桜の花弁に血脈が透けて見えると錯覚するのは、おそらくこんな場面に遭遇してしまうからに違いない。
就寝前の日課である畑の見回りへ向かう途中であった。
夜空の主を隠していた雲が晴れ、月明かりに照らし出されたその光景に、小十郎はぎくりと身を竦め息を飲んだ。
血の匂いを嗅ぐと同時に脊髄反射で黒龍の柄(つか)へ伸ばしていた手を引いたのは、小十郎の視線の先、満開に咲き誇る桜の樹の根元に血溜まりを広げている元凶が、見知った忍の顔をしていたからだ。
小十郎は柄に這わせた左手を元に戻すと、敢えて気配を殺すことをせず、深い陰影の一部と化す忍――猿飛佐助――に向かって最初の一歩を踏み出した。
「!」
途端、おそらく意識はないのだろうに、クナイを握り締めた右手が胸元へまでゆらりと持ち上がる。
これだから戦忍は恐ろしい。
「猿飛」
凶器を投げつけられる前にこちらの正体を知らしめようと声を掛ける。浅からぬ縁を結んだ相手だ、水面下の意識にも伝わるという確信があった。
自惚れを疑うような仲では既にない。
意図したとおりに声が届いたのか、ピクリと震えた忍の右手が、握ったクナイはそのままにゆらりと垂れ落ちる。
その一連の流れを見届けてから、血溜まりを避け地に片膝を着けば、どす黒い体液の匂いがひときわ濃く鼻先に漂った。胸を悪くするような臭気に思わず眉をひそめる。
「猿飛」
普段は滅多に呼ばぬ名をふたたび声にしてみたが、やはり目蓋が上がる気配はない。
ともあれ怪我の具合を確かめないことには、ここから移動させることすらままならぬ。
「触るぞ」
律儀に断りを入れたのは、未だ握られたままのクナイを警戒してのことだ。一瞬、先にその手からもぎ取ってしまおうかとも考えたが、触れようとすれば同時に突き立てられるだろう場面しか想像できず、試す前に諦めた。
両肩から胸元までを覆う布を持ち上げ、検分の目で全身をなぞれば、右の脇腹に、上衣の布地を斬り裂き、更にはその下の鎖帷子にまでほころびを生じさせる程の一撃を食らっているのが見て取れて、血の出所は忍装束に手を掛けるまでもなくすぐに知れた。それが一番の深手で、しかしほかにもまだ細かな傷があるのだろう、ぐっしょりと濡れそぼった衣は完全に本来の色彩を失っている。
小十郎は陣羽織の内側から手ぬぐいを引き出すと、脇腹の派手な裂傷にそれを押しあてて固定し、当面の止血をしつつ忍の身体を肩へと担ぎ上げた。
――軽い⋯⋯。
もとより忍はその動きの俊敏さのままに体躯そのものが軽い。しかし、血を失って、更に軽量になっているのかも知れぬと思い至れば、背筋を冷たい指先になぞり上げられた気がした。その感覚が何を意味するのか、考える時間がいまは惜しい。
「すぐ手当してやる。こんなところでくたばんじゃねえぞ」
織田が滅びてまだ間もなく、いま各陣営はそれぞれに力を蓄えることに専心している。奥州も例外ではなく、現状、束の間の平穏の中にあった。
だが、この忍の生きる世界はそうではないのだろう。
むせかえる血の匂いに紛れ、焦(きな)臭い風までが鼻先を掠めたような気がして、小十郎は無意識に眉根を寄せる。
うららかな季節の宵には似つかわしくない、それは争乱の予感。
小十郎は佐助を農具小屋へと運び入れた。
畑の脇に設えられたそれは農機具を収納する目的で建てられたものだが、土間だけでなく一服できるだけの広さの板の間と、その中央には囲炉裏がある。その板の間へ茣蓙(ござ)を敷き、怪我人を仰向けに横たえた。
生憎満足な治療道具は揃っていないが、応急的にでも処置をほどこし安全を確保した上でなければ、必要な薬を調達しにこの場を離れることすらおぼつかない。
囲炉裏に火を起こして井戸水から湯を沸かすと、佐助の装束を脱がせ、膿まねば良いがと案じながら、ひとつひとつ丁寧に傷口を洗い、出来る限りの治療をしていく。
ひと通りの処置を終えたことを確かめて、ようよう小十郎は息をついた。知らず神経を張りつめていたらしいことを自覚し、今度は違う意味で溜め息が出る。
桶の残り湯で血にまみれた手を洗うと、陣羽織を脱いで佐助の身体を包むように覆ってやった。
見下ろした佐助の顔は、囲炉裏の炎にあぶられ血色良く見えているが、それは錯覚でしかない。手当てのために触れた佐助の身体はひどく冷たかった。刻む鼓動が弱々しく、また、やけにゆっくりであったのは、体力を温存しようとしてのことだろうか。
正直なところ、身を繋ぐような間柄であるにも関わらず、小十郎にはいまだこの忍のことがよくわからなかった。
考えても詮ないことと割り切っているつもりで、ときおり顔を覗かせる、それは厄介な棘だ。
新たな薬の調達と、目の前の身体をあたためることと、その両方を天秤に掛け、小十郎は後者を優先した。
桜の季節になったとはいえ、まだ夜には冷え込むこともある。
意識を取り戻させることが出来れば、傷の方は佐助本人がなんとかするだろう。
小十郎は黒龍と脇差しとを傍らに並べ置き、諸肌を脱いで佐助のとなりに身を延べた。生憎、いまここには暖をとるための道具が充分には揃っていない。
脇腹の傷に障らぬようにと反対側から、そしてなるべく触れ合う範囲が広くなるよう上体を伏せる。触れた途端、死人(しびと)かとまがう冷たさに跳ね起きそうになるが、そこはぐっと堪えて更に肌を密着させた。
佐助が何者かに追われていたのであろうことを思えば、眠ってしまうわけには行かない。が、意を決するまでもなく、触れる塊の冷たさが小十郎にそれを許しそうになかった。
薄闇が陽の光に裂かれる頃、まんじりともせず夜を明かした小十郎は、小屋の外に鳥の力強い羽音を聞いた気がして身を起こした。
となりに横たわる忍の目蓋はまだ降りたままだ。
脱いでいた小袖を着込み、刀を手に土間へと降りる。草鞋に足指を通して引き戸を開け、生き物の気配に振り返れば、
「⋯⋯おまえか」
見慣れた鷹が一羽、小屋の屋根の上にとまっていた。佐助が使役している忍鳥のうちの一羽である。名は知らぬ。だが、奥州への使いの際には常に同じ個体と決まっているらしく、何度か目にしているうちに、ほかの鳥との識別が出来るようになっていた。
主人の後を追って来たのだろうか。
「優秀なんだな」
主に似て。
見れば鷹の片足には文筒がついている。
「⋯⋯」
小十郎は思案顔で鷹を見上げた。佐助がこの地に在ることを、彼の主に知らせるべきかどうかと考える。
この忍鳥、主の命でなくとも文を託せば上田へ戻るくらいはするだろうか。
しかし、甲斐の虎の命で隠密行動している可能性があることに思い至れば、更に迷いの幅が広がってしまった。どうすることが最善なのかわからない。しばし小十郎は考え込む。
と、そのとき、かすかな呻き声が小屋の中から聞こえ、小十郎はすぐさま思考を打ち切った。
「猿飛」
「⋯⋯っ」
「気が付いたか」
小屋へと飛び込めば、どうやら意識を取り戻すと同時に跳ね起きてしまったらしく、佐助は左手で脇腹を押さえ呻いているところだった。右手にはクナイを握ったままだ。呆れるのを通り越していっそ感心さえしてしまう。
ようよう顔を上げた佐助が、
「みぎ、め、の旦那⋯⋯?」
なんであんたがここに、と一瞬訝しむ表情を見せ、けれどすぐさまそれは晴れて、
「悪りぃね。あんたの手、煩わせ、ちまった、みたいで」
説明を待つまでもなく状況を推察したのだろう、心得顔から発せられたのは、息が上がってまだいくぶんおぼつかない謝罪の言葉だった。
「偶然だ。だが見つけちまったもんはな」
看過できなくても仕方がない。第一あんなところで屍になられては寝覚めが悪過ぎる。
「一応手当はしたが、ありあわせの薬しかなかったからな⋯⋯充分じゃあねえぞ」
「止血、して貰えただけで、恩の字さ。礼を言うよ」
あとは自分でなんとかするし。
佐助はそう言って、装束のどこからか革袋を取り出し、中に入っていた道具を並べはじめた。つい数刻前まで冷たい身体をして横たわっていたとは思えない回復ぶりだ。
針と糸を手に取るのが見えた。
「縫うのか」
「その方が治りが早いし、無理も利くからね」
すぐにでも行動を開始したい佐助にしてみれば、迷う余地のない選択だ。そもそもこんなところで悠長に油を売っていていい身分ではない。
小十郎は与り知らぬ事情だが、諜報の命を受けて暗躍していた佐助としては、動けるようになり次第甲斐へ戻る必要があった。もっとも某国領地への潜入により知り得た情報は、先に帰参するだろう配下の忍が報告を上げる手筈だが、彼らの退路を確保するために『敵』を引きつけ陽動し、已む無く負傷した以上、自身の無事を知らせるには一刻もはやく出立するに限る。幸い追っ手はすべて仕留めてきたから、ここで襲撃を受ける心配はない筈だ。
針穴に糸を通す器用そうな忍の指先に、小十郎の視線が吸い寄せられている。
「鏡は要るか?」
自分の脇腹を覗き見るのは存外難しいものだ。気を回して尋ねてみたが、
「いいよ、見えなくても困らないから」
佐助は何でもないことのように首を振る。
指先の感覚だけで状態が判るらしい。さすが忍と云うべきか。
小十郎はその場に座り直し、佐助の手元をじっと見つめている。
「⋯⋯右目の旦那」
顔を上げずとも小十郎の視線を感じているのだろう、針を操る手はそのままに、言葉だけが向けられる。
「別に見てなくても俺様ひとりで大丈夫だし」
だいたい開いた傷口から覗く血肉など、見ていて気持ちの良いものでもないだろうに、と指摘すれば、
「ああ、そうだな」
表面上は素直に、しかし無感動にそう応じて、やはり小十郎の目は傷を、そして処置をほどこす佐助の手指の動きをじっと見据えたままだ。
戦乱の世に生きる者ならば、血の色香や内肉もあらわな傷口を目の当たりにしていちいち具合を悪くするような、そんな細い神経を持ち合わせている筈はないのだが、執拗とも感じられる真剣さが気になった。
「⋯⋯なんかあった?」
「⋯⋯」
無自覚なのか自覚があるのか、佐助の問に小十郎は無言を返す。
沈黙の時間が流れ、ややあって口をきいた小十郎は唐突に別の話題を持ち出して来た。
「そういや、屋根の上に忍鳥がいるんだが」
あからさまに話を逸らされたことには気付いたが、敢えて佐助はそれに乗る。
「うん?」
「甲斐か上田か、てめえの所在を知らせる必要はあるか?」
「どうするかな⋯⋯」
どうせすぐにここを発つことにはなる。いかに佐助が俊足であれ鳥の羽ばたきには勝てないが、それでも到着の遅れは数日だ。配下の忍たちは既に帰路に就いているし、先に戻った彼らが事情を説明すれば、佐助が足止めされた事情はその時点で信玄にも幸村にも伝わるだろう。ただ、先に無事――と言い切ってしまうには甚だ語弊があるが――を知らせておくに越したことはない。
「あとで文を書くよ」
「そうか」
佐助の言葉に頷き、それにしても、と小十郎は更に話題を変えた。
「てめえにしてはドジ踏んだもんだな」
「俺様真っ向勝負にはあんまり向いてないからさ」
「ああ⋯⋯」
――なるほど、そういうことか。
小十郎は得心して頷いた。佐助に怪我を負わせたのは彼の同業者ではないのだ。草の者とは違い、おそらく正面から剛の力で攻めてくる相手だったのだろう。忍である佐助は、力技に対し真っ向勝負で応じることがあまり得意ではない。
結局、佐助が傷口の縫合を済ませ道具類を片付けてしまうまで、小十郎はその場に腰を据えていた。
短い文をしたためて佐助が小屋の外へと出て行った。信玄宛てにか幸村宛てにか、いずれにせよ小十郎に詮索する意志はない。
さして間をおかず、力強い羽音を背に佐助が戻って来たところで、
「触れてもいいか」
と、小十郎は切り出した。
「?」
「いや、その⋯⋯」
この小屋に運び込んだ際、触れた佐助の四肢があまりに冷たく、思わず鼻孔に手をかざして呼吸を確かめねばならぬほどには死体のようであったのだと、しかしそれを口にすることが憚られ小十郎は言葉を濁す。素直に『生』を感じられなかったのだということが、なぜか白状できない。
――右目の旦那⋯⋯?
「いいよ」
小十郎の葛藤には気付いたが、内容を深く追求することなく、好きに触りなよ、と佐助は腕を差し出した。
わずかに逡巡のいろを見せながら小十郎の手が伸ばされる。
「⋯⋯」
手の甲を撫でるように三つ指を添わせ、小十郎は、ふう、とちいさく息をはいた。改めて触れてみた肌には、かすかにだが確かに温もりが宿っていて、けれど、平素のそれに比べればまだ冷たく感じられる。
もともと佐助の体温は低い。隠密裏の行動を常とする忍に於いて、自身の体温を自在に操ることは、制汗のために必要な術であり、訓練を重ねて後天的に身につける技のひとつだ。そのことは小十郎自身既に知っている。
小十郎はそっと手を離した。
「どうしたの」
閨の中で囁くようなやわらかい声音が小十郎を気遣う。
今日のあんたはなんだかおかしいね? そう小首を傾げる佐助を顎を引いて睨み上げ、
「てめえが⋯⋯」
いびつに絞り出された声で、苦い毒を吐き捨てるように小十郎は心情を叩き付ける。
「死にかけるようなヘマを⋯⋯っ」
身体が冷たく、呼吸は弱々しく、脈打つ鼓動もひどく遅く、じかに手を触れていても感じ取れているのかいないのか、己の知覚さえ疑う始末で。
震える声を耐えながらすべてを吐き出した小十郎は、そのまま佐助の視線から顔を背けた。
「それも忍の技のひとつだよ」
生命活動を弱めることであらゆる機能を低下させ、病の進行、傷の悪化、体力の消耗、そういったものを遅らせる術だ。今回の怪我でいえば、出血の量を抑えるために行使されていた。
当然、術を使った佐助本人は、己が回復可能だと確信している。
ただ、そうとは知らぬ小十郎にとっては、仮死にも近い佐助の状態は、困惑と不安の対象でしかなかったのだろう。
やっとその想像に思い至り、佐助は目を瞠った。対面に座す男の横顔をまじまじと凝視し、それから、ゆるりと双眸を細める。
「心配させた?」
「⋯⋯」
無言を貫くのは図星だからだ。
こわい思いをさせたのだとようやく気付いて、申し訳なさ半分、嬉しさ半分。嬉しいと思ってしまったことに更に申し訳なさが上乗せされる。
「右目の旦那」
腕を伸ばせば届くところに座る小十郎の身体を、佐助は力任せに引き寄せた。
「!」
咄嗟のことで反応できなかった小十郎は、すべなく佐助の胸に倒れ込む。
佐助は男の頭を抱くようにして左胸に触れさせた。
「わかるだろ? ちゃんと動いてる」
「てめえ⋯⋯!」
突然の行動にいったんは抗議の声を上げかけた小十郎だったが、わずかな惑いの後、口をつぐみ、ついにはおとなしく全身から力を抜いた。
暴れ出す様子のないことを察した佐助が拘束の腕を解いても、男は身を起こさず、頬を押し当てたそこから直接響いてくる鼓動に耳を預けているようだ。
やがて、男の左手が持ち上がり、佐助の右胸に触れ、古い疵痕のひとつをするりと撫でた。
「⋯⋯旦那?」
「てめえは確かにここに居るのにな」
右手を床に突き、凭れていた胸元から身を起こした小十郎が佐助の顔を見上げる。向けられたまなざしの揺らぎが佐助の情を絡めとった。
「まだ安心できない?」
それを訊かれたなら答えはひとつしかない。
「たぶん一生涯」
この男が忍である限り、自分が佐助の、己を信じさせようとする言動すべてに心底気を許すことはないだろうと小十郎は思う。望んで騙されることはあるにせよ。
それは忍としての佐助を信頼していることと同意義だ。
「てめえは忍だからな」
そんなことは、この関係を始める前から承知している、納得尽くの現状でもあった。
「本物か偽物かも知れたもんじゃねえって言うのに」
安心など遠過ぎる。
けれどそれを嘆くつもりはなかった。
いつ騙すか、騙され裏切られるか。どこかに緊張を孕んだままのこの関係こそが、小十郎が望み選んだものである以上。
「ひどいな、旦那。それじゃああんたはさ、いま目の前にいる俺様が影だったとしても、こんなことされてくれるって言うのかい」
そう言って、佐助の唇が下りてくる。
小十郎は嫌がるどころか、逆に忍の顔を引き寄せることでそれに応えた。
そこから先は揶揄など無粋なだけだ。
壁際に座るよう佐助を促したのは小十郎の方だった。
脇腹の傷を気遣ってのことだろう。
治療の最中からずっと上半身には何も着付けていなかった佐助が、手慰みに目の前の小袖に手を伸ばせば、
「自分で脱ぐ。てめえはおとなしくしてろ」
邪険に一蹴されてしまった。
おもしろくない。
不満げに唇を尖らせ、それでも素直にじっとしていたら、着物を脱ぎ終わった小十郎の方から触れて来た。
今日は珍しいことが続く。
されるがままであることを善しとしない小十郎は、もともと閨事に積極的だ。けれどそれは、始まってしまえば、という前提があっての話であり、こんなふうに自分から仕掛けたり誘うような真似をすることは滅多になかった。
傷を負っていない方の脇腹をなぞり上げる手つきは思わせぶり。さらには唇が、佐助の肌のあちらこちらを好き勝手さまよいはじめる。
額、鼻筋、唇、耳朶、首筋、喉頭、鎖骨――。
だんだんと下降していく熱く濡れた感触に、その先を期待して、じわりと腰が重くなる。
はじめの頃は、首筋や喉に触れられそうになると、反射的に振り払ってしまうことがよくあった。急所を無防備に晒すことへの致し方ない反応だ。それを佐助が容認できるようになった頃には、小十郎もまた、忍から向けられる欲望に身も心も侵蝕されることを、怖いと思わなくなっていたようだった。
身体が馴染むのが先だったのか、気持ちが融け合うのが先だったのか、いまとなってはもうよくわからない。
下へ下へと滑り落ちていく小十郎の唇が、とうとうそこに辿り着いた。
下帯をほどき、既に熱を持ち始めている陰茎を引きずり出す手に迷いはない。
唾液をためこんだ熱くやわらかな口腔に先端からゆるりと飲み込まれ、佐助は喉を反らして溜め息をついた。
――もしかして俺様今日は食われちまうのかな。
傷のこともある。小十郎が常以上に積極的なのは、そのせいだろうか。
とはいえ危機感のない佐助である。いつまでも小十郎の好きにさせておく気はさらさらない。
佐助は、淫猥な水音を発てながら上下する男の頭に手を添え、指を髪に絡めた。宥めるように、促すように、煽るように、何度も梳き、ときおり耳朶をくすぐり、喉をさすり、うなじを撫でる。
しかけられる悪戯に、そのつど小十郎の身体がひくりと跳ねた。
佐助を昂ぶらせることに集中している小十郎だが、彼自身の身にも熱が蓄積されているのだろう。四足で這う腰がときおりもどかしげに揺れる。
「右目の旦那」
熱心な口淫は名残惜しいが、そろそろ物足りなくなってきた。ただほどこされるだけの愛撫は手持無沙汰でつまらない。
もういいよ、と掠れた声で終わりを促し、顎に手を掛け上を向かせる。
と、うすく開いたままの唇から佐助のそれへと繋がっていた銀糸が、ぷつりと切れるのが見えた。
口端から零れ落ちた透明なしずくをべろりと舐めて、佐助はそのまま深く口づける。
「ん、う⋯⋯」
己の精の苦味が舌に触れ、青臭い匂いが鼻に抜けるが構うことはない。頬の内側の柔肉を舐め、ぞんぶんに口腔を掻き回し、舌を絡め、溢れる唾液を啜り上げて飲み下す。
「はっ」
執拗な口づけから解放すれば、新鮮な空気を欲して小十郎が喘いだ。迫り出した腰が行為の先を強請っているようだ。
荒い呼吸を繰り返す男に構わず、佐助はここまでのお返しとばかり、小十郎を煽ることに専念する。膝立ちにさせた腰を片腕で抱き寄せ、何もされていないのに固く凝った胸の色濃い部分に歯列を添わせれば、噛まれることで訪れるだろう痛みと、その痛みがもたらす悦とを期待したのか、息を飲む音が上から降ってくる。わずかに焦らし、詰めた息が吐き出された瞬間を狙って、ギリ、と歯を立ててやる。途端、濡れて上擦った声が啼いた。
痛みの後には慰撫を。
舌で押し包み、舐め、癒す。
嗚呼とよがる声がこぼれ、佐助の耳を喜ばせた。
佐助の背後の壁に縋っていた小十郎の両腕が板から離れ、向かい合った男の背に回る。
立てていられなくなった膝が折れて腰が落ち、小十郎は額を佐助の肩口に押し宛てて喘ぐ。胸元に荒い呼息を吐きかけながら、触れられないままに勃ち上がっている下肢を忍の腹に擦り付けた。
焦らすな、と声なき声で訴える。
「せっかちだねぇ」
笑いを含んだ声で揶揄い、佐助はまるく撓んだ男の背を宥めるように両手で撫でおろし、更にその手を下へと滑らせ、硬くひきしまった双丘を押し開いた。
「⋯⋯っ」
陰茎を伝い落ちた先走りで潤う淵に指を掛けると、それだけでそこはひくりと口を開閉する。今度は焦らすことなく、ぬめりを絡めとった指をずるりと滑り込ませた。
ひゅっと息を飲む音がして、佐助を抱く腕に力がこもる。それでも逃げることなく受け入れて、襞をなぞる指に、裡を拡げるよう曲がる節に、意志を持って侵されていく。
時間をかけて馴染ませるうちに、やわらかくほぐれたそこは二本目の指をも苦痛なく飲み込んだ。
「楽にしてなよ」
にちにちとはしたない水音を発てながら、佐助の器用な指が小十郎の排泄器を性器へと作り替えていく。
はやく佐助の熱い剛直で満たして欲しいと願うのに、まだだまだだとお預けを食らわされ続け、更なる飢餓感を煽られて、行き場のない熱が小十郎の身体の中で渦を巻く。
どうしようもない焦れったさに、いっそ喚き出してしまいたい。
三本目の指を差し入れられたところで、とうとう小十郎の堪忍袋の緒が切れた。
小十郎は顔を起こすと佐助の耳朶に歯を立てた。
「痛いよ、旦那」
言葉とは裏腹に喜色あふれる声音がしらじらしい。
「てめえ、が⋯⋯っ、いつまで経っても、⋯⋯っ」
挿れないのが悪いのだ、と口汚く罵って、
「くそッ」
膝に力を入れて自重を支えた小十郎は、腕を伸ばし、己の裡で好き勝手うごめいている忍の指を三本まとめて引き抜いた。
しつこいんだよ、と荒い息に遮られながらもどうにか言い募り、小十郎は佐助の怒張に手を添える。そして、濡れた切先を後腔の口へ宛がい、ふう、と大きく呼気を吐き出すと、ひと息に腰を落とし込んだ。
「っ!」
貫かれる衝撃に反った背を咄嗟に支え、佐助の腕が小十郎の腰を抱く。
熱くうねる柔肉に包み込まれ、衝動のまま突き上げたくなるのを奥歯を噛み締めて耐える。馴染むのを待つつもりでじっとしていると、そんな佐助の気遣いすら癪に障るのか、自棄のような奔放さで小十郎の腰が動き始める。
「ちょ、旦那っ、まだ⋯⋯!」
「腹にちから、入れん、な、よ」
せっかく縫い綴じた傷が開いちまうぞ、と、物騒だが、あながち冗談だと笑い飛ばすことも出来ない忠告をして、更に激しく腰を上下する。
「無茶、言う、よ、ね⋯⋯っ」
「てめえ、は、優秀な⋯⋯、はっ、忍なん、だろ⋯⋯?」
にやりと嗤って見せたのは最後の意地だ。
「こんなときばっか、そう、いう⋯⋯、く!」
こねるように腰を回され、思わず佐助は息を詰める。動くなと言われて従えるものではなかった。こんな魅惑的な肉筒の中でじっとおとなしくしてい続けるなど、拷問に等しい。
堪えきれず、佐助は小十郎の背に回した腕を交差させて両肩をがしりと掴むと、渾身の力で重量を加え、動けなくしたところを思うさま突き上げた。
「――――ッ」
喉を振り絞り、小十郎が溢れる涙を撒き散らして仰け反った。
がつがつと身の裡を抉るように突き上げ擦り上げてくる熱い肉に翻弄され、容赦なく与えられる強い悦に惑乱し、自制が効かない。
捻じ込まれるそれの動きに押し出されて、あ、あ、あ、と意味のない音が口を割る。
――猿飛⋯⋯。
五感すべてを刺激され、小十郎自身は生きていることを否応なく実感させられているというのに、それを与え、もたらしている男の生(せい)が希薄過ぎて違和感を払拭できない。
こうして熱く脈打つ楔を身の裡におさめ揺さぶられていてなお、いま腕の中にあるのは本体ではなく分身なのでは、と益体もないことを考えてしまうのだ。
本体なくして影が生まれいずる筈はなく、もし今ここに存在しているのが影であるにしろ、いずれかの地に本体は在るということで、そんなことは分かり切っているのに。
その筈なのに――。
「旦那、なぁによそごと考えてんの?」
佐助の不満げな声に意識を引き戻されて目を見開く。ぼんやりと見下ろした忍の顔は、どこか痛みをこらえるような切なげないろを湛えていた。
「すま、ん、あ⋯⋯っ」
すまない、と詫びる言葉が終わるより早く、互いの腹の間で濡れそぼち解放を望んで揺れていた屹立を、器用な指に絡めとられる。ぐにゅりと鈴口を苛められて、思考は熱に融け、何も考えられなくなっていく。
達っていいよ、と耳元に囁かれ、蜜口を抉じ開けるように弄られて、きつく閉ざした目蓋の裏が白く明滅した。
「猿飛っ!」
縋るような呼び声に続いて、低く抑えた嬌声が喉を戦慄かせる。ぶるりと小十郎の腰が震え、ついで熱い飛沫が佐助の腹を濡らした。
苦悶にも似た、劣情に塗れた男の逐情の表情にずくりと性感を刺激され、佐助もまた、気付けば小十郎の身の裡へ一滴のこさず精を注ぎ込んでいた。
「珍しいこともあったもんだね」
あんたがあんなふうに我を見せるなんて。
「そうでもねえだろ」
そっけなく答えた小十郎が手際よく身支度を整えていくのを横目に見ながら、佐助もおとなしく彼に倣うことにする。井戸から汲み上げてきた桶の水に手ぬぐいを浸し、硬く絞ったそれを広げて自分の身を清めた。血まみれの上衣の処置はひとまず保留して、下肢に纏う装束だけを身に着ける。
さて、この汚れをどうしたものか。
佐助が胡座をかき、血染めの衣を眼前にひろげていると、その隣へ、陣羽織まできっちり着込んだ小十郎が腰を下ろした。
「⋯⋯それより傷は大丈夫なのか」
「お陰様で」
旦那が積極的に動いてくれたからさあ、などとうそぶく佐助を一瞥し、事実傷口が開いていないことを視界の隅に確認した上で、小十郎は己の内面へと意識を向けた。
――我の強い。
自分は元来そういう生き物だと小十郎は知っている。自覚しているからこそ、それを隠蔽しようと躍起になるのだ。副将の鑑という世間の評判を裏切らぬよう、『役割』を完璧に演じることを己に課しているだけのこと。表面の皮を一枚剥ぎ取ってしまえば、そこには好戦的で己の望みに貪欲なだけの獣が潜んでいる。
そんなことは、この忍にはとうの昔に気付かれているだろうと思っていたのだが。
だが、もし。
疑惑の種が小十郎の胸に芽吹く。
これまでにも幾度か、もしやと訝ったことはあった。
――もしも、いまここにいる男が『猿飛佐助』そのものではないのだとしたら。
そんな埒もないことを想像する。
ぼんやりと思考を巡らせているあいだ、小十郎の目線は無意識に、佐助の膚のあちらこちらに刻まれたふるい疵痕をなぞっていた。
その視線を揶揄いの餌にしようと思ったのだろう、
「なに? もしかしてあんだけじゃ足んなかった?」
満足できなかったのか、と下世話な解釈を口にして忍がにやつく。
言われて初めて、小十郎は自身の行動を自覚した。
「そんなんじゃねえ」
一瞬虚を突かれて目を瞠ったものの、事実小十郎が考えていたのはまったく別のことだった。否定の言葉を返しつつ、この機会に直接訊いてみるのも悪くはないかと思い立つ。
「なあ、忍」
「うん?」
「てめえの『影』ってヤツは⋯⋯」
いま自分はずいぶん馬鹿なことを問おうとしている。その自覚はあった。
「『本体』に何かあってもそれ単独で動けるものなのか?」
影分身がどのような『仕組み』で成り立っているものなのか、忍ではない小十郎にはそこのところが解るようで解らない。想像はしてみるものの、根源的な納得にはどうしても至れないのだ。
「旦那はどう思う?」
「⋯⋯」
逆に問い返されて言葉に詰まる。
常識的に考えれば、影を生み出す術を行使する佐助本体を失ってなお、存在し続ける幻などというものは有り得ない。だが、そうと言い切ることを躊躇うのは、目の前の、この破天荒で型破り過ぎる忍ならばあるいは、と、疑いをいだいてしまうせいだ。
黙り込む小十郎を愛おしいものを眺める視線で見つめ、佐助はうっそりと笑む。
「そんなのどっちでもいいでしょ」
「⋯⋯」
誤摩化されているのか、揶揄われているのか。
それとも。
いつか来る日への、これは布石か――。
眉間に皺を寄せた小十郎のおもてに浮かぶ表情は、戸惑いでも怒りでもない。
疑いか、痛みか、哀しみか。
ちょうどそのときだ、急に佐助が何かを悟った顔つきになったのは。
「あ、なるほど」
合点がいった、と忍は呟いた。
「要するに、旦那はさっき、もし俺様が影だったら、こんな疵痕はないんじゃないかって考えてたわけだ」
「⋯⋯そうだ」
「怪我して死にかけるようなこともないだろう、とかも?」
「ああ」
佐助の言うとおり、先刻の小十郎は漠然とそうしたことを考えながら、忍の疵痕や生傷を眺めていたのだ。
「俺様がそんな中途半端な術使うと思う?」
「だからだ」
小十郎は首を振る。
そうは思わないから疑った。
疑って、疑いを晴らすための、何か確信を得たかった。
「教えたげなーい」
忍は笑って男を煙(けむ)に巻く。
「意地が悪いな」
返って来たのは諦観の笑みひとつ。小十郎もまた、素直に正解を聞けるとは思っていなかったのだろう。
「忍だからね」
影は影であって佐助自身ではない。そして佐助は、たとえそれが己の分身であろうとも、己自身でないものが小十郎に触れることを善しとするような忍ではなかった。
故に、今ここに居るのは確かに、小十郎の言うところの本体だ。
だが、その真実を告げる気はない。
そして、小十郎の問い掛けそのものには、佐助は答えを明示していなかった。
一生知らぬままで居ればいい。
いずれきたるそのときに、影を前に安堵の吐息を漏らしてくれるなら。
それでいい。
それが、いい。
主を失ってなお、存し続ける影のありやなしや――。
了 2012.05.04発行『虚くれなゐ』より再録/2018.12.18 微修正