「竜の右目が行方知れず⋯⋯?」
諜報を目的に奥州へ放っていた部下によってもたらされた一報に、武田軍真田忍隊隊長・猿飛佐助はわずかに瞠目し、すっとその面から表情を消した。
伊達軍が、一度は総べたはずの奥州に於いて蘆名との交戦中、南部・津軽・相馬三勢力から同時に反旗を翻され窮地に陥っているとの情勢が伝えられた直後のことだ。
その戦場(いくさば)に軍師・片倉小十郎の姿がないという。
状況報告を終え、ふたたび己の持ち場へと戻っていく部下と入れ違いに、最新の情報を上げるため、佐助は大将・武田信玄のもとへ向かうべくその場から跳躍した。そろそろ主・真田幸村が薩摩へ出立する頃合いでもある。見送らねばならない。
南へと加勢のために発つ主の姿を信玄と共に屋敷の屋根上より見届けて、その場を辞した佐助は手甲に覆われている己の手指に視線を落とした。五指の先が冷え、先刻からずっと痺れたように感覚をなくしている。
佐助の両の手指は五指すべて、その先端が青黒く変色していた。毒に対しての耐性をつけるため、幼いころから微量の毒を服(ふく)み続けてきたことがその原因だ。指先だけでなく、赤茶けた頭髪の色もこの毒の服用に因る。
忍として任務に就いているあいだは基本的に手甲を装着しているため素手を晒すことはごく稀なのだが、小十郎は他軍の将の身でありながら佐助の指のことを知る数少ない存在だ。
せんだって、設楽原で明智光秀の襲撃を受けた伊達軍が武田屋敷に身を寄せることとなった折り、小十郎は部下三名の命を救うために松永久秀と対峙し、仕掛けられていた香炉の毒に冒された。武田屋敷に引き上げた後、毒の作用のぶりかえしに苦しんでいた小十郎を、佐助は解毒剤を調合することで助けたのだが、その看護の際に変色した手指を見られ、理由を説明した、という経緯がある。
気味が悪いだろうと慮り視界から隠すように握り込みもしたのに、小十郎はその指を悪くないと言い、佐助がその指で触れることを許した――どころか、むしろ積極的にそうすることを望まれさえした。
それが妙に佐助の意識にとどまり、忘れ難い存在になってしまったのだ。
第六天魔王・織田信長に引導を渡し、伊達軍が奥州へ引き上げることになった前夜、しのび込んだ客間の一室で、佐助が小十郎と肌を合わせたのも、身体を介してでも繋ぎたい縁があったからだ。
ただし、当時そこまでのことを佐助が考えて行動していたのかと問われれば、それは違うと答えなければならない。あのときは、このまま何事もなく別れることは出来ない、言葉を交わすだけでは知り得ない何かをわかりたい、そう感じていた程度だ。結果、肉を交えて己が何を知り得たのかは、佐助自身にもわからないままだったのだが。
だから、更に後日、越後への遣いの帰りに奥州へ足を伸ばした佐助は、二度目の逢瀬に望みを賭けた。
小十郎からの誘いに応じるかたちで肌を重ねた後、なぜ自分と閨を共にすることを許すのか、厭わぬのか、それを問う佐助に、気持ちの良いことは嫌いじゃない、と答えた男のそれは嘘ではないにしろ理由のすべてでもなかった。佐助自身、うわべの建前だけを教えられたと気付きはしたのだが、それ以上の追求はしていない。
理由を突き詰めることに意味がないとは思わない。だが、知らぬままでも続けていけるのならば、この関係を維持することの方がそのときは重要に思えたのだ。
こうして、真意を聞き出すことを諦めはしたものの、関係そのものを積極的に解消しようという意思は無論なく、二度目の逢瀬以降も、佐助が奥州へ小十郎を訪ねるというかたちでふたりの関係は細く続いていた。
そんな彼らが最後に顔を合わせ言葉を交わした場所は川中島。
圧倒的な数的有利で豊臣軍に包囲され、対峙していた武田・上杉両軍と、そこを突破しようとしていた伊達軍とが、もろとも絶体絶命の窮地に立たされたときのことだ。
『猿飛、伝令を頼む』
佐助に策を授け、小十郎は彼の主と共に、豊臣秀吉・竹中半兵衛の両名に挑んで時間をかせぎ、見事、三国数万の兵馬をその場から離脱させることに成功した。
あの後、彼らは無事に奥州へ帰還した筈だ。
武田軍がそうであったように、伊達軍にも豊臣の手の者が内通者として紛れていたに違いないが、燻り出す前に仕掛けられたということなのだろうか。
それにしても、行方知れずとは穏やかではない。
浅からぬ縁を結んだ相手だ、小十郎の安否が気にならないといえば嘘になる。だが、もしも死亡したのであれば、その情報はすぐ己の耳に届くだろう確信が佐助にはあった。あの男の才能と立場ならば、その死は噂の段階であっても必ず周囲に漏れ伝わる。伊達軍における彼の重要度は敵将誰しもが認めるところで、死んだとあらば、機有りとみて奥州へ兵を進める軍が現れるだろうことも必定だ。
もっともそんな噂は、
「嘘でも聞きたくないけどねえ⋯⋯」
指先に痛みが走ったような錯覚をおぼえ、内頬をわずかに噛んで耐える。視界が蒼く揺らぐのは、血の気が引いている証拠だ。そんな思わぬ動揺ぶりに、いかに自分があの男に嵌っていたのかを改めて突き付けられたようで、佐助は己の意外な情動を知り、我がことながら驚いていた。
「右目の旦那⋯⋯」
――無事でいてくれよ⋯⋯。
正確な情報を得るために自ら動きたい気持ちも当然あったが、幸村が甲斐を離れたいま、佐助は自由が利かず勝手ができない。それが助太刀のためにか信玄からの言を伝えるためにかは判らぬものの、いずれ幸村を追うような事態にもなりそうだ。なにせ忍のあしは早馬よりも速い。
ともあれ今はただ己の任務をこなしながら配下の報告を待つしかないだろう、そう自分に言い聞かせ、抗議する指先を宥めて佐助は前を向き歩き出した。
やがて、奥州でひるがえった反旗をすべて叩き折った伊達軍が、大坂を目指し進軍して来た。甲斐にて武田軍とあわや交戦かという一触即発の事態になりかけたが直前で回避、信玄と政宗とが豊臣の意図を確認し合った際、奪われた物を取り戻しに行くという言葉を仰臥した枝上で耳にした佐助は、小十郎の居場所と攫われた意図とを把握する。
強奪が軍師としての頭脳を買ってのことならば、まず間違いなく小十郎は五体満足で豊臣の手に堕ちているだろう。彼を味方に取り込もうと画策している以上、危害をくわえてしまっては意味がない。
これで憂いはいくばくか払われたが、その後も佐助が小十郎と直接まみえる機会は長らく与えられないままでいた。
そうして、焦がれつづけた邂逅は大坂城内、地下牢で。
豊臣方の動向の仔細を探ることを目的に潜入を試みた本拠地で、佐助は地下牢に囚われている小十郎の姿を発見するに至る。
脱牢の手助けをした際、貸しにしておくなどと敢えて口にしたのは、とりたてて下心があったからではなかった。もっとも、ここで恩を売っておくことにより、かつて協力を乞うた武田道場での助太刀程度の見返りなら、また期待してもいいだろうくらいの打算はあったのだが。
かすがという第三者の目もあったため、私的な言葉を交わすいとまは皆無に等しく、また当初の目的を最低限果たし終えた途端、風魔小太郎と遭遇、交戦する羽目に陥って、追い立てられるように脱出せねばならず、慌ただしい別れになってしまったのだが、互いに命さえあればまたいずれ会える。
幸村からの、遊軍として甲斐にとどまっていて欲しいという要請に従い、待機する信玄と共に戦況を見守りながら、佐助は再会の日に想いを馳せていた。
豊臣が引き寄せ手中におさめかけていた天下は、政宗が秀吉を捩じ伏せ、小十郎が半兵衛を退け、幸村が元就を粉砕したことによりまたも千々に乱れ、誰の物になるか、三たび混沌の様相を呈することとなった。
豊臣の大掛かりな戦略に巻き込まれ翻弄されて、疲弊しきった兵力を立て直すことはどの陣営にとっても急務であり、現状、即座に他国を侵略できる軍は存在しない。伊達も武田もその例外ではなく、書状を交わさないまでも暗黙の了解の内に一時休戦のていになっている。
だが、軍としてのそれらの方針が忍の諜報活動に影響を及ぼすことはない。佐助は戦忍であるが、戦がないからといって休んでいられることは滅多になく、平時には各地の情報収集に駆り出されるのが常だ。
そうして佐助は奥州へと足を向けていた。
先の動乱のさなか、薩摩行きの道中で望むと望まざるとに関わらずさまざまなことを経験し、武将として一皮剥けたらしい幸村が、これまで通りに宿敵との一騎打ちを求めるかどうか今の段階では判らない。それでも、伊達軍の情勢を把握しておくことは、幸村個人の思惑如何に関わらず武田にとって必要な事項のひとつだ。
情報収集を終え配下の忍を先に甲斐へ帰還させると、佐助はひとり奥州に居残り小十郎の姿を探して領内を駆けた。
「右目の旦那!」
求めた姿は畑に佇んでいた。この男が趣味の野良仕事に精を出すことが出来る程度には、奥州全体が安定し平穏を取り戻しているという証拠である。
「武田の忍か」
頬を伝う汗を首からさげた手ぬぐいで拭いながら、小十郎が振り向いた。
「元気そうでなにより」
「てめえもな」
荒れた畑を前にした小十郎は、畝を作り直すところから始めていたらしく、鍬を手に地道な作業に没頭していたようだ。佐助の姿を奥州の地に見ることをこの男は当初ずいぶん警戒していたのだが、逢瀬を重ねるうちに態度が軟化し、やがて何も言わなくなった。佐助の諜報活動を侮っているわけではなく、むしろ忍としての才を認めてもいるようなのだが、小十郎自身の口からは決して情報を聞き出そうとしない姿勢に、一定の信頼を置いているのかも知れない。
事実、佐助自身が小十郎からじかに伊達の軍機がもたらされることなど有り得ないと知っていたし、労せず引き出せるとも思っていなかった。忍の拷問術を駆使して強制的に口を割らせる手段がないではないが、それを実行する意思は少なくとも現状の佐助にはない。
「ここらで一服するか⋯⋯」
聞かせるともなく声にして、小十郎は鍬を肩に担ぎ畑の西側にしつらえてある小屋へと歩き出した。佐助も当たり前のようにその後を追う。
農具が土間に仕舞われている小屋には、横になって休息することが可能な広さの板の間がある。ここ奥州に於いて佐助と小十郎とが情を交わす場は、片倉邸かもしくはこの小屋かの二択だった。
わらじを脱いで板の間に上がり、竹筒に入れて置いてあった水を取ろうと手を伸ばした小十郎の腰を、背後から佐助の腕が捉え、引き寄せる。
抗議の声を上げる隙もない素早さで口を塞がれ、馴染んだ味の薄い肉葉が侵入してきた。
「⋯⋯ん」
はからずも濡れた声が鼻孔を抜ける。
顔を合わせることと枕を交わすこととが同意義になったのはいつだったか。
肌を重ねた数だけ小十郎の搦手を知る佐助の手管には容赦がないが余裕はあって、翻弄されるばかりの男にはそれがおもしろくない。
いまも、気付かぬうちに、手甲を着けたままの硬く冷たい手が身頃の衽を割り、胸の過敏な部分を探ろうと蠢き始めていた。口腔を解放した舌は小十郎のうなじを這い、ときに吸い、しびれるような悦を刻んでいく。
板の間に両手を突き、獣の姿勢で背後から佐助を受け入れて、せめてもの意趣返しにと、小十郎は隘路を拓く男をきつく締め上げた。
「⋯⋯っ!」
短く背に降り落ちた艶声にわずかばかり満足し、けれど途端に激しくなった腰の動きに肘を折らされ、食い締めた歯列を圧し開かれて、こらえようもなく啼かされる羽目になる。
気を遣る寸前、ずるりと裡から自身を引き抜いた佐助に躯を仰向けに返され、
「な⋯⋯に、⋯⋯、っ!?」
抗議するより早く膝を押し割られ、ふたたび身をふかく繋がれる。衝動にのけぞった小十郎の左胸に、佐助の手が押し当てられ、それはさいごの瞬間まで離れることがなかった。
その仕草が、妙に鮮明に小十郎の意識に刻まれる。
まるで鼓動を聞くような、そう、生きていることを確認したいというような――。
情交の余韻が色濃くただよう空間で、汗と、それだけではない体液にぬめる人肌から手を離し、
「動けるかい⋯⋯?」
手早くも丁寧に後始末をした忍が声を掛けると、鈍い動きながら小十郎は自力で身を起こした。
汗で額に貼りつく前髪を掻きあげ撫でつけて、脱ぎ散らかされていた衣を引き寄せ、緩慢な動きで身に着けはじめる。
それを横目に見守りながら、佐助も、こちらはてきぱきと忍装束を纏って行く。身支度の最後、小十郎がかつて気に入ったと言った、変色した佐助の指先が、装着された手甲に隠される。そのさまを惜しむように追っていた男の視線に、小十郎の無事を確信するまで、折りに触れて五指を苛みつづけた理由のわからぬ痛みを思い起こし、佐助は唇を噛んだ。
「どうした?」
不意に動きを止めてしまった佐助の、常とは違う様子に気付き小十郎が首を傾げる。
佐助は自身の手に視線を向け、口を開いた。
「指が、さ」
「ゆび?」
「そう、指。あんたが気に入ってくれてるこの指が、ね」
ずっと、痛かったんだよね――。
佐助はそう言って、一度は嵌めた右手の手甲をふたたびはずしてみせた。現れた、青黒い皮膚の色に目を落とし、言葉を続ける。
「噂のひとつも流れなかったから、生きてるんだろうとは思ってたけど」
「?」
不意にはじまった回顧の意図がわからず訝しむ小十郎を置き去りにして、佐助は己の内側に深く入り込んでしまっているようだ。
「あのまま、あれっきり、あんたに会えなくなってたかも知れないんだって思ったら⋯⋯」
こころ穏やかではいられなくて。
このままじゃ駄目なんじゃないかって、そう思えて。
苦い笑みに歪められていく佐助の口端を、
「⋯⋯」
徐々に、そして意識して、やわらかな感情を削ぎながら、小十郎はけんのんな眼差しで眺め遣る。
うつむく佐助はそのことに気付いていない。
「猿飛、帰れ」
「え?」
唐突な一言にハッとして顔を上げると、ひどく険しい表情をした小十郎と目が合った。
「てめえはもう二度とここへ来るな。屋敷の方へもだ」
「右目の旦那⋯⋯?」
急にどうしたというのか、まくしたてて来る言葉の意味がわからず当惑する佐助に、小十郎は更に追い打ちをかける。
「伊達に用があるってんなら正式に名代として上を通せ」
「ちょ、待っ⋯⋯」
いきなり態度を豹変させた理由がわからない。
「どういう⋯⋯」
「てめえとはもう会わねえって言ってんだ」
「待ってくれよ旦那⋯⋯! 何、急にどうしたっての!?」
忍の戸惑いも抗議も徹底して取り合わず、立ち上がった小十郎は猫の子でも投げ捨てるように、むんずと首根を掴んで佐助を小屋の外へと放り出した。
「二度と俺の前に姿見せんじゃねえ!」
突き飛ばされ、たたらを踏んで振り向いた佐助の襟首が、改めて伸びてきた腕に掴まれ引き寄せられて、
「てめえはもう少し利口な忍だと思ってたんだがな」
鼻先が触れ合う距離で聞こえた声は、重く昏い響きを伴って鼓膜を打った。
どうやら買い被り過ぎだったらしい――。
最後、耳元にそう言い捨て、小十郎の腕は佐助の胸ぐらを渾身の力で突き放した。
「馬鹿が⋯⋯」
佐助の姿が視界から見えなくなり、その気配もが完全に消えてしまったことを確認して、小十郎は苦くくちびるを歪めた。
「なにもかも承知した上での戯れじゃなかったってのか」
少なくとも小十郎の方はそう思っていたからこそ、敢えて今まで理由を明確にしないまま重ねて来た逢瀬だったというのに。
佐助が敵であり忍であったればこそ、小十郎は佐助をいつでも切り捨てられると思ってきた。情けをかける必要も、容赦をする必要もない、たとえ裏切っても裏切られても、それに対し動かす心を持つ必要のない相手だと。そうと割り切ってしまったから、刹那刹那を繋ぎ、これまで縁を重ねて来たのだ。
なのに。
「てめえの本分を忘れてどうする」
敵将の生死になど惑わされやがって。
「てめえは優秀な忍なんだろうが」
それが、私情に揺らぎ、あまつさえそれを言葉にするなど、
「忍失格じゃねえか」
そうさせたのが己の存在だというのなら、この縁は断つしかない。
そう決意させる程度には、小十郎の側にも佐助に対する情がある。
小十郎にとっては政宗が、そしてあの忍にとっては幸村が、何を置いてもの最優先事項である筈で、互いの存在が己(おの)が主の障害となるならば、相手を斬って捨てることをも厭わない。
そうあらねばならない。
それなのに。
「ぬるいこと言いやがって⋯⋯」
馬鹿が。
もう一度そう吐き捨てて、小十郎は板壁にこぶしを打ち付けた。
「かすが殿、しばし待たれよ!」
主・上杉謙信から託された書状を信玄へ届けるために甲斐を訪れていたかすがは、任務を終えて引き上げようとしていたところを若虎の声に呼び止められた。
「真田幸村?」
どうしたのだ、と問い質す間もなく、拝み倒す勢いで、
「佐助に会って行っては下さりませぬか! このとおり、お頼み致す!!」
必死の形相の幸村に頭を下げられ、生来ひとの好い性質(たち)である女忍は気圧されるままに頷いてしまっていた。
幸村曰く、
「過日、奥州に赴いた折り何事かあったようで、こちらに戻ってからずっと様子がおかしいのでござる」
なので現在は幸村の身の回りの世話以外の任務を解いているという。
『それがしがいくら問うても何も申しませぬ。なれど』
同じ忍であるかすが殿になら、気を許し何か吐露するのではないか、と。
それはどうだろうかと即座に疑問をいだいたかすがではあったが、それを正直に口にしてしまえば更に面倒なことになりそうな予感を覚え、ともかく会うだけは会ってみると約束してその場を収めた。
「どうした猿飛佐助、ずいぶんと浮かないかおをしているな」
幸村と別れたあと、木の枝の上で腑抜けた姿を晒して寝そべる佐助の姿を探し当て、かすがは地上から声を掛けた。常ならばちょっかいを掛けるのは佐助の方で、かすがはそれを鬱陶しがるか無視を決め込むか、とにかく相手にしたがらないのだが今回ばかりはそうも言っていられない。
まずは先日借り受けた飛行忍具の礼を伝え様子を窺うも、反応ははかばかしくなかった。
ここは下手な小細工など弄するより真っ向からぶつかる方がよいのかも知れぬ、と単刀直入に、
「貴様の主に頭を下げられたぞ。様子がおかしいその訳を聞き出してくれ、と」
主という言葉に反応したのか、ようやく佐助の意識がかすがの方を向く。
「忍であるわたしに対して主に頭を下げさせるなど、いったいどういう了見だ貴様」
更に幸村を出汁にすれば、
「あー⋯⋯」
情けないような困ったような鈍い笑みがその顔をいろどり、
「参ったなァ⋯⋯」
心底参っているとわかるその声音に、かすがは眉をひそめた。
「何があった? 奥州へ行ってから様子がおかしいと聞いたが」
「うん⋯⋯ちょっと、ね」
ふだんは必要以上に軽い佐助の口がここまで重くなっていることがそもそも非常事態だ。
「真田には言えぬことか」
「聞かせられないねえ⋯⋯」
「そうか。ならばわたしが聞いても仕方ないな」
幸村に知られたくないというのなら、無理に聞き出す義理も、聞き出して幸村に告げる義理もかすがにはない。
「真田にはそのまま伝えておく」
何があったか知らんがそこでいつまでも腐っていろ、と冷たく斬って捨て、きびすを返そうとしたかすがを、
「ちょっと待ってよ」
力ない声が呼び止めた。
「旦那には黙ってて欲しいけど、聞いてくんない?」
貸した飛行忍具の礼はそれでいいよ、と口調はいまだ常のしたたかさを失っているものの、言うことだけは生来のふてぶてしさを取り戻した佐助が甘えた声を出す。
「⋯⋯」
内心でホッとしてしまった自分に舌打ちし、しかしそれを面に出すことは堪え、
「わかった、それで貸し借りナシだからな」
強く念を押し、かすがは佐助の寝そべる枝の一本上のそれへと跳躍した。
こうして、かすがは佐助と竜の右目との理(わり)ない関係を聞かされることになる。
望みもしないのに顔見知り同士の下世話な関係を教えられる羽目に遭い、苦虫を数匹まとめて噛み潰したような忌々しげな表情を見せたかすがだが、流石にくのいち、狼狽することなく最後まで聞き終えて、開口一番、貴様は馬鹿かと佐助に容赦のない罵声を見舞った。
「竜の右目は賢明だな」
「どういう、こと⋯⋯?」
「⋯⋯」
彼らの縁に己がどこまで介入すべきかをかすがは迷い、言葉を躊躇う。第三者だからこそ見えてしまうものもあるが、だからと言って何もかもをあばくことが良いとも正しいとも限らない。どこまで指摘していいものだろうか。
「竜の右目は貴様の覚悟がないと見て取って、貴様を切り捨てたのだろう」
「捨て、え⋯⋯!?」
「違うのか」
「違い、ません⋯⋯」
頭を抱えてうずくまる佐助の後頭部を見下ろし、かすがは大仰に溜め息をついた。
彼らどちらの味方でもない以上、かすがには一方に肩入れする気も、その必要もないのだが、眼下で萎れている佐助の姿がどうにも許し難く、つい多弁になってしまう。
「あの男が貴様を突き放した理由、本気で解らんのか」
この忍はあの男の想いに気付いていないのか。
そもそも竜の右目は気付かせる気があったのか、なかったのか。
いや、それ以前に――、
「貴様、まさか気付いていないわけではあるまいな⋯⋯?」
一抹の不安にかられ、かすがは恐るおそるその問いを口にした。
「なにが?」
「貴様自身の気持ちに、だ」
「?」
冗談でも惚けでもない困惑顔で見上げて来る佐助に本気の眩暈を覚え、かすがはこめかみを押さえた。
よもや自身の執着の根底にあるものが何であるかを知らぬなど、とんだ茶番ではないか。
こういう役目は前田の風来坊が適任なのだ。押し付けられるものなら押し付けてしまいたい。だが生憎いまここに慶次はいない。
一刻も早くこの場から立ち去りたい一心で、彼女は腹を括った。
もうすべてぶちまけてしまえ。
後の彼らに修羅場が待っていようと自分の知ったことではない。そこまでの責任は取れない。
「貴様、存外鈍かったのだな」
呆れ果てたぞと厭味を言いつつも、躊躇いを捨ててひと息に核心を突き付けた。
「本来我ら忍には必要のない感情(もの)がひとつあるだろう」
「!」
雷に打たれたように棒立ちになり、佐助は声を飲む。
「冗談、だろ⋯⋯?」
目を見開き唖然と呟く男に憐憫の眼差しを向けたかすがは、けれど佐助を蔑む意思など微塵も持ち合わせてはいなかった。眼下の忍の姿は、かつての己のそれだと知っている。
佐助の動揺は、だからわかるのだ。
忍として優秀であればある程、受け入れ難い現実であろうことも。
――わたしもあのお方に出会ってしまったからな⋯⋯。
こんな気持ちは嘘だとそう思い込みたかった。忍が持ち得て良い感情ではない。捨てなければならない。そうでなければいつかこの想いが邪魔をして、任務をまっとう出来なくなってしまうだろう。その恐怖。
だが無理だった。
あのお方の魅力の前では忍として積み上げてきた修行も鍛錬も厳格な掟もすべてが無力。
忍失格だと皮肉に満ちた笑顔を見せながら、知ってしまった幸福を手放すことがかすがには出来なかった。自嘲の笑みに自尊を塗り込めて、かすがは覚悟を決めたのだ。恋い慕うことで生まれる強さと脆さ、そのどちらをも抱えて行く、と。
「わたしはもう行くぞ」
指摘された事実に打ちのめされ、まだ立ち直れないでいるらしい佐助に応じる余裕がないだろうことを知りつつ、律儀に辞する旨を伝えてかすがはその場から離れた。
幸村には、何も聞き出せなかったと報告しておこう。
それがせめてもの情けだ。
どれほどの時が流れたのか気付けば陽は暮れ落ちて、あたりは深い闇に包まれていた。
その馴染んだ闇の奥深く、佐助の双眸はようやく平生の精気を取り戻し、さんざんに乱れ散らかっていた己の胸郭の片隅にあるものと今は静かに向き合っている。
「ありがと、かすが」
とうにその姿を消したくのいちに礼を言い、佐助は枝上で星空を振り仰いだ。
横っ面を張られた気分だった。
これまでずっと、謙信に恋するかすがを、ときに揶揄いときに危惧し、あやういものと気に掛けて来たのは自分の方だった筈なのだが、その己が、よもや情の罠に嵌るなど。
これではまったく彼女を笑えない。
「かすがには改めて礼のひとつもしないとねえ⋯⋯」
かすがの過去の瑕にまで言及させてしまったのだ、飛行忍具の対価に受け取っていい厚意ではないだろう。
それから、
「真田の旦那にも謝んないとな」
恣意にかまけて真田忍隊隊長としての任務をおろそかにしてしまった。詫びねばなるまい。いや、詫びは働いて返すことにしようか。
「俺様ほんと忍失格だわ」
言葉ほどには悲壮感のない声音でひとりごち、ふふ、と自然に漏れたのは諦観の笑みだった。
「こんなんじゃ右目の旦那に合わせる顔がないや」
――武士でいうところの切腹モノ、ってヤツかな。
この日を境に佐助は忍隊の任務に復帰し、周辺諸国の諜報活動に精を出す日常へと戻って行った。
季節がひとつ巡り、豊臣の残党の一部に不穏な動きがあるというきな臭い噂が人々の耳に聞こえ始めた頃、幸村から託された書状をたずさえた佐助は、ながく訪れていなかった奥州の地へ足を踏み入れていた。
幸村の書状には、自身が信玄の跡目を継ぎ武田軍の総大将となった旨が記されている。
政宗に宛てられたそれは公的な文書ではない私信で、当然佐助も正式な使者という身分ではない。
伊達領手前で大烏を帰し身軽になった佐助は夜陰に乗じて伊達屋敷に侵入すると、政宗の不在を見計らい、その私室の文箱の中へ幸村の書状を潜ませた。
これで任務は完了だ。
しかし忍はまっすぐ甲斐へは帰参せず、小十郎の屋敷へとその進路を変更していた。
中空に浮かぶ月の、丸みを残し、けれど半分ほど腹を欠いた姿が、かの男が背負うそれを彷彿とさせる。
歓迎されないのは端から承知だが、ケリを着けねばならぬ一事が佐助にはあった。
久しぶりに潜入した懐かしい屋敷で、これまでそうしてきたように天井裏を移動する佐助の足は寝所へと向かっていた。
刻限からみて屋敷の主が就寝している可能性は高い。
音もなく這い進み、いざ天井の羽目板をはずそうと手を掛けた、その瞬間。
ドス、と佐助の鼻先を白刃がかすめた。
「!」
天井板を貫き、ふたたび引き抜かれて行ったそれは紛れもない、小十郎の脇差しの一本だ。
「ここへはもう来るなと言わなかったか、武田の忍」
板一枚隔てた足下から聞こえた男の声は寝起きのそれなどではなく明瞭で、天井裏の鼠の正体を微塵も疑っていない。
「言ったねえ」
板に手を掛けたままの姿勢で佐助は答える。
「覚えてんだったらとっとと帰れ」
やはり歓迎はして貰えないらしい。
「今夜は真田の旦那の遣いで来たんだよ」
そう邪険にしなくてもいいんじゃない? 軽口を打てば、
「俺への遣いじゃねえだろうが」
即座に反撃が響く。
「それはまあそうなんだけど」
幸村の用といえば政宗絡みに決まっている。それに気付かぬ小十郎ではない。
「借りをさ、返して貰おうと思ったんだよね。だから会ってくんない?」
「借り、だと?」
「そう。大坂城で、俺様あんたの脱牢手伝ってやったろ?」
「⋯⋯頼んだ覚えはねえがな」
あれはてめえが勝手にしたことだ、と口ではそう反論しながら、けれど決して無碍には出来ないところが片倉小十郎という男のかわいげだ。
そういう性格も好(よ)いと佐助は思う。
「降りてってもいい?」
「好きにしろ」
苦々しげな声に許可されて、佐助は今度こそ本当に羽目板をはずし、室内へとその身を降下させた。
小十郎は一度は床に就いていたらしく、寝間に広げられた敷布には横になった形跡が残っていた。それを視界の端に捉えつつ、佐助は板の間にあぐらをかく。
「ご無沙汰だったねえ、右目の旦那」
「どうだかな」
もとからそう頻繁に顔を合わせていたわけではないし、それが可能な間柄でも立場でもなかった筈だ。それを踏まえてか小十郎の返答は素っ気ない。
「で? どうやって返しゃいいんだ、その借りとやらは」
聞いてやるからとっとと用件を済ませて帰りやがれ、と追い立てんばかりのせっかちな男を宥め、
「まあ待ちなって、そう慌てるもんじゃないよ」
座るようにと促せば、さきほど佐助に向けて繰り出した脇差しを鞘におさめて傍らに置き、屋敷の主は敷布の上に腰を下ろした。
小十郎が身に纏う寝間着の白が薄闇におぼろく滲み、不意に現実味が遠ざかる。
佐助はゆっくりと口をひらいた。
「欲しいものがあるんだ」
ひとつだけ、ね。
途端、盛大に眉間に皺を寄せ、
「⋯⋯いのち、か」
俺の命を奪おうってのか、と不穏な氣を撒き散らす小十郎に手を振ってみせ、
「違う違う、そういうんじゃないよ。だいいち命ってのは貰うもんじゃないでしょ。殺すためには仕留めなきゃなんないもんだけど」
佐助にとって、ひとの命というのは有るか無いか、それだけのものだ。少なくとも、奪うもの、ではない。貰う・奪うが成立するには、それを自分のものに出来なければならない。
だが、命は、有るか無いか、だ。
相手が手放したなら、そこで消えてなくなってしまう。自分の持ち物にはなり得ない。
「じゃあ何なんだ? それは、俺が持っていて、てめえにくれてやれるものなのか」
「ああ。あんたからでなきゃ貰えない。あんただけが持ってるものだからさ」
今まで、欲しいと思う物など佐助にはなかったのだ。主・幸村に対する、この人の信頼を得たいと望む欲は別にして。
その佐助に、生まれて初めて、手に入れたいと願うものが出来てしまった。もっとも、かすがに指摘されるまで、佐助は己のそんな願望にすら気付いていなかったのだが。
「勿体ぶってねえでさっさと言え」
業を煮やしせっつく小十郎を佐助はまっすぐ見つめ返した。
「あんたが独眼竜に捧げない唯一のもの――」
平素のふざけた調子とは様子の違う佐助の雰囲気に、小十郎が身構えたのがわかる。
物など、どんなに大事にしていたとていつかは壊れる。そうでなくとも、たとえば自分が死んでしまったら、どうすることもできなくなる。遺すことに意味はなく、ならば持つことにも意味はない。
だから執着などなかったのだ。
その筈だった。
だが。
「それを俺様にくれない?」
「⋯⋯」
「右目の旦那」
あんたが独眼竜に捧げる忠義心は自分には不要なもの。だからそんなものは要らない、欲しくない。けど、そのかわりに、
「あんたの恋情を」
俺に。
射殺すような鋭い視線が佐助の双眸を、つよい意思をもって貫く。
「覚悟は出来てんだろうな? 忍」
「当然」
いまはもうすべてわかっているから。
何もかも咀嚼し嚥下した上で、いつ途切れるとも知れぬ刹那を重ねてゆくだけだ。
それ以上のなにものをも望まない。
だから――、
「これからもよろしく、右目の旦那」
了 2011.12.29発行『縁累ぬる獣、二尾』より再録:2020.10.24/2020.10.17 微修正