・手を伸ばせども月は逃げ



「むかし真田の旦那がアレを欲しいって駄々を捏ねてねえ」
 すぐ左隣から聞こえた忍の言葉に、小十郎は杯を傾ける手をとめ、首を巡らせた。
 アレ、と言いながら、佐助が指さしていたのは天空に浮かぶ月だ。半月から満月へと形を変える、そのちょうど中頃の姿が雲の切れ間から覗いている。
「それでてめえはどうしたんだ」
 少し笑いを含んだ声で問えば、
「いくら俺様が優秀な忍でも、空を駆ってアレを盗って来るのは無理だからさあ」
 手桶に水を汲んで、その中に月を映したのだ、と佐助は答えた。
「捕まえてここに入れましたよ、ってね」
 その日は今夜とおなじく雲ひとつない晴天で、桶の中の月が消える心配もなく。
「真田はだまされてくれたのか」
「もちろん!」
 そう言って胸を張る姿がなんだか妙におかしみを誘う。
 小十郎はゆるむ唇端を隠すようにして杯を口に運んだ。杯の中身は、佐助が越後の軍神から分けてもらったと言って片倉邸へ持参した、辛口のにごり酒である。
「旦那ったら、眠くなるまでずーっと、飽きもせずに桶の中の月を眺めてたよ」
 十三夜でも十五夜でもない今宵、月見をしようと言って徳利片手にふらりと姿を見せた佐助を、小十郎は何も訊かずに受け入れていた。
「で、てめえはそれにずっと付き合ってやった、と」
「そうそう」
 空を見上げれば、当然そこにも月があると知れた筈なのだが、目の前の月影に夢中になるあまり、幸村(その頃はまだ弁丸だった)はそんなことには気付きもしなかったようだ。
 佐助に見守られながら、本人は気付かぬうちに桶の前で寝てしまい、翌日、自室の布団の中で目覚めてのち、水だけを湛えた桶を庭先に見つけ、月が逃げたと大騒ぎをしたらしい。
「屋敷中探し回って見つからなくて、城下にまで探しに出るって言い出して」
 当時のことを思い出したのか、佐助の口元がほころぶ。
「夜になるまでどうやって誤魔化そうかって苦心したよ。まったく、子供って生き物は、何を思いつくか解らないよねえ」
 小十郎は、騒々しくも楽しかったのだろうその情景を脳裏に思い描き、今度は本当に笑い声を洩らした。
 陽が落ちれば空には月が昇る。その姿を幸村に見せ、
「あそこがお月さまの帰る場所ですよ、って」
 そう教えたんだよね、と佐助はからになっていた自分の杯を取り上げ、ふたりの間に置かれていた徳利から手酌で酒をついだ。
「後から嘘つきだと詰られたりはしなかったのか?」
「しなかったなあ」
 佐助は杯を持ち上げると、
「だって真田の旦那よ?」
 それはどういう意味かと思わず問い質したくなるようなことを言ってのけ、ぐいと一口で杯を干した。ひと繋ぎの動作で膝上へ降りた空杯に、小十郎はさりげなく徳利を傾けてやる。
 悪いね、と囁くように声にして杯を差し出し、注がれる酒に目を落としていた佐助が、ややあって、
「竜の旦那は、月、欲しがったりしなかった?」
と、訊いてきた。
「政宗様が? そうだな⋯⋯」
 杯を持つ手を宙にとどめて双眸を細め、傅役として政宗(梵天丸)に仕えはじめた頃の記憶をたどり、
「しなかった、な」
 小十郎はゆるりと首を振る。
 天(あま)駆ける竜にとってみれば、月すら欲する対象ではなかったということか。
「そっかあ。なんか想像通りっていうか期待を裏切らないっていうか⋯⋯。やっぱかわいげのない子供だったわけか」
 失礼なことを口走る忍の、行儀悪く立てられた片方の脚の腿をぴしゃりと叩き、
「俺があの方にお仕えするようになる前には、そういうこともあったのかも知れん」
 小十郎は繕うように言ってそっぽを向いた。
「けど竜の旦那らしいじゃない。現実的っていうかさ」
「ふん」
「あら?」
 右目の旦那、臍曲げちまった? と、顔色をうかがうようにして問われるのへ、
「よく知りもしねえてめえが言うな」
 胸糞悪りぃ、と小十郎は眉間にしわをよせる。
「ごめん。⋯⋯適当なこと言って悪かった。謝るからさあ、機嫌直してくれよ、な?」
「⋯⋯」
 下手に出られるのは業腹だし、なにより大人げのない己の態度に愛想が尽きそうで、口をへの字に曲げたまま顔を前に戻せば、佐助の肩から力が抜けたのが気配でわかる。
「じゃあさ、もし、独眼竜に月が欲しいって言われたとしたら、あんたはどうした?」
「無理だと申し上げたさ」
 即答。
 ――実直過ぎて愚直で、融通が利かない。
「あんたらしいね」
 佐助がふっと息を吐いて笑う。
「俺はあんたのそういうところが好きで、あんたのそういうところが嫌いで、怖いよ」
「⋯⋯てめえはまた訳のわからんことを」
「うん」
 わからなくていいよ、と独り言のように呟いた佐助の声を最後に長い沈黙が落ち、銚子の中の酒が飲み尽くされるまで、それは続いた。




 最後の杯を干したのを潮に、佐助が腰を上げた。いつもの彼がそうであるように、この日もまた、夜明けを待たず甲斐へと発つつもりであるらしい。
「右目の旦那」
「ん?」
「半月の夜には俺はあんたを想うよ、どこにいても。だからさ、あんたも半月を見たら想ってくれよ、あんたのことを想ってる俺のことをさ」






了 2010.12.22

・さすこじゅ愛護週間(※):
(※) 1月1日をスタートに、350日目から356日目(今年は12/16から12/22)までをさすこじゅ愛護週間にしよう、とのTADさんの発案による。最終日ギリギリ(23時47分あたり)にmemoに突っ込んだものを改めてBSR部屋にもアップしました。