ノートパソコンと向き合った片倉が、ディスプレイを睨み据えたままかれこれ五分は微動だにしていない。
仕事の進捗状況を確認するため、片倉の様子を廊下から覗き見た猿飛は、
――こりゃまたいい感じに煮詰まってるねえ⋯⋯。
胸の裡にそうぼやき、そうっと足音をしのばせ書斎から離れた。足を向けた先は台所である。飲み物を用意してブレイクを促そうと思ったのだ。
大き目のマグカップに使い捨てのフィルタをセットして挽いたコーヒー豆を入れ、ケルトで沸かした湯で充分に蒸らす。その間に茶請けを用意し、それからじっくりと、湯を細く細く丁寧に時間をかけて円をえがくように注ぎ足していく。
いちど煮詰まってしまった片倉は、何かのきっかけがなければまず浮上できない。順調な執筆に戻って貰うためには気分転換が必要だということを、短くはない付き合いの中で既に学んでいる猿飛である。
これまでの経験則上、じきに片倉の方から見切りをつけて書斎から出て来るだろうことはわかっていたが、せっかく前もって気付けたのだ、こちらから一服を提案するのも悪くはないだろう。
食器棚の端に立てかけてある丸盆を卓上に出し、湯気とともに香り立つマグを二つ乗せると、先に出しておいた茶請けも添えて書斎へと運んだ。
「先生、ひと息入れませんか」
驚かせないように呼吸をはかり絶妙のタイミングで声を掛けると、
「⋯⋯猿飛か」
ふう、という吐息と共に肩が落ち、軽くやわらかな素材の細身のフレームの眼鏡をはずした片倉が振り向いた。
「ここらで気分転換しましょうよ」
「⋯⋯そうだな」
行き詰まっている自覚があるらしく、猿飛の提案に素直に頷いて、片倉はノートパソコンの蓋を閉じた。
運んで来たコーヒーを手渡し、フルートグラスに立てた茶請けを片倉の前へ押しやると、途端に怪訝な顔になり凝視し始める。
「ポッキー⋯⋯?」
今日の茶請けはいちご味のチョコ――因みに果肉入りだ――でコーティングされたポッキーだった。
片倉邸でのお茶の時間には、日本茶なら和菓子、コーヒーや紅茶ならチョコやクッキー⋯⋯と、さまざまな茶の子が用意されるが、漬物が供されることはあれど、いわゆるジャンクフードのたぐいが出てくることはごくごく稀だ。
塩味のプリッツならば酒のつまみにすることがないではないが、チョコを、しかもいちご味のそれなどを纏ったポッキーが出て来るのは初めてだった。
「今日は何日でしょう?」
「⋯⋯? 十一月十一日、だな」
壁に掛かっている大判のカレンダーに目を遣って、片倉が律儀に答える。
「では十一月十一日は何の日でしょうか!」
「⋯⋯知らん」
わからん、と碌に考えようともせず降参した片倉を、けれどそれ以上困らせることはせず、
「ポッキーの日なんだってさ」
アラビア数字の一が四つ並んでいるさまを菓子の姿に見立ててそういうらしい、とすんなり正解を教え、猿飛はグラスからあわい桃色のそれを一本引き抜いた。
「見てこれ。ね、噛み口がハート型」
こんなのあるんだなー、ってスーパーで見かけてつい、
「買っちゃったんだよねぇ。せっかくだから食べてみましょうよ」
たまにはこういうのもいいでしょ、と笑って差し出せば、ずい、と片倉の顔が寄せられ、猿飛の手から一本、ぱくりと咥えて持って行ってしまった。
「!?」
片倉の予想外の行動に、ぎゃあ! と一声叫んで固まってしまった猿飛をしり目に、もぐもぐとひたすら口を動かししっかりと嚥下してから、
「そう美味いもんでもねえな」
べ、とこれみよがしに舌を出し、身も蓋もない感想を漏らした文筆家は、ずずっとひとくちコーヒーをすすって涼しげな顔をしている。
「いいいいいいきなりなにすんのさ小十郎さん!」
猿飛の動揺など知らぬげに、
「なんならポッキーゲームでもするか?」
――なんですと!?
さらに目を剥く羽目に陥って、猿飛の脳内はもはや恐慌状態である。実を言えば、猿飛の方こそがこの菓子をダシにゲームをしようと持ち掛ける気でいたものだから、なおさらだ。
「せ、せんせいでもそういう遊びするんだ⋯⋯」
「でもってのはなんなんだ、でもってのは」
「あー、いや⋯⋯その⋯⋯」
言葉の綾というやつですが、と変に敬語が戻って来ているのも混乱の表れなのだろう。
「別に驚くようなことじゃねえだろ」
それは片倉が作家としてデビューしたての、駆け出しでペーペーだった頃の話だ。そのころはまだ若造で、世話になっている出版社に絡む出版記念パーティだの受賞パーティだのに招待されると断るのも憚られる身分であったから、いやいやながらも出席してみれば、パーティがはけたあと、同席していた大御所と呼ばれる作家先生のわがままに付き合わされて、あちこち連れまわされ、不本意にも、
「銀座やら六本木やらの高級クラブ連れてかれてな」
きらっきらに着飾って香水の匂いぷんぷんさせたオネェちゃんに囲まれて、挙句アホみたいに幼稚な遊びに付き合わされてな、本気で辟易したもんだ、と当時のことを思い出しているのか、片倉の眉間の皺は通常の三割増しで深い。
「ああいう人間にだけはなるまいと思ったもんだ」
表向きはちやほやされていたが、どう考えてもあれはおべっかで煽てられていただけだ。
「滑稽っていうのはああいうことなんだ、ってな。まあ実地でいい勉強にはなったぜ」
皮肉っぽく口端を歪める片倉から視線をそらし、猿飛はうつむいた。
「⋯⋯じゃあ、先生はさ、そのオネェさんたちとポッキーゲームなんかしちゃったりして盛り上がってたわけだ」
「そういうことだな」
「⋯⋯」
むうっと頬を膨らませ、子供のように拗ねているらしい猿飛の様子に、やれやれ、とひそかに肩を竦めて、
「おまえともやってやるよ。それなら文句はねえだろ?」
大アリだ! と喚きたい気分の猿飛だったが、現金なことながらポッキーゲームの誘惑には勝てず、ほれ、と無造作に突き出されたポッキーを、思わずぱくりと口に咥えてしまっていた。
棒菓子の反対側の端に、がぶりと効果音が聞こえそうな潔さで食いついた片倉の顔が徐々に近付いてくる。
嬉しいような面白くないような複雑な心境で、自分の側からはわずかも動けないでいた猿飛だったが、ちょうど真ん中あたりに差しかかったところで片倉が、やおらパキリと菓子を噛み折ってしまった。
「!? え、あ? えええええ!?」
思わず声を漏らしたせいで、ぽろりと歯列から零れた菓子を、反射神経にものを云わせ床寸前で受け止める。想定外の展開にぽかんと文字通り口を開けて間抜け面をさらす男ににやりと笑ってみせて、片倉は、ふん、とひとつ鼻を鳴らした。
「毎回これで乗り切ってたんだよ」
「どういう、こと⋯⋯?」
「ポッキーゲームの作法なんざ知りません、って態度(てい)でな」
「そうやってボケ倒してたわけ!?」
「とりあえず笑いが取れて、場の空気は悪くならねえ。ついでに、こいつは世間知らずのアホで、無粋で、遊びには精通してないヤツだってことにして貰えるだろ」
遊びの場に同席させるには向かない存在だと周知させるには、それが手っ取り早い方法だったのだ。
「狙いどおり、じきにそういう遊びに誘われることはなくなったし、貼られたレッテルのおかげで面倒な付き合いからも逃げやすくなった。一石二鳥⋯⋯いや三鳥? そんなとこか」
どうでもいい相手にどう思われようと、痛くも痒くもねえからな、と。片倉はそう嘯いたのだが、
「⋯⋯」
猿飛はきゅうっと下唇を噛み、片倉の顔を上目遣いに睨み据えた。
――うそばっかり。
どうでもいい相手の一言にだって揺らぐ心も傷つく気持ちもあるくせに。
「なんだ。何か言いたそうだな?」
先生ってほんとうそつきだよね!
そんでもって意地っ張り!
言ってやりたい言葉はあれこれあったのだが、それらをすべて飲み込んで、
「じゃあさ、俺様とさ、ちゃんと最後までポッキーゲームやろうよ」
片倉がイエスともノーとも答えないうちに、猿飛は桃色の菓子を一本口に咥えると、ほい、とばかりに顎を突き出し続きを促す。
面倒臭せぇな、と絵に描いたような渋面をみせつつも、片倉は猿飛の要求に応え、顔を寄せて来てくれた。
パキポキと小さな粉砕音をたてて棒菓子が短くなっていく。
今度こそは最後まで、と身構えていたのに、
「ええっ!」
またも途中でパキリと折られてしまった。
「ちょっ、待っ⋯⋯!」
けれど今度はその先に、さらなるサプライズが待っていた。
「片倉せ、ん、んん⋯⋯!?」
ちゅ、と。
わざと大きくリップ音を響かせて、くちびるの表面を撫でるだけのくちづけが見舞われたのだ。
「!?」
驚きすぎて目を白黒させている猿飛から、ふいっと顔を背け、
「二度とこんな小道具使ってんじゃねえぞ」
小細工なんざ要らねえだろ、俺とてめえの間には。
ぼそりと声にした片倉の横顔は、耳朶まで赤く染まっていた。
了 2011.12.13 くろととらの出番が作れず無念なり⋯