてしまっていた。
 更に一昼夜が過ぎた翌々日には、立ち上がって歩き回れるくらい元気になっており、そうなればもう世話を焼く必要も引きとめておく理由もない。
「畑荒らしに戻って来たりするんじゃねえぞ」
 そんときゃ狐鍋にして食っちまうからな、と怖い声音で脅し聞かせて引き戸を開けてやれば、子狐は何度も何度もうしろを振り返りつつ、やがて畦道を脇に逸れ、茂みの中へと姿を消した。





 パン! と柏手を打ち鳴らす音が目の前で炸裂し、小十郎はビクリと両肩を跳ね上げた。
「!?」
「俺様のこと、思い出して貰えた?」
「⋯⋯」
 ――幻術、か⋯⋯。
 いつとも知れぬうちに術を掛けられて、いまのいままで忘れていた、数年前の過去を見せられていたらしい。それと悟ったときには既に幻の外。
「あんた、あのとき狐鍋にしないで俺様のこと逃がしてくれたろう?」
 にわかには信じ難い話である。が、土間に立ち己を見上げている痩躯の青年には、見間違えようもなく狐の耳と尾が生えているのだ、疑い続けることも難しい。
「ありゃあ言葉の綾だ。狐の肉は美味くねえって相場が決まっているからな」
 本気で鍋にする気があったわけではないのだ、と言い訳のように口にしてみたが、自称狐の青年は意に介したふうもない。
「ふうん? けど、俺様の肉を罠の餌(え)にしてさ、別の獲物狙うことだって出来ただろ?」
 なのに怪我の手当なんかして、あんたに何の得があったのさ、などと痛いところを突いて来る。
「そんなもん」
 罠を仕掛けたりなんだり面倒臭せェじゃねえか、そう鼻頭に皺を寄せ、
「だいいち俺は猟師じゃねえんだ」
 言い捨てても、
「知ってるよ、あんたお侍だよな?」
 賢しくも言い当てる。
「知ってんなら⋯⋯」
 ますますこんな押し問答は無意味だ。
 眉間にきつく皺を寄せてギロリと睨み据える小十郎の視線をものともせず、にこやかに見上げて来る狐のあやかしは、しかし中途半端に人に化けた姿でいったい何をしようと言うのだろう。
 尚も怪訝な面持ちを崩さぬ小十郎の心中を察したのか、
「これならあんたのお役に立てるかい?」
 言いざま、ポン! と高く跳ねたかと思うと宙でくるりと身を返し、地に足を着けたときには耳も尻尾も消えていた。
「!」
 息を飲み驚きに目を見張った小十郎に狐が言う。
「これならいいでしょ?」
「何がだ」
「恩返し」
「は?」
「だからね、俺様に恩返しさせて下さいな」
 にこりと人懐っこい笑みを向けられて、小十郎は溜め息と共に天を振り仰ぐ。
 その日から、小十郎の配下に草の者が一匹くわわった。



 伊達の軍師は千里眼を持つらしい――。
 そんな噂が囁かれ始めたのは、それからしばらく経ってのことである。







「佐助」
「お呼びですか、片倉様」
 いままでどこに身を潜めていたというのか、それまで何もなかった筈の空間に、人形(ひとがた)が現れた。空の狭間から降って来たようでもあり、地の陰影から沸き出したようでもある。
 その人形は、目に馴染まぬ不思議な形をした草木色のまだらな布に身を包んでおり、頬宛で覆われた顔を伏しながら片膝を地に着いた。
 小十郎の半歩後ろに控え、主の命を待つ姿も堂に入ったもの。
「この先の」
と、地図の一点を指し示し、
「地形を検めて来い」
「承知」
 音も無く影が消える。
 あの日から過ぎること幾年。
 誰よりも速くどこまでも往ける足を持つ狐のあやかしは、恩人の手となり足となり、目となり耳となり、戦場を自在に駆ける戦忍(いくさしのび)になっていた。



 伊達軍軍師・片倉小十郎。
 その傍らには常に異形の姿があり、それを目にした人々はまことしやかに噂し合ったものだ。


 伊達の片倉様には天狐の加護があるそうな――。






了 2012.06.17発行『さすこじゅ愛護週間まとめ本。』より一部加筆後再録:2015.12.16