・ご褒美  R18



 片倉小十郎が、主・伊達政宗からの命で上田行きを仰せつかったのは、師走も下旬に差し掛かろうとする頃だった。
 真田幸村じきじきの要請だとのことで、政宗から差し出されて目を通した、上田より届いた書状には、確かに小十郎の来訪を望む旨がしたためられていた。
「いまから支度すりゃあ二十四日までには着けんだろ」
 幸村の手による文には到着の期日が記されており、それが二十四日、となっている。
「⋯⋯はあ、自分ひとりであれば、おそらくは」
 これが行軍ともなれば話は別だが、小十郎単騎での移動なら、雪中とはいえ多少の無理も無茶もきく。
「雪解けまで帰って来なくていいぞ」
「ご冗談を」
 流石にそこまでの長居が可能な筈もない。が、既に奥州は雪に閉ざされており、戦が出来る環境ではなくなっていた。
 とうぜん周辺の領主も状況は同じである。
 情報戦はその限りではないが、物理的な戦は春までお預けだ。軍師不在でも不都合な事態は生じないだろうと思われた。
 小十郎がこれから向かおうとしている信州も、気候的には似たような環境だろう。
「正月が過ぎてから戻ればいい」
 当たり前のようにそう言い放った主へ、帰還する際には先触れを出すことをのみ約束し、小十郎は旅支度を整えるため座を立った。
 そうして翌日。
 早朝から奥州を発った小十郎は、数日をかけ、比較的雪の少ない海沿いの街道を選んで南下し、身ひとつで上田に乗り込んだ。






「片倉殿! お待ちしており申した! 遠路はるばるようお越し下された!!」
 期日通りの二十四日は正午、上田城に入城した小十郎を出迎えに現れた真田幸村は、相変わらずの溌剌ぶりだった。千切れんばかりに振られる犬の尾が見えるようだ。
 両手をひろげられ抱きつかんばかりの歓迎を受けた小十郎は、予期していたにもかかわらず怯み、頬を引きつらせる。
 幸村の実直極まりない性格を好ましいと感じている小十郎だが、少々度が過ぎてもいてしばしばついて行けないことがあるのだ。小十郎に柔軟さが足りないのか、それとも元からの年齢差のせいだろうか。
「此度はお招き頂き⋯⋯」
と、かたちばかりの口上を述べた後、小十郎は率直に尋ねた。
「ところで真田、俺は何のために呼ばれたんだ?」
 政宗宛に届いた書状にはその旨が記されていなかった。事前に政宗と幸村との間で何かしら取り決めでもあったのかと想像したが、当の主に問うたところ、そのような遣り取りはなかったと言う。その時点で改めて幸村に問い質すことも考えたが、小十郎は実行には移さなかった。期日を守ることを優先した結果である。
「佐助に褒美を、と思いまして⋯⋯」
「は?」
 小十郎にとっては予想外の、突飛すぎる返答に思わず間の抜けた声が出た。
「お恥ずかしい話なのですが」
 幸村が首裏を撫でながら俯く。そして、金銭的な蓄えがないために、働きに見合うだけの上乗せが出来ず、佐助が望む給与の増加が果たせないのだ、と告白した。
「⋯⋯⋯⋯」
 開いた口が塞がらない。
 小十郎は比喩ではなく口を半開きにしたまま固まった。
 幸村が面を上げ、
「民なくして国は成り立ちませぬ! されば、お館様が蓄えは民のために使えと申されますし、それがしもそうあるべきだと思いますゆえ」
 必要に応じて民草にばら撒いて来たのだと言う。
 正論ではあった。
 民の生活を第一に考えての所業、と言い切る幸村の姿はいっそ清々しい。だが、それで部下への賄いが滞ってはまずいのではなかろうか。
「⋯⋯」
 頭が痛くなって来た。
 これでは彼の忍もさぞや気苦労が絶えまい。
 だが、所詮は他軍所属の身、己が意見を差し挟むことも憚られ、小十郎は口をつぐんでいる。
「それが武田の心意気でござる」
 そこのところは譲れない誇りでもあるらしく、目をキラキラさせて胸を張った若虎が言ってのけた。
 気圧された小十郎には、わかった、と頷くしか出来ることがない。
「それはわかったがな」
 そのことと、自分が上田に招かれたことと、どう繋がるのかが小十郎には理解できない。
「片倉殿が参られれば佐助が喜ぶようなので」
「は?」
 ふたたび間の抜けた声が出た。
 ――ンの阿呆が!
 何を悟られてやがる馬鹿忍!
 しかし、小十郎の内なる罵倒は当然誰にも聞こえない。
「それで、片倉殿にこちらへお出で頂くわけには参りませぬかと、政宗殿にお伺い致したところ、快諾して下された」
 ――政宗様⋯⋯。
 頭痛がする。
 日頃から何かと小言の多い小十郎を奥州から追い出し、いっときでも羽根を伸ばしたかったのだろう政宗のことだ、それはそれは快く受諾したに違いない。
 幸村は、おそらく素直に感謝して、小十郎の訪問を望む書状をしたためた。政宗の謀略の片棒を、それと知らずに担がされたのだろう幸村を責めることは出来ない。
「だがな、何もこの時期でなくとも良かったろうに」
 内心荒れに荒れている小十郎であるが、口から出たのは至極まっとうな疑問だけだった。
 雪解けを待つことは出来なかったのか。いや、せめて雪が積もる前、という選択肢はなかったのだろうか。
 小十郎のその問いに、
「師走の二十四日でなくてはならぬのです」
 幸村はきっぱりと言い切った。
 理由はこうだ。
「政宗殿が言うておられた。その年一年、良い子にしていると『さんたくろーす』とやらから贈り物が貰えるのだと」
「⋯⋯」
 もはや突っ込みどころがあり過ぎて、どこから指摘すれば良いのかわからない。小十郎は苦虫をまとめて数十匹噛み潰す。
 確かあれは外つ国の行事で『くりすます』とかいう名称だったか。毎年、この時季になると政宗が騒ぐのでいい加減覚えてしまったが、そういえば今年に限っては話題になっていなかったような。
 不審に思うことすらなく、小十郎はすっかり失念していたのだ。それが、よもやこういう展開を見せようとは、まったく予想外である。
 自分はまんまと主の策に嵌ったというわけか。
 しかし、己の迂闊さに歯噛みしてももう遅い。
 いったい佐助のどのあたりが『子供』であるのか、真っ先に問い質すべきはその点であった筈なのだが、それすらも既に手遅れだ。
 小十郎は不承不承、わかった、と頷き、
「で、肝心の忍はどうしてる?」
 それはそれとして、褒美を受け取るべき忍はどこにいるのだろう。出迎えには現れなかったが、小十郎の来訪を本人に内密にしていたのであれば、不在ではない可能性もある。
 が、幸村は首を横に振り、急にしょんぼりとうなだれて言った。
「それが⋯⋯いまこちらには居らぬのです」
 詳しくは申し上げられませぬが、と前置きし、
「数日前より任務に就いておりまして、まだ帰還しておりませぬ」
 せっかく計画した、佐助を驚かせ喜ばせようという目論見だったのだろうに、当の本人がこの場に居合わせなかったことを幸村は残念に思っているようだ。
「そうか」
 頷く小十郎に、
「されど、今朝方戻りました先触れに寄れば、今宵の内には帰還致すとのことで」
 じき戻りましょう、と幸村は請け合った。






 夕刻を過ぎても佐助は帰還しなかった。
 上田城内では、客人を持て成すという名目で宴が催される運びとなっており、賑やかに準備が進んでいる。
 城内の一室をあてがわれた小十郎はそこで旅支度を解き、湯を借りて道中の埃を落とし、疲れを癒してから、頃合いをみて現れた小者に案内され宴の舞台である広間へと向かった。
 幸村の音頭で始まった宴の席は、披露される能や舞を愛でながら、初めのうちこそ大人しく飲み食いするばかりであったが、やがて無礼講になった頃には手のつけられないどんちゃん騒ぎへと変容していた。
 ノリの良さは伊達軍のそれと変わらない。
 小十郎は杯を片手に頬を緩め、目の前で繰り広げられる情景を眺めていた。
 そのうち、幸村の配下と佐助の配下からの小十郎への献酒攻撃が一段落し、しばらくはおのおの好き勝手に飲み続けていたのだが、じきに広間には泥酔した兵士たちが転がりはじめ、気付けば死屍累々の様相を呈している。
 これもまた、小十郎にとっては見慣れた光景だ。
 どこの宴会も似たようなものだな、と内心に笑いつつ座を立った小十郎は、ふらりと覚束ない足取りを自覚して、今度は目に見える苦笑いをこぼす。
 そこかしこ、処狭しとごろごろ倒れ伏している武士たちの胴を行儀わるく跨ぎ越し、左手には途中で拾い上げた徳利を提げ、右手には、これはずっと手放さなかった自身の猪口を持ち、小十郎は広間を後にした。
 真冬の夜半である。障子を引いて廊下に出れば、途端、凍える夜気に身を包まれた。堪え難い寒さの筈なのだが、酒精に火照った身体にはそれすらも心地よい。
 夜空を見上げると、冴え冴えとした半月が浮かんでいた。これから少しずつ欠けてゆく下弦の月だ。
 手近な柱に凭れてしばらく空を見上げていた小十郎は、ふう、とひとつ吐息をこぼすとその場にどっかり腰を落とした。
 庭を満たす雪明かりに目を細め、手酌で一献。
 ややあって、さらにもう一杯、と徳利を傾け掛けたところで、横合いから、
「アタシで良ければお酌致しましょうか、右目の旦那」
 作ったおんなの声色がそう言った。
 もたりと気だるく首を捻った小十郎は、そこに見知った忍の姿を見留め、
「⋯⋯猿飛」
 呟くようにその男の名を口にした。






 宴会特有の、寄せた波が弾けるようなざわめきは、城に到着するかなり前から聡い佐助の耳に届いていた。
 まだ晦日にも数日早い、こんな中途半端な時節に宴の予定などなかった筈だが、いったい城内では何が行われているのだろう。めでたい催事には違いなく、不安は覚えないものの不審が募る。
 こころもち足を速めて帰城し、いの一番に幸村の元へ向かおうと屋根の上に降り立ったところで、ここに居る筈のない男の姿が佐助の視界に飛び込んで来た。
 ――右目の旦那⋯⋯?
 見間違いではない。
 月明かりに照らされて浮かび上がる左頬の傷も、左手で徳利を傾ける所作も、片倉小十郎その人のものだ。
 なぜこの男がいまこのとき上田にいるのだろう。
 さすがに佐助の足が止まる。瞬きを忘れ、廊下に腰を下ろしたその姿にしばし見入った。
 小十郎は杯をひとくちで空け、庭を眺めている。ほころんだ口元に、ここちよい酔いに身をゆだねているらしいことが透けて見えた。月を見上げる横顔もやわらかな笑みを湛えていて、ひどく穏やかだ。
 その空気を壊したくないと思った。
 奥州にいる筈の男が、いま佐助の目の届く場所に存在しているのはどうあっても事実でしかないし、持て成された客人のていでもある。ならば余程のことがない限り、逃げも隠れもしないだろう。それなら、なぜ今ここに居るのかと詰問するのは後でも構うまい。
 佐助は音もなく地上に降り立つ。
 小十郎を驚かせぬよう、そして警戒させないよう、細心の注意を払い、眠る草木の呼気に己の気配を混ぜた。そうして悪巫山戯に女声を真似る。
 忍の謀に従順に騙された男は、振り返って声音の主をその双眸に映してなお大仰な反応をすることはなく、ごく自然に佐助の名を呼んだ。
 作戦成功。
 この男が己に気を許しているのだと言外に伝わって来る寛容な態度が、素直に佐助の自尊心をくすぐった。
 ――嬉しいねえ。
 含みのない笑みに目を細め、
「随分と聞こし召されてるようで」
 更に、今度はふだんの声音で言葉を続けると、ぼんやりとした表情のまま、小十郎が佐助の顔を凝視した。
「遅せェだろ」
 夜が明ける前で良かった、と佐助には意味のわからないことを小十郎がつぶやいた。
「右目の旦那、あんた酔ってんね?」
 佐助は身をかがめ、複雑な面持ちで客人の顔を覗き込む。
「そうだな」
 いい感じにほろ酔いだ、と応じる声がどことなくふわふわしている。
「ところでいつ来たのさ」
 あんたが来るなんて俺様聞いてないよ、と佐助は口を尖らせる。佐助が任務に赴いたのは四日前のことだが、そのときまでに小十郎の来訪の予定などなかった筈だ。いつ決まって、いつ来たというのか。
 信州と奥州とは書簡の往復だけで四日以上かかる距離がある。小十郎が勝手に乗り込んで来たのでない限り、佐助には意図的に知らされなかったということだ。
 憮然とした表情で問い質す佐助に、前触れのない己の訪問が佐助を驚かせたらしいことを察し、自分自身、騙された口であるにも関わらず、気を良くした小十郎は酔いも手伝ってかくつくつと笑い出していた。
「なんなのさ、さっきから!」
 小十郎のご機嫌な様子にも、意味がわからない佐助は首を捻るばかりだ。
「笑ってないでわかるように説明してくんない!?」
 この酔っぱらいめ、という言葉は飲み込んで、子供っぽく膨れてみせる。
「着いたのは今日の昼だ」
「なにしに来たの」
「褒美だとさ」
「褒美?」
「ああ。てめえへのな」
 有り難く受け取れ、そう言って両手をひろげた男は果たして酔っているのだろう。
 常には有り得ない男の態度に唖然とし、佐助は一滴の酒も口にしていないにも関わらず眩暈を覚えて目蓋を伏せた。
 幸村に問い質そうにも、佐助が乗り込んだ広間には既に屍しか転がっていなかった。小十郎は小十郎でいい具合に酔っぱらいであるし、支離滅裂ではないにせよ、どこまで真実を語っているのか判断できない。
 褒美の件の真相は、必然的に翌日を待って確かめられることとなった。
 その夜は結局、酔っ払いを客間へ送り届けて寝かしつけ、佐助は自分の住処である忍小屋へと引き上げた。






 翌朝、陽が昇るや否や、宿酔いもなくすこやかに目覚めた主に事の次第を追求する佐助へ、幸村はさも当然とばかり、昨日小十郎にしたのと同じ説明を聞かせた。
「というわけでな、片倉殿にご足労願った次第だ」
 よそ様の軍師を呼びつけて部下の褒美にするなど、前代未聞である。
 良い事をしたと微塵も疑っていない幸村の態度が佐助には腹立たしい。が、嬉しいこともまた事実であるので、なんとも複雑である。
 そもそも呼びつけたはいいが、どうしろというのだろう。詰め寄る佐助に、
「金は出せぬが暇は出せるぞ」
 幸村は胸を張る。
「なに偉そうに言ってくれちゃってんの! てか、俺様解雇されるわけ!?」
「そうではないわ! 片倉殿とふたりでゆっくり過ごせば良いと申しておるのだ!!」
 間違ったことは言っていない筈だ、と幸村が真っ向から遣り返す。
 不毛な遣り取りの渦中に放り込まれ居たたまれないのは、否応なく同席させられている小十郎である。佐助によって幸村の前に引き出され、頭を抱え込みそうになるのを寸でのところで堪えているのだが、いっそこの場から逃げ出したいというのが嘘偽りない本音だ。
「だいたい年越しの準備もまだでしょうが! 俺様居なくてあんた正月の支度はどうするつもりよ!?」
 なんだか話が所帯染みて来たな、と小十郎の思考は現実逃避をはかり始める。
「おぬしがおらぬでもそれくらい⋯⋯!」
「戦ならまだしも、あんたにそんな采配が出来るもんか!」
「そ、それがしに無理でもそなたの配下がおるではないか!!」
 そもそも年越しの準備というものは、諜報技能に長け、また戦闘集団でもある忍隊の面子が携わるべき仕事だったろうか。沸いた疑問は、賢明にも小十郎の口から外へ出ることはなかった。
「猿飛」
 いつ終わるとも知れぬ、ある意味とてつもなく平和な言い争いに終止符をうつべく、小十郎が腹を括って声を出す。
「てめえ、給料もそうだが休暇も充分には与えられちゃいねえんだろ」
 真田からそう聞いているぞ、と言い添えると、
「まあ、そうだけど⋯⋯」
 歯切れ悪く忍が肯定する。
「だったらこの際休みだけでも素直に受諾しちゃあどうだ」
「⋯⋯」
「だいたいな、てめえが相手しねえってんなら、俺はここで何してりゃいいんだ?」
 奥州に帰ってもいいと云うのなら今すぐにでもそうするが、十中八九それは幸村に止められてしまうだろう。かと言って、招かれた客の身分で、更には小十郎の性格的にも、他軍の中にあって好き勝手ふるまえる筈がない。もし、佐助が年越しの差配を受け持つというなら、手持ち無沙汰になるのは目に見えている。
 それともいっそ、自分もこの城の年越しの準備を手伝えばいいのだろうか。
 そこまで小十郎の考えが飛躍したところで、ついに佐助が折れた。
「わかったよ⋯⋯」
 しぶしぶ頷き、休暇の提案を受け入れることで話は決着したのだった。






 幸村の前から退出し、小十郎にあてがわれた部屋へと引き上げて来たふたりは、向かい合い、しばらく無言で座していた。
 先に口を開いたのは佐助で、
「急に休みだなんて言われても、ね」
 どうしたもんですかね、外はこんなだしね、と雪の積もる庭に目を向ける。
「そうだな」
 小十郎も気のないいらえを返しながら、佐助に倣って庭を見た。勤勉で通っている小十郎には、休めと云われたところで何もせず怠惰に過ごす、などという発想がそもそもない。頭を働かせるか、体を動かすかしていないと却って落ち着かない、そういう性分だ。奥州にいて休みなど与えられようものなら、朝から晩まで畑仕事に精を出していることだろう。もっとも冬場の畑では出来ることにも限りがあるが。
「日頃の働きを労うとか口ではなんとでも言えるけどさ」
 ぼやいた佐助がまた黙る。
 疲れを癒す、か。
 そこまで考えて、
「そうだ」
と、佐助は膝を打った。
「湯治にでも出掛けよっか?」
 ほう、と感嘆の声を上げて小十郎が佐助を振り返る。
「そいつは悪くねえな」
 ふたりは顔を見合わせにんまり笑った。
「そうと決まれば支度支度!」
 湯場は俺様が案内するし、と佐助が続け、
「近場にいいとこあるんだ」
 得意げに頬を上げてみせる。
 誰にも邪魔されずゆっくりできる湯治場が、城からほど近い場所にあるのだ。
 さっそく着替えや当面の食料を風呂敷に包んで背に負い、幸村に行き先と留守にする旨を伝え、また佐助の配下とは緊急時に連絡をとり合う手段について確認してから、従者ふたりは城を後にした。






 城門を出たところで佐助が呼子を吹くと、重く厚い雲が垂れ込める雪空を切り裂くようにして大烏が姿を現した。
「まさかこいつで移動しようってのか」
 見上げた小十郎が眉をひそめる。
「そ。そのまさかだよ。こんな雪ン中歩いて行こうなんて酔狂過ぎるでしょ」
「⋯⋯」
 一度に大の男をふたりも連れて飛べるものなのか、小十郎は不安を覚えたのだが、口にして確認する隙もなく佐助の片腕にがっつり胴を抱えられ、あれよと言う間に上空へと運び去られていた。
 声にならない悲鳴を咄嗟に飲み込む。
「て、てめえ! いきなり⋯⋯!」
 断りもなく飛ぶんじゃねえ! 叫んだ声は、びょうびょうと耳元で鳴る風の音にかき消され、小十郎自身にもよく聞こえない。
「暴れたら落とすよ!」
 どんなコツがあるのか、佐助の声ははっきりと耳に届いた。
 新雪の上に落ちたなら埋もれるくらいで済みそうだが、硬く凍った根雪の上では洒落にならない。良くて骨折、悪くすれば死ねる。
「くっそ!」
 毒づきながらも小十郎は大人しくせざるを得なかった。
 仕方なく抗議することを諦め、眼下に広がる城下町の様子に視線を向ける。空を飛ぶなど小十郎にとっては生まれて初めての経験だ。とうぜん視界に広がるのも、これまでには見たこともない角度からの興味深い光景だった。城の天守閣から眺める風景に似てはいるが、あくまでも似て非なるものである。
「絶景だろ? せいぜい堪能しときなよね」
 これで寒くなければ最高なのだが、贅沢は言えない。笑う忍の声に反応することも忘れ、小十郎はしばらく無言で空中遊泳を満喫した。
 やがて、風に運ばれてきたのか鼻先に硫黄の匂いが届き始め、
「あ」
「見えた?」
 視認できる距離の山中に、湯気のあがる温泉らしきものが見えて来る。
 じきに低空飛行になった大烏の足から佐助が手を離して雪上に降り立ち、
「お疲れさん」
と、抱えていた小十郎を地面へ下ろした。
 やはり足の裏に大地の感触があると安心する。言えば佐助には揶揄われそうだが、それが小十郎の実直な感想だ。空中などという寄る辺ない場所ではどうにも落ち着けない。






 ふたりが着地したのは、さきほど上空からその存在を確認した温泉のすぐそばだった。
 冬枯れた木立を背に開けた場所があり、岩に囲まれるようにして温水が沸き出している。天然のその温泉は、大人が五、六人同時に入ることが可能なほどの広さがあった。
 ひとまず先客の姿はないようだが、ここで地元の民に出くわすようなことはないのだろうか。
 心配事があるとすればその一点で、懸念を口にした小十郎に、けれど佐助は大丈夫だと断言した。
 夏場はともかく、雪が積もってしまうと里からは人の足で容易に到達できる場所ではないのだという。
 大烏に運ばせたのも、それが主な理由だったらしい。
 もっとも、特殊な訓練を積んでいる佐助ひとりであれば、大烏を呼ぶ必要もなかったのだろうが。
「そうねー、もしお客サンが来るとしても山の獣だけじゃないかな」
「鹿とか?」
「そうそう」
 あと、猿とか猪とか熊とか。
 熊か。熊は勘弁して欲しいもんだな。いや、熊は冬眠してて居ねぇか。
 あ、そっか。
 常にない軽口をかわし合いながら、白く湯気にけぶる温泉を前に、小十郎はさっさと入浴の支度を始めた。
 脱いだ着物はていねいに畳んで、誤っても濡れることがないよう岩の上に避難させ、用意してきた湯帷子を着込むと、温度を確認するため足先を湯に伸ばした。
 冷えた爪先には少々痛いくらいに感じられるが、慣れればどうということもなさそうだ。
 そう判断し、そのまま足を浸し、膝を折った。そうして肩まで湯に浸かるよう脚を投げ出す。
 ぐうっと背を伸ばすようにして前屈みになると、顎先が湯に触れた。
「お背中お流ししましょうか」
 背後から聞こえた、変にしなを作った声に笑いを堪え、
「要らねえよ。遊んでねえで、さっさとてめえも入りやがれ」
と、促すのに、佐助が脱衣する気配は一向にない。
「なんだ、てめえは入らねえつもりか?」
 それでは湯治にならないだろうに。
 不思議に思って振り向けば、
「お武家さんと一緒の湯に浸かるだなんて畏れ多くってさあ」
 無理無理、と顔の前で手刀が左右に揺れる。
「てめえは変なところで律儀というか⋯⋯面倒臭せえというか⋯⋯」
 小十郎は眉間に皺を寄せた。
 つい先刻、この湯には獣も入ると聞いたばかりだ。狐一匹引きずり込んだところで問題はないだろう。
 物騒な決意を固めた小十郎は、胸を反らして背後に腕を伸ばした。身を乗り出すようにして後ろから己の顔を覗き込んでいた忍の首根に両手を絡めて掴み寄せ、そのまま力任せに湯の中へ引き込もうとする。
「!?」
 顔面から水中へ突っ込むのだけはせめて回避しようとしたのだろう、引力には敢えて逆らわず、宙でくるりと前転した忍は、ばしゃん! と派手な湯しぶきを上げて背中から落水した。
 ぎゃー! という色気のかけらもない悲鳴が見晴るかす山々に木霊する。
「ちょっ、何してくれてんのさー!!」
 間髪入れず湯の中で立ち上がった佐助は、慌てて手を突っ込んだ忍装束の内側から、手当たり次第に掴んだ物を外へと放り出す。
 そんなに乱暴に扱って大丈夫なのかと小十郎が心配してしまう程の勢いで、ぽいぽい投げられていくのは忍道具の数々だ。
「てめえのこった、どうせ大事無ェんだろ?」
 水気に弱い火薬や頓服のたぐいは油紙に守られていると知っている。佐助に限ってそんな初歩的な手抜かりがある筈もない。小十郎にしてみれば、信頼の上に成り立った暴挙であった。
 しかし、片頬を上げて横目に見れば、手甲と頬宛を外した忍にギロリと睨み下ろされる。
「おいたが過ぎる悪い子にはお仕置きしないと、だよね」
 覚悟しなよ、と常にないドスの効いた低音に脅しをかけられ、不覚にも下世話な期待に背筋が震える。
 直後、小十郎は湯帷子の襟をとられ、湯に沈められていた。






 予感はあった。けれど、小十郎は逃げようとも止めようとも思わなかった。
 そもそも予測できていた事態だ、簡単に溺れてやりなどしない。が、水中で耐えられる呼吸の長さが、己と相手とではまるで違う。相応の鍛錬をつんだ忍に勝てるわけがない。
 ごぼ、と己の口から吐き出された大きな泡が視界を遮り、気が遠くなる寸前、襟首を掴まれ水面に顔が出るよう引き上げられた。
 げほごほとみっともなく咽せたが、それが収まるのを見計らった適機でふたたび呼吸を奪われる。今度は、口腔に捻じ込まれた、熱く濡れた舌によって。
「ん」
 喉奥が締り、息が詰まった。
 上顎をいいように舐められ、歯列をなぞられ、満足に応じ返せないでいるうちに、唇が離される。
 肩で息をする小十郎を顧みることもせず、佐助は思うままに手を伸ばした。湯帷子の襟をくつろげ、袷を開く。湯の中でたゆたう白が、視界に眩しい。
 白い布地越しに透ける肌の色が艶めかしくて、目にしてはいけないものを見てしまったような疚しい気分に苛まれる。
 こんなところで事に及ぶ気などなかったのに――。
 懺悔のように脳裏をめぐる言葉が、湯気にあおられ霞んでいく。
「しねえのか」
 ようやく呼吸が落ち着いて、相手の様子を窺う余裕ができた小十郎は、中途半端に動きをとめ、視線を横にそらしてしまっている佐助に気付き、首を傾げた。
「どうした、忍」
 逃げていた視線が戻ってくる。
「俺様夢見てんのかな」
「は?」
 耳にすべりこんだ、予想外な言葉に小十郎は目を丸くした。
「だって、居る筈ないあんたがここに居てさ、しかもふたりで温泉? なんだよそれ! 目ェ開けたまま夢見てるとしか思えない!!」
 現実味が無さ過ぎて、と当の本人に向かっていまさら過ぎることを訴え始めた忍は、ここへきて、どうやらほどよく混乱しているらしい。
「昨日の夜からずっと、夢なんじゃないかって」
 疑っているのだ、という佐助の告白に、
「てめえは本当に⋯⋯」
 ――馬鹿だな。
 小十郎はやわらかく吐息を漏らして目を眇めた。
「だったらてめえの手で存分に確かめりゃいいだけだろうが」
 本当に今更すぎる。
 この身は佐助への褒美だというのだから、好きにすればいいのだ。
 小十郎は、だらりと体側に垂れ下がった忍の両腕をとり、手のひらをとらえ、自身の頬に触れさせた。
 途端、泣き笑いのような困り顔が晒されて、好きだよ、の言葉は互いの口腔に溶けた。






 すっかり濡れそぼった装束を気前よく脱ぎ捨てて、鎖帷子もはずし、生まれたままの姿になった佐助が改めて腕を伸ばして来る。
 背中側から差し込まれ準備を整えようとする指のいつにない性急さと、湯の中で下肢を暴かれる、未知の感覚に小十郎の身が竦んだ。
 拒絶したいわけではないのに、身体が勝手に逃げを打ってしまう。
「キツイ?」
 わからない、というのが正直な感覚だが、うまく説明できそうになく、小十郎は無言で首を横に振る。
 それでも普段とは返る反応が違うとわかっているからか、気を逸らさせようと努めてくれているらしく、頬や首筋、肩口に、せわしなく佐助の唇が降り、後腔を慣らす指とは別の手が、胸板を撫でさすり、脇腹を這い、勃ち上がる肉に触れてくる。
 その感触をよすがに、強張りそうになる身体から意識して力を抜こうと、小十郎は深く息を吐き出した。
 吐息に濡れた音がまじる。
 佐助の愛撫と湯の熱さと、その両方に煽られ、こめかみから幾筋も汗が流れ落ちていく。双眸を細めて遣り過ごし、目の前の男に意識を向けた。
 血流が良くなった肌の上、佐助の裸身にはいくつもの傷跡が仄あかく浮かび上がっている。おそらく自分の膚も同じような見てくれになっていることだろう。
 お互い、こんな身体に欲情するなど酔狂にも程があると思う。だが、この醜い有様も含めて、佐助であり、自分なのだと小十郎はとうの昔に認めてしまっていた。
 このままではのぼせてしまいそうだ、とふやけた脳髄で考えながら、獣のそれのような短く荒い息を継ぐ。
 ずるり、と内側をさぐる指が一本増やされた。
 仰のいて喉を晒し、目蓋を閉じれば、眦から生理的なしずくがこぼれ落ちる。
 うごめき、肉筒を押し開くように操られる器用な指は、決して小十郎を傷つけない。
 戦忍には似合わぬその慈愛を感じるたび、どうしようもなく胸の奥がうずいた。
「寒いかもしんないけど、ちょっと我慢してくれよ」
 不意に声を掛けられ、何を、と問う間もなく湯の外へ上半身を押し上げられる。
「⋯⋯っ!」
 外気の冷たさと、腰のあたりにわだかまったままの湯帷子、そして背に触れた岩肌に身が竦んだところで、そのまま両足を抱え上げられてしまった。あられもない格好を晒していると気付いたが、抗う前に身を繋がれる。
「く、あ⋯⋯!」
 小刻みに抜き挿しを繰り返し、佐助のそれが己の最奥にまで達する。それと意識した途端、ふたたび小十郎の身体は湯の中に引き戻された。
 どこに力を入れてもたゆたってしまう頼りなさが、ひどく心細い。底に膝を着いている筈なのに、たやすく身体が浮き上がってどうにもできない。
 浮遊感のせいで、いつもとは違う勝手に戸惑いと恐れが交錯する。
 確かなものは目の前のこの身体だけだ。
 たまらず、小十郎は両腕を伸ばし佐助の身体を抱き寄せた。
 佐助の動きに合わせ、湯面が波立つ。
 互いの腹の間で押しつぶされ、捏ねるように揺すり上げられる肉塊も、湯の中にあってはあふれる先からぬめりが途絶え、常とは違う摩擦の感触に翻弄されるしかない。
 漏れ出す声も、閨に篭るそれとは違い、開放的な空間へ吸い込まれるように消えてしまう。
 すがった佐助の肩越しに際限なく広がる空が見え、不意に、右も左もわからない場所にひとり放り出された子供のようなもの寂しさに囚われた。
 どうにも意識が散漫になり、ざわついてばかりで一向に落ち着かない。
「集中できない?」
 肯定するのも癪だったが、事実、こころが焦点を結ばなかった。
 こくりと頷き、荒い息を噛んで肩口に額を押し当て目蓋を落とす。視界を閉ざせば、周囲の太刀打ちできない虚空を意識せずに済む。
 小十郎は裡へと自我を逃がした。
 なのに、
「駄目だよ」
 囁く唇が耳朶に触れ、
「右目の旦那」
 促すように呼ばれて現実に引き戻される。顎をとられて顔を上げさせられ、
「こっち見て」
 更に乞われる。
「⋯⋯忍?」
 視線を交わせばゆるんだ笑みが返された。
「そう、俺、だよ」
 あんたを抱いているのは誰?
 あんたを抱いているのは俺だ。
 不安に思うことなんか何もないだろ?
 あんたは俺のことだけ見て、俺のことだけ感じてりゃいい。
「あ⋯⋯」
 前触れもなく、乖離していたこころと身体が合致する。その途端、圧倒的な熱量が腹の底から迫り上がり、押し寄せる波に飲まれた。
「ああああああっ」
 下腹をみっしりと隙間なく埋める佐助の熱さを鮮明に捉えてしまい、痺れるような悦に囚われる。脊椎を猛烈な勢いで這い上がる感覚は、これまで一度も覚えたことのない強烈な官能を伴って、小十郎の理性を吹き飛ばした。
 反射的にもがく身体を抱き竦められて拘束され、内側の弱いところを間断なく苛まれて、やがて目蓋の裏が赤く染まり、明滅する光が白く弾けた。






「あーあ、疲れ癒しに来といて何やってんだろね、俺達」
 今度こそ湯の中でぐったりと脱力した忍が、空に向かって反省の弁を一言。
「今更だな」
 応じる小十郎は、不精にも湯の中に身体を浸したままで、脱げ落ちていた湯帷子を着直している最中だ。
 いま自分はこの男への『褒美』であるのだ。佐助が望むなら、それに応える用意が小十郎にはあった。散々翻弄されたのには違いないが、箍を外すほどに求められて悪い気はしていない。
「旦那がそう言ってくれんだったら、まあいいけど」
 済んだことをとやかく言っても始まらない。佐助も早々に割り切ったらしく、それ以上蒸し返すことはしなかった。が、すぐにまた、
「しまったなー」
 危機感のない声で、何がしかの失態をぼやく。
「どうした」
「酒、持ってくれば良かったと思ってさ。雪見酒できたのに」
「⋯⋯」
 珍しい。
 常ならばそんな手落ちを披露するような男ではないのだが。
 そう思いつつも口には出さなかったのに、顔にはしっかりと表れてしまっていたらしく、
「そんだけ俺様も浮かれてたってことだよ!」
 自棄になったように自己申告される。
 思いがけずあんたが来てくれたから、と。
「まさか真田の旦那があんた呼ぶなんて思わないだろ。しかも年の瀬間近なこんな時季にさ」
 佐助のその言葉で思い出した疑問がひとつ。
「そうだ。忍、なんで俺とてめえのことが真田にバレてんだ」
 口を滑らせたのか、と思いつくままを言葉にすれば、
「俺様がそんなヘマするわけないでしょうよ。どうせあんたトコの大将の入れ知恵に決まってる」
「⋯⋯」
 そんなこと、ある筈がない、と言い切れないところが痛かった。やはりその線なのか。
 政宗には佐助との仲を既に知られてしまっている。
 もし幸村が、部下への褒美の件を政宗に相談していたのだとしたら、それに対する助言として、佐助の喜ぶだろうものを教えた可能性は高かった。
「まったく、あの方は⋯⋯」
 余計なことを、とこめかみを抑えて呻く。
 そんな小十郎の嘆きを横目に、
「俺様あの御仁のことは嫌いだけどね」
 ――今回ばかりは感謝してもいいかな。
 ぽつりと零し、忍はそれきり口をつぐんだ。






 日暮れを前に湯治を切り上げたふたりは、佐助の案内で近くの山小屋へ足を向けた。湯治に訪れる人間のために設えられた小屋だが、当然いまの時節には無人である。
 この山小屋が当面ふたりのねぐらになるというわけだ。
 小十郎が囲炉裏の火をおこし、佐助が竃に火をくべて夕餉の支度をする。ふたり揃って簡素な膳を囲んだ後、早々に寝床を用意し眠る体勢になった。
 雨戸を閉め切ってしまえば月明かりも雪明かりも届かず、小屋の中は静もった闇に包まれる。
 ふたりが横になって四半刻は過ぎただろうか。けれど一向にどちらの呼吸も寝息に変わらない。
 寝返りこそ打たないが、もそりとわずかに身じろぐ気配が夜気を揺らし、衣擦れの音をやけに大きく響かせる。
 ついには寝付こうとする努力を放棄して、佐助が口を開いた。
「旦那、もう寝ちまった?」
「⋯⋯いいや」
 明瞭な返答はやはり眠気を孕んでいない。
「⋯⋯独眼竜のこと考えてたんだろ」
「てめえこそ、真田のことが気掛かりで寝てられねえんだろ」
「⋯⋯」
 お互い様、というわけだ。
 与えられた休暇はまだやっと一日が経過しただけだというのに、ふたりとも、既にもう充分だという気持ちになってしまっている。
「こんなとこに居ちゃ却って気が休まりゃしねえ」
「だよねえ⋯⋯」
 俺様もそうだよ、と嘆息ひとつ。
 幸村の宣言通りであれば、上田の城では年越しに向けての準備が始まっている筈だが、
「いまごろ城ん中がどうなってんだか、ウチの旦那が余計なことやらかしてんじゃないかって、俺様もう心配で心配で!」
 おちおち寝てなどいられない。
「戻るか」
 そう提案したのは小十郎。
「⋯⋯いいのかい」
 確認する言葉が遠慮がちになるのも仕方ないだろう。
 せっかく湯治に来たのに、と思う気持ちも確かにあるのだ。それに、小十郎はたとえ城に戻ったところで所詮は他軍の地であり、彼自身の懸念が消えるわけではない。
 しかし、小十郎はそれでも構わないと応えた。
 身体を休めることが出来ても気持ちが休まらないのではどうしようもない。それならばまだ、身体を動かし没頭できる何かに従事している方がマシだ。
「こんなところで気ィ揉んでる方がよっぽど身の毒だろ」
「違いないね」
 苦笑いで厚意を受け止める。
「じゃあ、明日起きたらもっぺん温泉入って、昼にはここを出ますか」
「ああ」
「じゃあ、おやすみ、旦那」
「おう」
 今度こそ、小さな山小屋はふたり分の寝息に満たされた。






 そうして翌朝、陽がのぼるのを待ってもう一度湯を堪能した後、朝餉を済ませた従者たちは、ふたたび大烏を呼び寄せ下山した。
 城に戻ると、たった一日で休暇を切り上げ戻って来てしまった部下の姿を見咎め、幸村が盛大に憤慨したが、忍隊の面々は大喜びだった。さっそく隊長の指示を仰ごうと喜色満面、整列を始めている。
 その様子をしばらくは黙って観察していた小十郎だったが、やはり従者としての血が騒いだらしい。
「猿飛、襷を貸せ」
 手伝ってやる、そう告げた男の顔が活き活きと輝いて見えたのは、決して錯覚ではないようで。



 その年、上田城における年越しの支度は、佐助と小十郎、ふたりの連携による的確且つ容赦のない指揮と指示のおかげで、例年の半分の日数で終了したという。








了 2012.12.30発行『ご褒美』より再録/2018.12.24 微修正